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朝、目がさめるとひどく乾燥していることに気づいた。加湿器を買うかと迷っていたけれど、やっぱり買おうか。せき込みながら立ち上がって水を飲もうとキッチンで蛇口をひねる。11月の朝の空気は冷たく、室内はあたたかな朝陽に照らされているが気温は低い。そのままシャワーを浴び、冷蔵庫からパックの野菜ジュースを取り出した。その頃にはすっかりイズミも目を覚ましていて、ベッドの中からぱっちり目を開いてこちらを見ている。
「今日、休みでよかったな、寝過ごしたかと思った」
イズミはそういうものの大して動じもせずに、自分にも野菜ジュースをくれと言う。黙ったままもう一本、冷蔵庫からパックを取り出して投げた。彼はベッドに腰掛けてジュースを飲んでいる。
僕はパンツ一枚のまま、まだ熱を帯びた体をダイニングのテーブルの上にぴたりとつけた。驚くほど冷えたテーブルの、偽の木目の温度は僕に何も与えてくれない。これぐらいひどく扱われたほうが、よっぽどいいのに、と根拠もなくなんとなく思う。
昨日はイズミがコンビニで買ってきたおでんを食べて、ビールを飲んで、寝た。二週間ぶりにあったイズミは少し痩せたようにも見えたが、相変わらずで、あたたかな夜だった。そういう夜を過ごした次の日、僕はきまって罪悪感みたいなものにとりつかれる。それは衝動的な死への焦燥感にも似ている。なんていうだけで、死ぬわけでもないし死にたいわけでもないのだけれど。
「ハルの携帯、チカチカしてるよ。メール?」
ゆっくり体を起こしてイズミのほうに顔を向けると、彼は僕に携帯電話を差し出している。いつもサイレントモードにしているので、メールや電話の履歴をチェックするのは一日に一回ぐらいだ。メルマガの登録もしていないし、届くメールはイズミか店くらいだが、たまにくる高校時代の友人や、専門学校時代の友人からのメールは、少し見るのがつらくも思う。大体がクラス会や飲み会の誘いで、僕なんかそんなに誘いたいと思っているのかわからないが適当に理由をつけて断れば、それだけと済まされるのに、わざわざメールなんかしてこなくてもいい。僕が行くことなど、所詮気にしてもいないだろうに、それがまた、少しつらい。もちろん、自分が誰かの心の中に大きなスペースを持ちえるような人間だとおごるつもりはない。たぶん人間は、それでも、自分だけを見て、愛し、大切にしてくれる人を探している。
「電話かな」
「ちゃんとチェックしな」
彼から携帯電話を受け取る。LEDライトが緑色に点滅している。電話の不在着信だ。開くと、いつぶりか、実家からで留守録も残っている。そのまま消してしまってもよかったのだが、何かあったのかもしれないと静かに再生ボタンを押す。しばらく戸惑っているような沈黙があり、懐かしい母の声が聞こえてきた。
『春也、連絡ないけれど、元気?最近寒いけど風邪引いてない?年末には……一度こっちに帰ってこない?もう二年は帰ってきてないんだから……その、今お付き合いしてる人もいるならね、つれてきてもいいし……父さんも母さんも弘子も、会いたがってるのよ』
最後は誰かに呼ばれたらしく、母が向こう側にはーい、とかすかに答える声で切れていた。僕はもう一度聞き返し、どくりどくりと自分の鼓動が早くなるのを感じた。もう何年も帰っていない実家。妹の弘子はもう高校生になっているはずだ。父は、母は、変っただろうか。連絡がないから、実家から少し離れたところに住む祖母も健在なのだろう。
あの家の雰囲気を思い出す。お世辞にも綺麗とはいえない中古住宅だったが、僕が小学校二年生のときに引っ越してきてからはずっとそこで暮らしている。今も。古びたステップの前にある門はさびていて、引っ越してきた当初からぎいぎいと音を立てた。風の強い夜は勝手に開いてしまって、どこかに飛んでいってしまうのではないかと思うほどの音を立てていた。玄関もそんなに広くはなかった。下駄箱には家族四人分の靴がぎゅうぎゅうになっていて、たたきの上にも、普段はかないのにしまえないという理由から常に五、六足は靴が並んでいた。玄関をあがってすぐ右手がトイレ、まっすぐにいけば廊下に沿うようにダイニングとキッチンがあって、いったん廊下をぬけてリビングに入らないとダイニングにもキッチンにもいけない。ダイニングとキッチンの反対側にはふすま、その奥には和室と仏壇、そうして階段もある。階段をあがってすぐが僕の部屋、右手の小さな廊下の右手には両親の寝室、廊下の奥に弘子の部屋。僕は、その小さな幸福をいとなむ家庭から飛び出した。
「誰からだった?」
しばらく呆然としてた僕を見かねたのか、イズミが立ち上がってこちらまでやってくる。風邪ひくだろ、とスウェットを僕の肩にかけた。僕はそれと交換で、彼に携帯電話を渡す。イズミは画面を確認し、留守録を聞いている。
「お母さんじゃん」
「うん」
「帰るの?」
「帰らない……出てけって言われたんだし」
「でも、帰っておいでって言ってるじゃん」
「そうだけど……」
