名前と名前
「そう。まあ細かな定義は置いておくとして、あんたの住んでいた世界――現界と、今いる世界――鏡界の大きな違いはキャンセルの有無ね。最終的な因果とかはどちらも共通しているわ」
「……因果と言われても何のことかさっぱり」
「運命とかそういうものよ。つまり、現界で生きている人間は鏡界でも生きている。現界で死んだ人間は鏡界でも死ぬ。
例えばAと言う同一人物は二つの世界で同じ因果を持った人生を送っているの。Aは現界と鏡界に同じ年に生まれ、二十八で同じ相手と結婚し、三十で子供を持ち、八十で死ぬ――みたいな感じにね」
「住んでいる人間とその人の大まかな人生は同じなのか……」
「そう。現界と鏡界は表裏一体の世界なの。その人間関係や、文化のレベルまでね。共通点は非常に多いわ」
「じゃあ、さっき並行世界と言ったけど、どうして俺は別の並行世界に跳んでしまったんだ?」
「……その理由はまだ明らかになっていないわ。ただ、あんたみたいに現界から鏡界に跳んで来た人間をここではハイダーと呼ぶの。
ハイダーは元々こちらの世界の人間ではないから、さっきも言った通りキャンセルは発動しないわ。体は鏡界にあるのに現界のルールに従わなければならない」
「俺はこの世界では異分子だということだよな……。しかもさっきの奴らの驚きっぷりからして、かなりレアなケースだったり?」
「ご名答」
「ご名答ですか……」
並行世界とか、既に自分という存在がある別の世界に跳ぶなんて、どんなファンタジーとかSFの物語だよ、と輝は思う。
「待てよ。じゃあ、元々こちらの世界にいた久遠輝はどうなっているんだ? 鏡界にも久遠輝はいたんだろ?」
「……言いにくいけど、鏡界で生きていた久遠輝は“消えた”はずよ。鏡界の久遠輝はあんた一人しかいないわ」
「消えた? 俺と世界を交換して現界に行ったとか?」
「それは可能性としてはあるかもしれないわね。確かめた人はいないけど」
「……そうか」
本当に理解し難い話ばかりだ。頭が痛くなってくる。
「さて、今話すべきなのはこれくらいかしら。そもそも説明なんて後でも良かった気がするけど」
「……」
そうなんだよな、と内心で同意する。今もまだ完全に安心できる状況ではない。
「ってか、何で俺、テロリストに狙われたんだ?」
「ハイダーには利用価値があるから、捕獲したいんでしょう」
「利用価値?」
「そ。色々ね。さあ、そろそろ移動するわよ。……これを着て」
「ん?」
あからさまに話題を逸らされたような気もするが、ともあれ輝は瑞希から受け取った上着に手を通した。
「血なんか見せたら自分からハイダーですって公言しているようなものだからね。この世界でハイダーは異端の存在よ。狙われるのは何もテロリストだけからじゃない」
「……げ。見つかったら研究施設で実験のためになんちゃら~とかはマジでないよな?」
「…………」
瑞希は肩を竦めた。答えになっていない。
「ま、自分の命のためにも、今後は怪我なんてしないことね。あと、誰にも自分がハイダーであることを明かしちゃダメよ」
「……誰にも?」
「そ。女の子と二人きりの秘密があるなんて嬉しいでしょ?」
意地悪く笑う瑞希だが、輝はそれよりもむしろ、瑞希がどうやら自分のことを秘密にしてくれるみたいであることの方が気になった。
「それは時と場合によるな。……まあ、瑞希が秘密にしてくれるってのはありがたいけどさ」
「なっ!」
途端に瑞希の意地悪そうな笑みが引っ込み、顔に赤みが差した。
「ん? もしかして今、秘密にするって自分が言ったことに気づいたのか」
なんだろう。並行世界について丁寧に説明をした上、自分のことを秘密にしてくれるあたり、瑞希はかなり良いヤツなんじゃないかな、と輝は思う。
「知らない! それより、それを着たのならそろそろシェルターに行くわよ! この街を襲ったテロの残党はほとんど捕えられているはずだし、最初にあたし達を襲ったヤツの所にも仲間が向かったでしょうからね」
「あ、ああ。ところで、ふと思ったんだけどさ、人殺しができないのに何でこんな……街を破壊するようなテロが行われているんだ?」
勢いよく歩き出した瑞希に従いながら、話題を変えたそうな彼女に助け舟を出してやる。
「……あいつらの目的はこの国に経済的なダメージを与えることよ。血を流させられないから、金を流させるの」
