借り物の日常
「ってな感じで、学園に到着したわけだが……」
「何よ?」
「まず俺の上履きはどこだ」
「……あ」
輝は校舎内に入る段階で早速問題に直面していた。当たり前と言えば当たり前だが、出席番号はもちろんのことクラスさえも分からないのだ。百単位である箱の中から自分の上履きを探すのは到底不可能だ。
「そうだ。学生証」
瑞希が思いついて言う。確かに学園生であることを示すそれがあれば、そこには輝の出席番号は載っているだろう。
しかし――
「……家に置いてきた」
「バッカじゃないの!」
瑞希の罵倒に輝は身を縮こまらせた。
「アレだよ。ほら、普段あまり使わないクレジットカードを持ち歩くのって危ないだろ? その感覚で……な?」
「同意を求めるな! んなのあるわけないでしょ! 身分証持たないなんて、逮捕されたらどうすんのよ!?」
「お。財布にT○―ドが入ってたぞ」
「今、あたしはあんたがキャンセルを使えないことを神に感謝したくなったわ……」
瑞希が物騒なことを言う。その足が振り上げられそうになったため、咄嗟に輝が鞄でガードしようと身構える。
と、その時――
「朝っぱらから何をしているのですか、久遠」
――とても冷静な声が言い争う二人の背後から聞こえ、二人はそのままの姿勢で動きを止めた。
そちらに目をやると見慣れた少女の姿が長い髪をたなびかせながら立っていた。鏡界に来てからも輝が気にかけていた数少ない友人の一人、華秋和奏だ。
「おお、和奏か。おはよう」
「おはようございます。……それで、あなた方は道を塞いでいるという自覚はあるのですか?」
和奏に冷ややかに言われ辺りを見渡す。下駄箱の通路で言い争いをしていた二人は、登校してきた学園生の邪魔にしかなっていなかった。
慌てて道を譲り、二人は改めて和奏と対面した。
「そちらの方は?」
「……凪流瑞希よ。初めまして、華秋さん」
和奏に尋ねられ、それに瑞希が一歩前に出てやや突っかかるような態度で自己紹介した。
「私をご存知なのですか。失礼ですが、同じクラスの方でしたか?」
「ううん、そういうわけじゃないけどね」
「そうでしたか。……まあどちらも良いです。改めまして、華秋和奏です」
鞄を前に抱え、和奏が頭を下げる。彼女は無愛想に見えると言われがちだが、礼儀はとても正しく決して不機嫌なわけではない。
「では、先に教室に行かせていただきますね。失礼します」
「あ、待って!」
やるべきことは済んだと言わんばかりに教室に向かおうとする和奏を、不意に何かを思いついたらしい瑞希が呼び止めた。
「あなたって、こいつと同じクラスじゃなかったっけ?」
言いながら輝を親指で指差す瑞希。
「……そうですが、それがどうかしましたか?」
「ちょうど良かったわ。久遠君はこの前のテロの時に一部の記憶を失ってしまったみたいで、学園についてのことをほとんど覚えていないのよ」
「……そうなのですか、久遠?」
驚いても良い場面だったが、和奏の表情は相変わらずその色をたたえることもなく、ただ少し心配するような目で輝を見る。
隣の瑞希を見ると彼女は意味ありげに目配せをしていて、輝はその意図を悟る。要は、同じクラスの彼女にも色々フォローしてもらえということだろう。
「実はそうなんだ。あ、和奏のことは覚えているんだけどな」
「でね」
と瑞希がまくし立てるように言う。
「彼は自分が記憶喪失であることをあまり人に知られたくないそうなのよ。周りの人に心配をかけたくなくてね」
「はあ」
「そこで、華秋さんには久遠君の手助けをして欲しいのよ」
和奏は訝しげに瑞希を見つめていたが、やがて同意を示すように頷いた。
「分かりました。その記憶喪失と言うのがどの程度なのかは分かりませんが、できる限り久遠の手助けをしましょう」
「そ、ありがと」
「……あなたに礼を言われるようなことではありません」
ぶっきらぼうな言い方ではあったが、瑞希は特に気にした様子も見せず
「それじゃ、あとよろしくね」
と言ってさっさと先に行ってしまった。
「ええと、俺が礼を言うべきだよな。ありがとう、和奏」
「どういたしまして、です。では私達も行きましょう。下駄箱の位置は分かりますか?」
「……いや、分からない」
「そうですか。こちらです。確かあなたの番号は……」
全く面倒そうな態度も見せず、それが当たり前であるかのように下駄箱を上から下へと眺める和奏を見て、輝はもう一度心の中で和奏に感謝した。瑞希といい和奏といい、自分の周りには親切な人ばかりで本当に恵まれていたと、そう思う。
和奏のフォローや、午前中は学園の再開に関するお知らせなどで授業がなかったのが幸いして、輝は何とか午前中を乗り切ることができた。
そして昼休み。
「おお、感動した。これが購買のパンの味か」
輝は和奏と一緒に中庭で昼食を摂っていた。初めて食べる購買のパンに輝が感動していると、同じく購買で買ったサンドイッチを手にした和奏が言った。
「この学園は無駄に広いので学食だけじゃなく、こうして購買で買った物を中庭で食べる人も多いみたいです」
「へえ」
確かに広い中庭には、例のシェルターが隠されている大きな木を囲むように何人かの男女がグループを作って昼食を摂っていた。ベンチもいくつか設置されていて、輝と和奏が今腰かけているのもそこだ。
「本当に学園については何も知らないのですね」
「ああ、そうみたいだな」
和奏の言葉に頷いた。記憶喪失ということになっているとは言え、その嘘を和奏に通すのはまだ抵抗がある。
「これから授業が始まりますが、大丈夫ですか?」
「それがネック。いやむしろそれだけがネック」
「何をしに学園に来ているのだか分からなくなる台詞ですね。……まあ、気楽にやれば良いんじゃないでしょうか。これまでのあなたも成績が良かったわけじゃないですし」
「お、マジか。安心した」
ありがとう鏡界の久遠輝、お前も馬鹿だったんだな。さっきの恨み言はどこへやら、輝は自分が過度な期待のされている学園生でなかったことに感謝した。
「…………」
「…………」
説明することも尽き、そもそも食事中に喋ることなどないからか、二人の間の会話は途切れた。現界でも良くあることだったので、輝もさして気にせず惣菜パンを胃に収める。
ふとサンドイッチを少しずつ食べる和奏の様子を横目で見た。淡々とした調子ながらもアルバイトに遅刻した自分を起こしに来てくれたり、今もこうして輝の手助けをしてくれる和奏。交わされるのは必要最低限とも言える会話。
――現界の和奏と鏡界の和奏の間に性格の差などはほとんど感じられない、というのが輝の正直な感想だ。それは、うっかりするとここが鏡界だということすら忘れてしまいそうなほどに。
瑞希の話を聞く限りでは、鏡界と現界の同一人物でも性格が一致しないことや人間関係が異なることは良くあるらしい。輝のように進路が異なることも然り、だ。その点、和奏に現界と鏡界のギャップを感じないのは輝にとって歓迎すべきことだろう。
……ただ、この和奏との関係は鏡界の久遠輝からの借り物であり、自分が築いたものではない。そのことをそう簡単には割り切れないのもまた事実だった。