僕に帰る資格があるのか、そう問えばイズミはばかなことを、と笑うだろう。そうして、帰ってもいいのだと温かく後押ししてくれるだろう。なのにたぶん、僕はそれを受け入れられない。本当はもっと、ひどく拒絶されてしまえばいいと、思っている。優しくなんかしないで、と、叫びたくなる。殺してくれと泣き喚きたくなる。いっそのこと僕には、そんな資格ないのだといって欲しい。僕は男で、男を愛し、それはきっと父や母や弘子には未知のことであったに違いない。
凍りついた空気、震えていた母の肩、弘子の吐息、そしてうつむいていた父。僕の視界はあっけなく歪んで崩れていった。カムアウトなんかしなければよかったと、自分なんか生まれてこなければよかったんだと、そう、思った。そう感じた。心の底からただただ。
「ハル」
イズミの温かな手が僕の肩に触れる。今朝は今年一番の冷え込みだと、昨日の天気予報で言っていた。だからだろうか、こんなにも彼の手が暖かいと感じる。愛おしいと感じる。
「年末、帰ればいいよ、俺、一緒に行くよ」
「イズミ」
「帰る資格ないとか、思ってんだろ」
うん、と小さく頷いた。イズミは優しく頭をなでてくれる。彼はいつも、どんなときも、優しい。僕を甘やかすことが、彼の仕事であるみたいに。望めば抱きしめてくれる。望まなくても願えばそれを察してくれる。
「帰るも帰らないも……そりゃハルの自由だけど、でも、俺は、ハルは何も悪いことしてないし、せっかく向こうからも電話がかかってきたんだし、素直になったらいいんじゃないの?自分の家に帰るのに、資格も何もいらないよ」
うん、ともう一度小さく頷く。朝の光が部屋を次第に温かくしていく。
「ハル、お待たせ」
ごちゃごちゃとした人ごみの向こうから、イズミが息を切らせて走ってきた。僕はマフラーを鼻の下あたりまで引き上げて、彼がこっちにくるのをじっと待つ。小さくため息をついたのは疲れたのもあったが、安堵の意味合いが大きい。年末の駅は里帰りの人や、仕事納めに飲みに向う人、まだ休めない人、オトナ、コドモ、全部で埋め尽くされている。人の混ざり合う匂いはときに気持ち悪く、少し苦手だ。イズミは僕のところまで人をかきわけて到着し、膝に手をおいてはあ、と呼吸を整えた。
「待った?」
「ちょっとだけ。電車込んでた?改札すごい人だったね」
「ま、それもあるしこれも」
そう言って彼は誇らしげに細長い紙袋を掲げた。有名なシャンパンの名前の印字してある袋だ。
「いいのに、そんなの」
「いいよ。クリスマスは終わっちゃったけど、一応新年も近いし初めてお邪魔するし」
もう財布すっからかんだよ、とイズミは笑った。僕はマフラーをもっと上まで引き上げる。せっかく塗ったファンデーションが取れてしまうな、と思いつつもそうしないと泣いてしまうような気がした。さ、いこ、とイズミは僕の手を握る。驚いて拒否したものの、彼は平然とまた握ってきた。
「イズミ、まずいよ」
「逆に人の多いとこのほうが、あんまわかんないもんだよ。それにハル、美人だし。今日、化粧綺麗だよ」
黙ってうつむく。せっかくのマスカラも取れてしまいそうだった。
電車に乗って、一時間半。鈍行しかとまらない実家の最寄り駅が近づくにつれて乗客は減っていった。窓の外はすっかり暗闇で、町の灯りも見えない。たまに道路沿いを走るから、信号で止まる車のヘッドライトやテールライトが明るく、クリスマスを過ぎて、片付けを面倒臭がっているらしい民家のイルミネーションが、かすかに見えた。途中、僕が通っていた高校の駅にも止まった。ふと、高校の同級生からメールが来ていたことを思い出した。忘年会だったか新年会だったかのお誘い。彼――甲斐田は高校のときの僕の友達の中でも頻繁に連絡くれる。僕も、高校のときのことを思い出すと甲斐田のことをよく思い出す。授業と授業の間の短い休憩時間に話をしたり、一緒に映画を見たり、CDを借りたり、そういう他愛もないこと。甲斐田は明るくて少し馬鹿で、誰にでも同じように接していた。クラスの話題の中心にいつもいるような彼と自分が仲良く話していたことを思い出すと、こそばゆくもある。
初恋だった。たぶん。
メールを見るたびに、甲斐田が変わらないことを知る。けれど、どうしても返事を打つ気にはなれなかった。
「ハル」
「うん?」
車両内には僕とイズミしかいなかった。がたんがたんとある程度規則的なゆれと、少し重たくかんじる暖房の風が眠りを誘う。イズミが握っていた手に、力をこめたのがわかった。
「緊張してない?」
「してない、かな。逆にイズミの方が緊張してる」
「当たり前だろ。初めてだし何しゃべっていいんだか」
「イズミなら大丈夫だよ」
彼の肩に頭を乗せる。あたたかな感触。甲斐田に触れたことなんか、たぶん一度もなかったろう。でも、とイズミは続ける。
「ハルが帰るって言ったとき、結構意外だった、っていうのも失礼かな」
「……自分で帰れっていったくせに」
「そうだけどさ」
イズミが言わんとしていることはわかっている。でも、僕にも言葉にできることの理由はなかった。ただ、帰ろうかと思ったのだ。また拒絶されるかもしれない、その可能性だって捨てきれないっていうことも分かっている。でも、何かが。イズミがいると思うと、かすかに心強くもあった。マスカラをうすくつけたまつげに触れる。駅はすぐそこにせまっている。