日常の景色
東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。2012/3/11
『音楽界に現れた天才少年』
そう題された特集が全国ネットのテレビで放映されたのは二か月後のことだった。
放映より前からネットで話題になっていたためか、視聴率はかなり取れたらしい。それがきっかけだったのだろう。暫くの間、取材の申し込みが殺到する日々が続いた。また、自宅に大人が尋ねてきて両親と何かを話し合う光景を目にする機会も増えた。輝は当時のことをあまり良く覚えていないが、やたらと“金”という単語が飛び交っていたことだけは印象に残っている。後に判明したことだが、父は多額の借金を抱えていたらしい。過去に相当な無理をしてバンド活動をしていたためだと言う。
世間の目がまだ向いている内にという意向からか、放映から一か月と経たずにCDデビューが決定した。作詞、作曲、編曲、演奏、歌。最終的なミキシングに至るまで、その全ての行程が輝一人の手で行われた。
『たった一人のアルバム』
タイトルだけはレコード会社が付けた。皮肉だったと気付いたのはそれから数年過ぎてからのことだ。アルバムは飛ぶように売れた。理論で塗り固めたような評論家が“所詮子供のお遊びだ”と評したが、そのような声が馬鹿げて聞こえるほどの売れっぷりだった。
一度外に出れば向けられる嫉妬と羨望、そして好奇の視線。しかし、輝は何ら気にすることはなかった。輝の世界は音楽で溢れていて、他人のことなど興味の対象ではなかった。学校は単なる常識を身に付ける場でしかなかったのだ。もちろん、その常識と言うのは主に勉強方面に限ったのだが。
この頃、輝は聴き手であることをやめた。自分が特別なのだと思った。自分だけが、特別なのだと。名のあるミュージシャンの曲や古典音楽と比肩するために、聴き手ではなく常に作り手であろうとした。今思うと、この頃から傲慢な部分が生まれ始めていたのだろう。誰も輝を叱ったりはしなかったのも一因だったかもしれない。
半年が過ぎた。熱が冷めぬ内にセカンドアルバムが発売され、そちらも順調に売れ行きを伸ばした。両親が歓喜するのを目にしても、輝の感情が動かされることはなかった。自分は隔絶された空間で生きているかのように錯覚していた。
「あれ?」
そんなある日のことだった。
マンションの一室。防音処理を施した物件で、そこが輝の音楽活動の拠点だった。両親が輝のために買い与えた部屋で、輝が誰の目を気にすることもなく自由に音楽に浸る空間。
が、その日はいつも持ち歩いているはずの鍵がなかった。これでは中に入れない。
両親に電話を入れれば自宅からすっ飛んでくるだろうが、輝はそれを煩わしいと思った。
――学校の連中が盗んだろうか? そんなことを考えながら、輝はマンションの屋上に上がった。
輝は日常の風景をぼんやりと眺めることが好きだった。そこから曲のイメージを得ることも多かった。中でも屋上からの景色は輝のお気に入りだった。
今でもたまに思い出す。
それは、風が強い日のことだった。
その日の屋上は先客がいた。
華秋和奏という名前の少女だと知るのは、それから一か月も後のことだ。