大嫌いなこと
端末は既に設定されていたらしく、輝はそれを右耳に当てた。同時にもう片方の耳の全神経を研ぎ澄まし下の階に傾ける。
集中。余計な雑音は意識の外へと排除する。こぶになった糸を最速でほどくためにはどの糸を引っ張れば良いのかを見極めるような、繊細かつ集中力を多分に使う作業。
そして、輝の耳が必要な情報を捉える。
「瑞希、聞こえるか?」
『……聞こえるわ』
「二人組は何かを話し合っていて、まだ移動はしていないようだ。あと、このマンションはL字型に建設されている。で、こちらの階段からは遠い方の通路のどこかにいるはず」
『……こちらも確認した。間違いなくテロリストの一味ね。隙を窺って仕掛けるわ』
「ああ。また何か動きがあったら連絡する」
端末から耳を離し、ふと自分の手を見つめた。少し汗ばんでいる。だけど、こんな状況でも意外と冷静な自分もいる。今はその冷静さが残ることを祈るばかりだ。
『そろそろ仕掛けるわ。ヘタするとこのマンション吹き飛ぶから、埋もれないようにだけ気をつけなさい』
「……いっ!? 埋もれ……って、それ以前の問題だろ!」
物騒な言葉に思わず言い返したが、それはあっさり無視された。
「っ!」
そして響く銃声。
「くっそ!」
恐怖。加えて、少女一人を危険な状況に追いやっていることへの憤り。……物音を捉えすぎる耳に銃声がガンガンと響き、こめかみを押さえた。
『一人っ!』
瑞希の勇ましい声が端末から聞こえてくる。次いで、三つ重なっていた銃声が一つ減った。どうやら一人倒したようだ。
『……っ! 逃げる気か!』
不意に銃撃戦が止み、足音が遠ざかっていった。
「下か……?」
輝は踊り場から三階に下り、逆側に設置された非常階段に目をやる。
銃を抱えた男が一人、階段を駆け下りていく。そして、それに続いて滑るように階段を下りる瑞希の姿を発見した。
「逸れるわけにはいかないか……」
もう自分にできることはないかもしれない。そんなことは分かっている。しかし、ここで逸れても自衛の手段はないのだ。せめて迷惑にならにように十分な距離を保ちつつ追いかけるのが最善だろう。
「……自分本意な考えだよなぁ」
そこにあるのは自分が助かるための手段だ。そんな自分が嫌になる。
「でも」
そんなことをじっくり考えていられる余裕なんて、あるはずもなかった。
マンションのエントランスに辿り着く。視覚に注ぐ意識を最低限にし、ほぼ全てを聴覚に回して周囲を警戒する。
「うおっ!」
マンション前の道を足音が通り過ぎようとしてることに気づき、輝は集中を解くと咄嗟に柱の陰に隠れた。
「……さっき逃げてた奴か?」
陰から様子をうかがうと、背後を振り返りながら走っていく男が見えた。その視線の先には――瑞希の姿。
「いや……!」
違う! アイツが見ているのは――瑞希の更に後ろ!
そこには銃を構え、瑞希の背中に狙いを定めるテロリストがいて。
そして、それに瑞希は気づいていなくて。
――間に合わない。
そう思った瞬間には、輝の体は既に弾かれたように走り出していた。
「避けろぉおおお!」
咆哮。瑞希が目を見開く姿が一瞬瞼に映る。
――間に合わない。
銃声。空気を切り裂き、飛ぶ鉄の塊。
――間に合わない。
「間に合えぇぇぇぇええっ!」
瑞希を突き飛ばし、射線上に割って入る。
――間に合った!
――間に合った? それは、つまり?
「っ!」
自分が撃たれたということ……?
