リメンバー
休日の駅周辺は人に溢れていた。駅の近くに作られた複合施設を目当てとしているのだろう。雑踏の中を輝は当てもなくぶらぶらと歩く。鏡界での久遠輝はどうやらバイトを特にしていないようだ。現界ではこの辺りで良く売り子のバイトをしていたこともある。だから、自分が目的もなくここを訪れるのは初めてかもしれない。
……こんな風に暇を弄ぶように過ごす休日などつい数年前には考えられなかった、と輝は不思議な感慨を抱いた。
生まれてから数年、暇らしい暇など、思い出らしい思い出など、輝にはなかった。休日にどこかへ出かける暇も、放課後に遊ぶ暇も、テスト前に勉強をする暇も。遠足の思い出も、学校の休み時間の思い出も、修学旅行の思い出も、卒業式の思い出も。
何一つとして、ない。
全ての時間を音楽に捧げていた。――捧げさせられていた。
『輝、お前はもっと有名になるんだ。誰にも負けないくらい。音楽の世界は栄光を長く続けられるほど容易くはない。だから、良い曲を作り続けるしかないんだ』
『友達と遊びたい? そんなこと何の金にもなりはしないだろう。お前は曲を作っていれば良いんだよ』
『曲が作れないのか、輝? 頼むよ。うちには輝しかいないんだ。作らないと、全てが壊れてしまう』
「…………」
不意に幼い頃の記憶が蘇った。それは単なる記憶だ。思い出ではない。
立ち尽くす。周りの人の流れがやけにゆっくりと感じた。
――と、その時。
「…………ん?」
音だ。雑踏に紛れて、砂漠の中にあるオアシスのように光り輝く音を、輝の耳が捕えた。それは旋律。ピアノの旋律。絶え間なく紡ぎ出される音が水面に広がるように流れている。
その旋律が何故か輝の耳を捕えて離さない。過去の記憶に思いを馳せていたからだろうか。その音はどこかとても懐かしく感じた。
――この感覚こそ、思い出と言うのではないだろうか?
輝は苦笑を漏らした。こんな自分にも、ただ一つ思い出と呼べるものがあったことに気づいた。引き寄せられるように音の出所に向かう。
彼女は、目を瞑り、まるで祈るようにピアノを弾いていた。小さな骨董屋だ。陽は射さない。しかし、彼女には確かに目には見えないスポットライトが当てられているようだった。まるで一枚の絵画のような神聖さを感じる。
和奏。彼女の名前すら、ただ音を奏でるために付けられたのではないかとすら思ってしまう。
やがて、曲が弾き終わると、スポットライトは徐々に光を弱くしていく。途切れた。
「久遠、こんなところで会うとは奇遇ですね」
和奏は別れを惜しむように鍵盤から指を離した。
「久しぶりに和奏の演奏が聴こえたんだ。……これ、良いピアノだな」
「ええ。何でも店主さんのご自慢の品だとか。ご厚意で、何度か弾かせてもらっています」
「あの曲だよな? 学園の練習の時は一回も弾いたことないから、てっきり忘れたのかと思っていたよ」
「……馬鹿」
和奏は椅子に座ったまま輝の脛に蹴りを入れた。
「あんなに弾いた曲を忘れるはずがありません。音楽とは一度染みついたら離れないものです。心のどこかに残っているのです。
……それとも、あなたの記憶喪失はその時のことすら忘れてしまうものだったのですか?」
げしげしと攻撃の手……この場合は足か……を緩めることなく、和奏は輝の脛を両足で蹴り続ける。一回一回はそうでもないが、こう何度も蹴られると割と本気で痛い。足を上げる度、膝丈まで伸びたスカートから真っ白な太ももが覗き、輝はそれに何となく目を奪われてなかなか逃げることができずにいた。
「……俺だって」
視線を上に上げる。不服なような、それでいてどこか期待するような和奏の目。
「俺だって覚えてるよ。あの曲は。忘れるはずがない」
たとえこれがカモフラージュでなく、本当に記憶喪失だったとしても。きっと、心がその音を覚えているだろう。その、名もない曲を。輝と和奏を結びつけた曲を。
輝は再び過去へと思いを巡らせた。記憶ではなく、思い出を求めて。
久遠輝の人生とは、両親によって敷かれたレールを歩むことに他ならなかった。
幼少。かつては売れないミュージシャンだったと自慢する父が、我が子に楽器を持たせるのは当然と言えば当然だった。
だが、父にも予想できないことが起きた。
ギターを持たせた我が子が、コードすら分からないはずなのに、小さな手で和音を紡ぎ、それに合わせて歌い出したのだ。
「どこで聞いたんだ? その曲?」
父は戸惑いながらも尋ねた。少年は答える。
「あたまのなか」
父も最初は信じなかった。何かのコピー曲だろうと思っていた。ただ「才能があるかもしれないな」とだけ褒めた。
二年が経った。――疑いようもなかった。輝は自分で曲を作っていた。
その曲は不思議と聴く者を魅了した。父と母はようやく我が子の才能の大きさに気づいた。
都会に出向き、講師に本格的なレッスンを受けることとなった。当時、輝は六歳。ヴォーカル、ピアノ、クラシックギター、ヴァイオリン、ドラムス。それ以外にもあらゆるジャンルを学ぶ。同時に音楽理論についても専門の講師を雇う。その知識を生かし、輝は作曲の幅をより一層広げた。
欲しい物は何でも与えられた。ただ、それは楽器や楽譜やレッスンなどの音楽の話であって、学校で友達と過ごすような時間ではなかった。日常生活において困ることのない最低限の知識を学ぶことは許されていたため、学校には通っていた。だが、休み時間になれば否応なく音楽の世界に追い込まれる。学校の教師が両親の頼みを受けて、輝の行動を監視をしていたのだ。
それでも少年は音楽から離れようとはしなかった。他の世界は知らない輝には、音楽の世界が自分の全てだったのだ。そして、音の洪水に身を浸すことが何よりも好きだった。
更に三年が過ぎる。輝は九歳となった。作曲のペースは早い方ではなかったが、作った曲は五百を越えようとしていた。レコーディングも行った。両親はホームページを作り、音源を公開していた。結果は大反響。
声変わり前の幼い歌声。だが決して芯が細いことはなく、人の心を揺さぶった。レコーディングの映像も添えられ、全てのパートの演奏を若干九歳の少年が行っていることが話題を呼んだ。
「テレビの取材が来てるの。出たいよね、輝?」
噂は次第に大きくなり、そんな話を母から聞かされた。
そこから自分の生活が一変することになるとも知らず、輝は頷いたのだった。