風の音が聞こえる
街の復興は驚くべきスピードで進んでいた。ものの三日で燃えたビルなどの瓦礫は取り除かれ、既に建物の修理が始まっている。そして街に住んでいた人々は「やれやれ、またかよ」みたいな感じで、さして気にすることもなく普段の生活に戻っていった。
――あれから一週間が過ぎた。
輝が戦争のないパラレルワールド……鏡界に跳んできて、一週間。似たようで違う世界、というものがどれだけ厄介かを思い知らされるには十分な期間だった。
例えば、細かいところなら、戦争や暴力事件などのニュースが全く無かったり。……まあこれはそこまで厄介ではないけれど、自分の常識が通用しない点は多くあった。
例えば、隣の部屋に住む人とマンションで偶然会った時にこちらから挨拶をしたら、その人に「おいマジかよ! 今日は雪なのか!? 畜生!」とでも言いたそうな顔でドン引きされたり。
――例えば、輝が学園に通っていたり。
「……恨むぞ、この世界の久遠輝……」
現界ではフリーターだった輝は、鏡界では学園生だった。
あれから一週間が過ぎ、そして輝は今まさに学園に向かっている。
「恨むのなら現界のあんたを恨みなさい。自分自身を、ね」
輝の隣を歩く瑞希が、一も二もなくそう言った。彼女とのこういった会話にも慣れつつある。
瑞希も輝と同じ学園の制服を着ていて、彼女も学園生であることを示していた。
「大体、あんたくらいの年で進学しなかった人なんてそんなにいないでしょ? 何であんたは進学しなかったのよ」
「そりゃあそうだけど……色々事情があったんだよ」
慣れない制服の袖を掴み、ため息を吐く。
――繰り返すが、あれから一週間が過ぎた。
あのテロの翌日に収束宣言が出され、輝を含めた民間人は帰宅を許されたため、ようやく自宅に帰った輝をマンションの前で待っていたのは、あの少女――凪流瑞希だった。
そして瑞希は宣言した。
「これからあんたを毎日監視するわ」
それは、迷惑極まりない宣言だった。少なくともその時は。
ところが、瑞希を家に上げ、物凄く回りくどい話(この世界に来たばかりのハイダーは放っておくと危険とか、あんたがハイダーってバレたら自分にも迷惑がかかるとか)を聞いていく内に、どうやら彼女はこの世界に不慣れな輝が迂闊なことをして正体がバレるのを防ぐための善意から言っていることが伝わり、輝はありがたく彼女の言うところの“監視”を受けることにしたのだ。
「お前ってさ、やっぱ良いヤツだよな」
と言ったら速攻で殴られたあたり、やはり瑞希は誰かに褒められるのに弱いんだと輝は思っている。
それから数日が経ち、監視と言う名の教育により輝はようやくこの世界で何とか生活できるほどの知識を身に付けることができた。
……とは言え、鏡界の久遠輝は学園生だということを瑞希から告げられた時には流石に絶望した。就学したら負けだと思っていたから……ではなく、ただ単に中卒でバイト漬けの自分は学園がどんなところかさっぱり分からないからだ。
本当のことを言えば、家に制服がある時点でこりゃあヤバいと思っていたが、鏡界の久遠輝にコスプレの趣味があるんだと自分に言い聞かせていたため、自分が学園生だと知った時のショックは余計に大きかった。
「あんた、明日学園行くわよ。あたしもそこに通っているから途中までは一緒に行くけど、細かいフォローなんてできないからくれぐれも気をつけなさい」
と、瑞希が輝の儚い希望を打ち砕いたのが昨日。
必死に登校拒否の意思を示したのだが、今朝わざわざ迎え(家のチャイムを連打し)に来てくれやがった瑞希を追い返すことができず、輝は何年かぶりに制服なるものに腕を通すことになったのだ。
そして、今に至るというわけだ。
「ため息なんか吐いたって現実は変わらないわ。これから生きていくには、鏡界の久遠輝の人間関係とか生活を知らなきゃダメでしょ?」
「正論です。……しっかしなあ」
「しかし、なあに?」
その猫撫で声怖ぇよ……なんて言ったら自分の命が危ないから言わないけれど。
「いやさ、俺はこの世界――鏡界で学園に通ったりして生きていかなきゃいけないんだなあ、って思ってな。……なんつーか、実感が湧かないんだよ。いきなり並行世界に跳ばされてさ、ここで今日から暮らせって言われたって」
そんな輝に、瑞希は口調を改め聞いてきた。
「現界に戻りたい?」
「うーん。そら、まだ判断できないな」
「……」
「なんか、意外そうな顔してるな?」
「……まともな神経がある人なら帰りたいって思うわ」
「毒のある言い方をありがとう」
「で? どうしてまだ判断できないの?」
「何かさ、この世界に俺が来たのは意味があるんじゃないかなーって思うんだ。もしかしたら」
「……何、そのどこかで聞いたようなセリフ」
「いやいや、実際こうでも考えなきゃどんな世界でも生きてけねぇよ。世の中、意味なんてないものが大半だろ? 毎日学校行ってさ、会社で働いてたりさ……何の為に生きてるんだかたまーに分からなくなる時ってあんじゃん。
だから、意味を探すんだよ。その可能性がある限り、どんなにくだらないことでも投げ出さない……ってか飽きないようにか? 俺はそうしたいと思っている」
「……つまり、そうやって自分を騙すと?」
「有り体に言えばそうだな。自分を騙して、励まして、生きる」
「ふーん。何か……前向きなのか、後ろ向きなのかビミョーね」
「前向きだよ。俺は後ろを向くのも、時間に解決させるのも嫌いなんだ。
もちろん、戻れる方法があるなら探したいけど、今はまだこの世界を知りたいと思っているのもホント」
「じゃ、学園が楽しみね」
「……今、忘れかけてたわ。学園はやっぱなぁ……行きたくないんだよ……」
自分で言っといてアレだけど、数学とか英語の授業の意味探しなんて意味あんの?
と、がっくりとする輝を置いて瑞希は先に行ってしまう。二、三歩進むと立ち止まり、こちらを振り返った。スカートがふわりと翻り、一瞬瑞希の健康そうな太ももが露わになる。
「ほら、意味を探しに行くんじゃないの? 早くしなさいよ、輝」
そう言って歩き出す瑞希の姿は、どことなく嬉しそうで、笑っているようで。それを眺める輝は、瑞希がまた新しい表情を見せたことを微かに意識する。
数日一緒に過ごしたけれど、この少女は表情がころころ変わるので見ていて飽きないというのが輝の心境だ。
「学園ねえ。そう言えば……和奏もあそに通っているんだっけか」
ごたごたしてたから、鏡界では一度も会ってない。顔を見て安心したいところだ。
ぐんぐん先を行ってしまう瑞希の背を見つめ、最後にもう一度だけため息を吐く。それはもう、学園に行くことが億劫だから出るため息ではない。
「行きますか」
呟きを五月の風に乗せ、輝は歩き出した。