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ハル  作者: こんにゃく
10/13

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 家に帰り、母さんから借りていた鍵で玄関をあける。玄関のドアが大仰に音を立てて開くので深夜だし大丈夫だろうかと思いつつ、誰もやってくる様子はない。玄関には電気がついている。消しておいていいといったのに、母さんだろう。足音を忍ばせて階段を上る。リビングで寝ているであろうハルが起きてきたらどうしようかと思うが、あの人懐っこい犬のことだからそういう神経質なとこはないだろう。人の気配のない階段も廊下も寒さのせいかひっそりと静まり返っている。まだ小学生だったときは、引っ越してきたばかりで殺風景なのもあって一人で電気をつけないで歩くのが怖かったから、階段も廊下も玄関も全部電気をつけっぱなしにしては父さんに怒られていた。でも、それから夜になると玄関の電気だけはいつもつけておいてくれていたし、父さんも怒ることはなかった。そういうことをふと思い出して、はあ、と自然に息が漏れる。

 そっと部屋のドアを閉め、スウェットに着替える。風呂は明日入って、そうしてアパートに帰ろう。化粧を落すのも面倒でそのまま布団にうつぶせになって寝転んだ。と、その時。

「春也、帰ってきたのか」

 少しかすれて響く声は、まぎれもなく父さんの声だった。あわてて起き上がり、布団の上に正座をする。いつも寡黙な父さんが話しかけてくるのは本当に稀で、それこそ家を出るときに初めて父さんと向き合ったようなものだから、なんともいえない緊張に背筋が伸びる。

「た、ただいま」

「ああ。ちょっと、入るぞ」

「うん」

 僕の返事と同時に父さんが入ってくる。ストライプ柄のパジャマに上からフリースを羽織っている。少し見ないうちに小さくなったような気がしないでもない。髪の毛もいつも会社に行っているときとは違って、セットされていないからか幼く見えるのに、顔は年相応で少し疲れている。メガネが蛍光灯の光に反射して、表情をわからなくさせる。父さんは僕をじっと見て、何を言おうか考えあぐねているような感じだった。足は素足で、寒そう。

「……父さん、足寒くないの」

「……ああ……寒いな」

「どうぞ」

 布団に招く。僕はずりずりと少し後ずさった。父さんはしばらく逡巡してから布団の上に座った。向かい合う。大の大人が布団の上で向かい合っているなんておかしな光景だろう。けれど、僕も父さんも笑みがこぼれることはなかった。父さんがメガネをくいっとあげ、その時には反射していなくて彼の真っ直ぐな瞳が僕を見つめていた。



 江野さん、三千十グラム、元気な男の子ですよ。

 分娩室から出てきた看護師が私を呼んだ。気づかないうちに足に力を入れすぎていたのか、長椅子から立ち上がるときにじわりとしびれていたのに気づいた。よろよろと腰を抜かしたように歩く私を見て、義母はふふ、と笑って肩をぽんぽんとたたいた。あの日ほど、情けない笑い方をした日はないだろう。病室に移動してからは赤ん坊は泣きもしないでずっと眠っている。私はその顔を見て何も言えずにいた。私の子ども。長男。男でも女でも無事に生まれてくれるのであればどちらでもよかったが、それでも男児が生まれてくるのはやはり感慨深い。妻は乳児のベッドに眠っている子どもを惚けたように見つめる私を見つめ、くすくすと笑っていた。

「あなたがそんなにぼんやりするなんて」

「子どもが……生まれるのがこんなに嬉しいなんて思っても見なかった」

「これから、嬉しいことがどんどんふえるわ、きっと」

「そうだな。ありがとう」

「こちらこそ、どうぞよろしく」

 少し色白に見える妻はそれでも頬は赤く、元気そうだった。化粧っ気のない顔も美しい妻である。白い掛け布団を首元までかけてやり、ゆっくり休みなさい、と言うと彼女は子どもは私じゃないわよ、と微笑んだ。小さな頃から幼馴染で、まさか結婚するとは思ってもみなかったが今こうして新しい家族を迎えて改めて、彼女を妻としてよかったと思う。そうして眠る赤ん坊の頬に触れ、先の話かもしれないがどうか幸せな家族を持つ男になってほしいと、切に願った。