パッと鮮血が宙に散った。しかし、幸い肩を掠めただけで済んだようだ。物語とかでは度々見かけるシーンだが、実際にはこれだけで死んでしまいそうに痛い。肩を押さえてその場にしゃがみ込む形になった。
「……?」
静寂。追撃がないことに疑問を感じた。これは遊びじゃないのだ。自分はこんな無防備な状況なのに、銃声が止むのはおかしい。
輝は傷から目を離して周りを見渡した。
「……」
何故か瑞希も、逃げていたテロリストも、撃ったテロリストも、目を見開いて自分を見ていた。この空間だけ時間が止まっているようだ。誰も身動きを取らない。
「な、何だ? これ」
まるで……そう、化け物を見るかのような。そんな感じの、戸惑いと、畏怖が滲み出た視線が輝一人に浴びせられている。
「…………!」
「…………! …………!」
突如としてテロリストの二人が大声で会話を始めた。異国の言葉だったので、何を言っているのかは分からない。
そして――
「……! ……!」
彼らは何事か叫びながら輝に銃を向けた。それはまるで、完全に目標が切り替えられたような。彼らにとって何か予想外のことが起きたかのような。
輝はそんな目まぐるしい状況の変化に身動き一つ取れなかった。
「ちいっ!」
そんな中、およそ女の子発して良いレベルじゃないほどにイラついた舌打ちをし、瑞希は呆然と立ち尽くしていた輝の手を掴んだ。
「一旦退くわ……」
輝にだけ聞こえるような声で言うと、瑞希は手を高く振り上げ、地面に手のひら大の何かを投げつけた。
強烈な噴射音。そして曇る視界。火災訓練で体験したような臭い。――それは煙幕だった。
「行くわよ」
ぐいと手を引っ張られ、輝はその誘導に従って走った。どうやら瑞希には見えているらしい。テロリストが何かを叫んでいるようだったが、その声も次第に遠くなっていく。
――そうして輝と瑞希はその場から離脱した。
「って、そんなに簡単に行くわけないか!」
しかし、大通りから路地に入ろうとしたところで、ばったりとテロリストの一味と思われる人物と遭遇してしまった。
「……!」
出会い頭に発砲されたが、輝は瑞希に引っ張られるまま横っ飛びに転がってそれを避けた。近くに止まっていた車の影に潜む。そこでついに輝はその場に座り込んでしまった。
「あんたは、その路地に入って隠れなさい!」
瑞希は輝の耳に口を寄せてそう叫ぶと、銃を取り出し身を乗り出して迎撃を始めた。
銃が火を噴き、火薬の臭いが鼻を刺した。ここは非現実?
「……くそっ!」
情けないことに足が震えて動けなかった。まるでアクション映画の世界にでも入ってしまったかのような錯覚に囚われる。本当にアクション映画ならば良い。だけど、肩の痛みがその錯覚を否定する。言いようのないほどの恐怖。ここは現実。
銃撃戦の合間を縫って瑞希が一瞬だけこちらに目をやった。
「……大丈夫。死なせはしないわ」
たった一目で輝の状況を悟ったのか、彼女は敵を見定めたまま輝を安心させるかのように不敵な笑みを浮かべ言い放った。その横顔に恐怖を払われたような気がした。今なら走れる気がした。――立ち上がる。
「これを」
瑞希が腰のポーチから何かを取り出し、それを素早く輝に手渡した。おそらく先ほどの発煙手榴弾だろう。輝はそれを握りしめるとポケットに入れ、大通りから細い路地へと走り出した。
それに気づいたテロリストがこちらに銃を向けるが、
「行かせるか!」
瑞希の鬼気迫るような連射に阻まれ遮蔽物に身を隠した。
その間に輝はなんとか路地に入り込むことに成功した。
「……っはあ」
そのまま奥へと走ると、壁に手をつき大きく息を吐き出した。その両手が思い出したかのように震え出す。その手をぎこちなく動かし、服の袖を破いて包帯代わりに肩の傷に巻きつけた。
距離が離れたため銃声は微かに聞こえるだけになっている。それほどまでに遠くへ来ていたのか、と輝は思う。
「……」
ふと先ほどのマンションの時を思い出した。まただ……また自分は遠く離れた場所で銃声を耳にしている。
「これで、良いのかよ……」
知らず内に声が漏れていた。
これで、良いのだろうか? 自分一人だけ安全な場所に隠れて。怯えて。震えて。何よりも、瑞希一人を危険に晒して。……しかも、その少女は自分を助けようとしてくれているのだ。
自分だけが、遠く離れた場所で待っている。時間が経てば状況が変わるから。
……時間が経てば? 不意に自分の考えていたことに引っかかるものを感じて思考を止めた。
それは。時間に解決させることは――
「そんなの良いわけねえだろ」
――久遠輝が大嫌いなことだった。