「それはまた……何と言うか嫌~な世界だなぁ、ここ。折角人殺しできないんだから、平和に暮らせば良いのに」
「どんな世界であっても、憎むことがヒトの本性なんじゃないの」
「さらりと言うなよ」
的を射ているとは思うけどさ、と輝は少し笑った。
瑞希の指示に従って移動をし、幸い誰からも見つかることもなくシェルターとやらのある場所に到着した。
シェルターは学園の下にあるらしい。名は景悠学園。偶然にも、和奏の通う地元の学園だ。……和奏もここにいるのだろうか。
「何してるのよ? 早くしなさい」
「あ、ああ」
促され、思わず止めてしまっていた足を動かす。
「ここにシェルターがあるなんて、初耳だな……」
「そりゃそうでしょう。これは鏡界にしかないからね」
「……さっきから気になっていたんだけど、お前さ、やたら現界について詳しくないか? こっちの人はみんなそうなのか?」
「それは……まあ人によるかもしれないけど、あんた達の世界の存在に関しては誰もが知ってるわ。現界の人間は鏡界のことを知らないこともね」
「なるほど。確かに俺らの世界では鏡界の存在は知らないな」
「さ、着いたわ。ここに来る途中でも言ったけど、あたしが話を通すからあんたは何も喋らないで」
「分かった」
そこは学園の中庭の中央に立っている大きな木の前だった。大きいと言うよりも、太いと言った方が良いかもしれない。直径で四メートルはある木だ。高さもそれなりにはあるが、とにかく太いことが目につく。ここにシェルターがあるというのが瑞希の話だったが……輝は正直まだ半信半疑だった。
瑞希はその木の前に立ち、おもむろに木の幹に空いていた小さな穴に指を突っ込んだ。
『――指紋認証をクリアしました。市民番号8003589凪流瑞希。所属、シーカー』
機械的な声が聞こえたかと思うと、次の瞬間、木の幹が分かれ、人が四人は並んで通れそうな大きさの扉が現れた。
「ほ、本当にあった……」
思わず驚きの声が小さく漏れてしまった。……不覚にもカッコいいと思ってしまったのは仕方ない。
『……お~う、瑞希か? どうしたん? 一応作戦行動中なんだけどな』
次に扉のモニターフォンから聞こえたのは機械の音声ではなく、やたらと軽薄な感じの男性の声だった。
「……承知しています。作戦行動中に逃げ遅れた一般人を保護しましたので避難をさせに来ました」
『な~るほどね。こっちの通信が途絶えていたから心配したぞ~』
「申し訳ありません。端末を失ってしまいまして」
『まっ、無事だったのなら良いけどね。作戦はほぼ完了したし。
じゃ、瑞希は中田班と合流して残りの掃討に加わって。その男の子はこちらで保護するよ』
「了解しました」
『……ひょっとして』
「はい?」
『その男の子に手ぇつけてたんじゃないだろうね?』
「ぶっ殺すぞ、クソ兄貴!」
『お~う、怖い怖い。じゃあね~』
からからと笑う声を残したまま通信が切れると、瑞希は憎しみを込めて扉を蹴った。
決して意図したわけではないだろうが、それに驚いたかのように扉が開いた。
「えーと、今のは……お兄さんですか?」
「……」
無言でキッと睨まれ、輝は口を閉ざした。怖い怖い。そうだよ、怖いよ。こうなるって分かっていただろうに。あの人絶対確信犯だろ、と輝は思う。
「中に入ったら適当に生きてなさい。怪しまれたら記憶喪失ってことにでもすれば良い。
もう一回言うけど、自分がハイダーであることは絶対に誰にも言わないことね。じゃ」
「あ、おい」
「……何?」
さっさと踵を返してしまう瑞希を輝は呼び止める。
「まだ礼を言ってない。……色々ありがとう」
本当はいくら感謝しても、し足りないくらいだ。今はせめてもの思いを込めて頭を下げる。
「……」
暫く瑞希の言葉がなかったので、輝はゆっくりと頭を上げてみた。
瑞希は服を握り締め、口を開いて何か言うべきか悩んでいるようだった。
そして――
「輝! 死ねる体持ってるからって、簡単に死ぬんじゃないわよ!」
――そう言い残し、手をひらひらと面倒くさそうに振ると、少女は戦場に駆けていった。
「“輝”って……お前だって馴れ馴れしいじゃんか」
でも、その呼び方が対等に扱ってくれた証のように思えて、不思議と悪い心地はしなかった。
[第1話 鏡界 完]