 そして、恋人がいても、結婚を次第に考えだしても可笑しくない年になった春也は、言ったのだった。

「ゲイだから」

 ゲイ、という言葉の意味がわからないわけでもなかった。男が好きな男であることを示す言葉である、という最低限の知識しかないが、意味わかる。けれども、自分の息子がそう自分に告げてきたことが意味がわからなかったといってよい。春也は、親から見ても物腰の柔らかい子どもに育った。野球やサッカーなど、男の子がやるであろう一通りのスポーツを遊ばせて見たが、彼は室内で静かに絵を描いているのを好んだ。私も小さなころは室内で遊ぶのが好きだったし、親父は昭和生まれのステレオタイプのような人だったから家の中でいると男のクセに、とどなり散らすような人だったので、春也には好きなように遊ばせようと思っていた。休みの日には家族三人で動物園に行ったりしたし、その時には春也とも小さなゴムボールでキャッチボールの真似事をして遊んだ。保育園に行くと他の社宅の子どもたちとも仲良くなり、外で遊ぶようにもなった。といえやはり大人しい春也はたいした我が儘をいうこともなく、思春期らしい思春期もなく、穏やかに成長してくれた。欲を言えば大学まで進学してほしかったが、ほぼ初めてに近い彼の「調理師になりたい」という我が儘を嬉しくも思い、やはり息子には好きな道を選んでほしいと思ってうるさくも言わないでいた。妻も同じで、ただただ彼を見守っていた。

 けれども、そういうことが、そういうことの全てが春也を「ゲイ」にさせてしまったのだろうか。カミングアウトをうけてから、そういうことばかりを考えた。彼が中学や高校の時期に私は仕事が忙しく、そういうことが彼の健全な成長を妨げていたのかもしれない。もっと父親然としているべきだったのか。妻にも言ったことはなかったが、秘かに春也がどんな女性をつれてくるのか楽しみにもしていた。彼が大人しいから似たような、物腰の柔らかくて大人しい女性をつれてくるのか、それとも正反対の快活でよく笑うような女性を連れてくるかもしれない。どっちにしろ、息子が選んだ女性ならばきっと良い人であろう。そういうことを、たまに考えたりもしていた。けれども春也はそうならない。その晩、ひさしぶりに顔を見た春也はまるで女性的で、少しは男らしくしたらどうだ、と少し苦言でも添えようかなどと考えている矢先の、ことだった。空気は凍りつき、そわそわとしていた弘子は動かなくなる。妻も私の隣で息を呑んでおり、私も思考が動かなくなって思わずうつむいた。春也が生まれたときとはまた違う、情けない気持になる。

 それからすぐに、春也の部屋に荷物はほとんどなくなった。私が帰ってきたときにはもう春也はいないで、妻が心なしか落ち込んで私におかえりといったのだった。普段は饒舌な弘子もその日ばかりは沈鬱な面持ちで、誰も春也のことを口に出そうとはしなかった。それからずっと、いまだに、心の整理は付かないでいる。春也が出て行って三ヶ月ほどして、妻はしびれを切らしたように私に言った。

「あの子は、何も、悪いことはしていないのに」

 寝る寸前、二つ並んだベッドに横になってから、背を向けて妻はそう言った。声を震わせている。彼女も、ずっと心の整理がつかないままであったのだろう。その口調はもちろんもう帰ってくるな、と勘当を言い渡した私を責めていて、引き止められなかった自分自身も責めているようでもあった。ただ、私はその言葉を聞いたまま肯定も否定もできないでいる。家を出て行くことは働いているのだし、当然であったはずだ。けれども、あのカミングアウトが、どうしても、受け入れられなかった。

 おそらく、彼は彼で苦しんだに違いない。毎年入ってくる新入社員は春也と同じ年頃で、社内恋愛を経て結婚しているものもいる。男女が触れ合って、結婚をして、家庭を築く。それが普通であると思っていたし、それ以外があることなど考えもしなかった。春也が生まれたあの時に、どうか幸せな家庭を持って欲しいと願ったこと、そのこと自体が間違いだったのか。おそらく、妻が言うように春也が悪いわけではないのだろう。とはいえ、私たちも、間違いを犯したというわけではないのに。


 春也が出て行って、およそ二年が経った。妻とも弘子とも春也の話題はほぼ出ない。わ私はもう思い出さないようにしていた。

「部長、健康診断の結果です」

 秋口に社内で受けた健康診断の結果を、事務社員が持ってきた。ありがとう、と受け取ると彼女はしばらく私のデスクの前から動こうとしない。どうした、と目で問うて見るとはにかむようにして笑う。

