いちごミルク味
昼食を摂り終え、輝の教室である二年七組に戻るとそこには死体があった。
「いつからここは死体置き場になったんだ……」
……詳しく説明するなら、教室の後ろに設置されているロッカーの上に小柄な男が仰向けになっていた。と言うかロッカーの上で惰眠を貪っていた。自分の机、百歩譲っても床で寝るのが常識であるが、男は堂々とロッカーの上を占拠している。教材を取りに来たクラスの人間も、男に気づくと驚きの表情を浮かべた後、その睡眠を妨げるのが恐ろしいのか何もできずにすごすごと帰っていった。
何とかした方が良いよね? でも無理だよ、アイツ絶対起きないもん。と、クラスからひそひそと話し声が聞こえるが、男は全く目を覚ます様子もなく死体であり続けている。
「……」
そして残念なことにその男は久遠輝の友人だった。
「和奏。こいつって俺の知り合いだっけ?」
「ええ。更に言うならば、このクラスで彼と会話をするのはあなただけです」
「そうか」
現界と同じような関係だということに肩を落としながら、輝は男をどうにかするべく近くに寄って行った。
「こいつも学園生だったのか……」
幸せそうな寝顔を浮かべて眠る彼の名は椎名健。現界では輝と同じく中卒のフリーターであり、訳あって多くの時間を共にしてきた男だ。鏡界の健が学園生になっていたのは意外だった。
「起きろシータケ。こんな所で寝てんじゃねえよ。クラスの皆さんに迷惑だろうが」
懐かしいあだ名を呼び、健の耳を引っ張った。人を傷つける意思のない行動にキャンセルは適応されないと教えられていたので、このような多少のお仕置きはセーフだ。
「うにゅぁ」
妙なうめき声を上げながら、健の目が開いていく。
「なんだ、輝か……くぅ」
が、途中で閉じた。
「寝るのかよっ」
「……眠いんだよぅ。二度寝くらいさせてよぅ」
「まだ一度も起きてないだろ」
「じゃあ一度寝する」
「聞き覚えのない単語を作るな」
「…………」
「よし、二度寝なら許可してやるから一度起きろ」
「……起きる」
「よし、偉い子だ」
健はごしごしと目を擦りながら身を起こすと、細い腕を後ろに回し寝癖のついた髪を掻いた。瞼はトロンとしていて気を抜いたら今にも眠ってしまいそうだ。童顔のため、その姿は実年齢よりもずっと幼く見える。
一度起きたから寝る、とか言わせる前に輝はポケットを探り、その中に思っていたものがあることを確認すると、
「むぐっ……」
健の口に飴玉を突っ込んだ。
「はあああ。甘~い」
途端にほんわかとした笑顔を浮かべ飴玉を頬張る健を見て、輝は彼の目を覚ますミッションに成功したことを確信した。
「っは! またいつもの手段に引っかかった!」
気づいた時にはもう遅い。健の意識は完全に覚醒し、飴玉を味わうためにフル稼働していた。
「ぐぐぐぐぐ。いちごミルク味とは卑怯な……ウマいから怒れないじゃんか」
「はいはい。良いからそこをどけよ、シータケ。大体何でロッカーの上で寝てんだよ」
「ロッカーは金属だからひんやりして気持ち良いんだよ!」
「誇らしげに言われても……」
ぴょんと素直にロッカーから飛び降りる健を見、輝は手を目に当てて嘆息した。きっと鏡界でも自分は彼の保護者的役割だったのだろう。このポケットの飴玉がそう告げていた。
ふと視線を感じて健を見ると、彼の二つの眼差しがジッとこちらの目を見つめていた。
「ん~輝、何か雰囲気変わった?」
「……気のせいだろ。五月だしな」
「そっか~。五月だしね~」
こう見えて健は鋭い部分がある。悟られるのも時間の問題かもしれないという予感がした。
「そう言えば午前中は姿を見かけなかったが、どうしたんだ?」
「ん~、寝てたよ。今来たばっか」