「いえ、失礼なんですが、部長が私の父に似ていて……お幾つかな、と思ってまして」

「いくつに見える」

「五十……後半ぐらいですか」

 新美さん、と、後ろから呼ばれて彼女は振り向きながら返事をする。すみません、急ぎみたいなので、と、答える前に彼女は去って言った。肩透かしを食らったような気になりつつ健康診断の封筒の口をあける。カタカナと数値がいくつか示されているのだが、その中で米印の付いているものがいくつかあって、時間があったら専門医に見てもらったほうがよい、と印字してある。お、と口には出さないが口は開いてしまった。年だからか、と思いつつ紙を封筒にしまってカバンの中に入れた。


「この数値は問題ないみたいですね、まあちょっとコレステロール値が高いぐらいですし、江野さんぐらいのお年だったらごく正常です。高血圧もないし、ええ、健康ですよ」

 妻も、どうせなら見てもらったら良いというので時間をとって病院に行くと、担当医は若い快活な女医だった。ニコニコしていて人当たりもよい。看護師とのやりとりはまるで友人どうしのようで、若干不安を覚えないでもないが生気がないよりはよっぽどよいだろう。女医の説明を聞くとはなしに聞いていたのだが、ふと、彼女の顔から笑顔が消えて真剣にレントゲン写真のようなものを見つめている。自然と顔がそちらによっていく。

「ただ、ちょっと、ここなんですけどね。ちょっと気になるのがあって」

 女医がシルバーのボールペンで胃の部分を示す。



「……年末、春也を呼ぼうか」

 そう言うと、妻は驚いたような顔を向けた。私は自分がなぜそういう心持になったのかもうまく説明できないではいたが、彼女はそれ以上問うてこようとはしなかった。もちろん、彼がゲイであるということを、理解はできない。今でも、いつでもいいから結婚して欲しい、という気でもいる。妻は、連絡してみますね、とだけ言った。

 そして二年ぶりに帰ってきた春也は少し痩せたようだったが、元気そうだった。今付き合っている、と紹介された石本泉を見たときは、やはりからだがこわばるようでもあったが、彼は彼でとても人好きのする性格で、弘子はすぐに打ち解けていた。その夜はゆっくりと穏やかに過ぎていった。二年会っていなくても、心にかすかな澱が残っていても、家族は家族だった。

 その滞在ではほぼ春也と話すこともなく、彼はアパートに帰っていった。そして正月があけて一週間の休みがもらえたというのでまた帰ってくる、と妻が言う。弘子も楽しみにしているようだった。いい加減、向き合わなくてはいけないのだろう、と自分自身に言い聞かせた。

 予告どおりに帰ってきた春也は、高校時代の友人と飲んできたといい少し頬を赤くし、それでも私を目の前にしているから緊張しているらしく布団の上で正座をしている。暖房器具のないこの部屋は静かに冷えており、肩に寒気が下りてくる。寒いでしょう、と気を利かせてくれたらしく私は春也の布団の上にあぐらをかいた。こうした至近距離で見て初めて春也が化粧をしていることに気づいた。いつからそういうことをするのか、もっとも私が知らないだけだったのかもしれない。

 何を言い出そうか迷っていると、春也が恐る恐る口を開いた。

「あの……家に呼んでくれて、ありがとう……」

「いや……」

「僕……もう、ここには帰って来れないって思ってて、だから、父さんが……僕は、やっぱり、ゲイだから、そういうことで、きっと父さんを困らせたりとか苦しめたりとか……してると思う。でも、それでも……」

 春也は言葉を詰まらせた。私の咽喉もうまく開かない。部下には言いたいことは上司でもはっきり言えというくせに、こういうときは言葉にならない。いろいろ言いたいことがあったはずだ。言わなければいけないこともあったはずだ。問いただしたいこともあったはずだ。けれども、彼は、私の前に座るのはたった一人の息子だった。手を伸ばし、彼の肩に手を置く。薄い肩からは確かに温度が伝わってくる。息子にこうして触れたのはいつぶりだっただろう。春也はかすかに震えていて、私を見つめていた。二ヶ月ほど前に弘子が犬を飼いたいと言ったときににわかに反対はしたものの、そこまで強く反対する気もなく、弘子が見せてきた仔犬の写真はどことなく春也を思い起こさせて、結局飼うことになった。弘子はその犬にハル、と名づけた。妻はまるで春也が死んだみたいじゃないの、と笑ったが、内心はどうだったかわからない。私もなんとなく呼びづらい気もしていたが、ハルがなつくにつれて春也に対する気持も次第にほどけていたのかもしれない。今目の前にいる春也は泣きそうになって目を赤くしているが、私の息子だ。

「おかえり」

「ただいま」

 春也の瞳から涙がこぼれる。

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