来て早々寝てたということになるが、輝はそれを指摘する気にはならなかった。
「あ、昼休み残り五分あるね。良いや、机で二度寝しよ」
健は輝の言葉も待たずに自分の席へと歩き去っていった。途中で女子に何か話しかけられていたようだったが、耳を貸す素振りも見せずに席に座る。そして、尚も何かを言い募る女子を無視したまま小さくなった飴を砕いて胃に収めると、何事もなかったかのように眠りの世界へと旅立った。女子は信じられないといった感じで肩を怒らせながら去って行った。
椎名健は非常にマイペースな男なのだ。
「……相変わらず、万人受けするキャラなのに他人に興味がないヤツだな」
その姿は、輝の知っているシータケこと椎名健そのものだった。健は基本的に自分の興味のある対象としか会話をしようとしない。かく言う輝も出会った当初は健の華麗なるスルーを経験した人だ。
「もう一人、クールで他人に興味のないヤツもいるけどな」
「それは私のことでしょうか」
「決まってるだろ……って和奏、お前いつからそこにいた?」
横を見ると、てっきり自分の席に戻ったものだと思っていた和奏の姿があった。
「ずっといましたよ。……どうやら私も彼の興味の対象ではないのですね」
「どうだろ? 和奏とシータケなら結構反りが合うと思うけどな」
「そうですか。まあ、こちらからどうこうしようとする意志はないので別に良いのですが」
言葉を聞くと冷めた反応だったが、彼女の言う「まあ~ですが」は必ずしも本心でないと輝は知っているので、もしかしたら脈があるかもしれないと思った。
放課後になると、死体が二体に増えていた。片方は言わずもがな、健。
そしてもう片方は、
「全っ然分からなかった……」
輝だ。机にへばりついたまま怨嗟を零している。
「何なんだ、この授業は。いつから数学は英単語を使うようになったんだよ……」
要するに授業に全く付いていけず、心が折れそうになったわけだ。
午後にあったのは数学と英語と物理。一年と一か月のハンディキャップを埋められるはずもなく、輝は教科書の内容を何も理解することができなかった。
仮にテストがあったとしたら輝は記号問題しか答えられないだろう。しかし、その日は近いだろう。赤点を取って留年したくはない。
「勉強しないとヤバいな……」
一年の内容から復習したいところだが、一年の時の教科書は全て処分してしまったらしい。
「仕方ない」
帰りがけに本屋に寄って参考書でも買うことにしよう、と輝は決めた。
「さっきから何をぶつぶつと言っているのよ?」
顔を机から引っぺがして腕に乗せ視線を上げると、鞄を腰の前に抱えた瑞希が輝の前にいた。
「何でもない。……何か用か?」
「用も何も授業終わったのよ。帰るに決まってるでしょう」
「部活は?」
「帰宅部。ほら早く立ちなさいよ」
「あいよ」
瑞希が手を引っ張り、顔が腕から落ちそうになったため、仕方なく身を起こす。
「和奏は……帰ったのか」
教室を見渡しても、談笑する生徒や爆睡するシータケしかいない。和奏はもう帰宅したのだろう。
「ん?」
何故か教室にいた何人かの生徒と目が合った。目が合うとすぐに逸らされ仲間内でのお喋りに戻っていったが、自分のことを噂されているようで良い気分はしなかった。集中すれば聞き取ることはできるだろうが盗み聞きはしたくないので、気にしないことにして帰り支度を手早く済ませ瑞希と共に教室を出た。
その時の輝は、視線が自分だけではなく瑞希にも向けられていたことに気づくことはなかった。瑞希もまた自分への視線など気にしないので同様に意識することなく、二人の去った教室には飛び交う噂話だけが残った。その騒ぎ声で目を覚ました健が不機嫌そうに教室から出て行ったことは、とんだとばっちりだっただろう。