隠し事
それから日が少しだけ過ぎ――
「いよいよ来週が発表となりました。今日が本番前最後の授業になります。それでは、各グループ作業を開始してください」
教師の声を受けると、途端に教室が喧騒に包まれた。
最後の合同練習のために楽器を持ち出すグループ、細かい修正点を話し合うグループ。
それらを横目にしながら、輝は机を反転させ、見慣れたメンバーと机を合わせた。
「今日に限って楽器の使用時間が回ってこないってのは残念ね」
メンバーの中では一番不安が残るであろう瑞希が口を開いた。
三日は学園を休んでいた瑞希も今はこうして普通に通うようになっていた。結局何があったのか、彼女の口からはまだ聞いていないが、今いるだけで良しとしよう。詮索は無用だ。
「どのグループも追い込みで忙しいんでしょうね。私達はそもそも楽器の使用時間の話し合いに参加していないので、こんな時は外されても仕方ないです」
「僕は叩きたかったんだけどなー。ねー、輝、今日合わせられないなら帰っても良い?」
和奏が机に楽譜を広げながらそう言うと、健が露骨にむくれた表情を見せた。
「まあまあ、そんなこと言わずに。ほら、飴やるからさ」
「おお! いる! いる!」
「今日は原点に返ってキュービィ○ップだ」
健が飴を口に入れて幸せそうな顔で舐めはじめると、瑞希が若干呆れた調子で二人を睨んだ。
「……あんた達、今授業中だって分かってるの?」
「誰も見ちゃいないって。なー、シータケ」
「なー」
「しかもこの口の中では二つのハーモニーが音楽を奏でているんだ」
「……意味分からない上に、何か余計にムカついてきたわ」
「瑞希、この件に関しては口を挟まない方が賢明ですよ。私達には理解できない世界ですから。
それより、今日はどうしますか、久遠?」
「ん? ま、このまま本番を迎えるってのも不安だけど、今日は特にやることもないし……どうするかなあ……」
「じゃ、あたしのベース見てくれない? 一通り弾くから、変な所あったら教えて」
「おー、それで良いじゃん。そうしよー」
飴を舌で転がしながら、健が新しいおもちゃを見つけたかのような調子でそう言った。
「何で椎名が食いつくのよ……」
「少し面白そうなので私も」
「和奏まで……何でよもう……輝に頼んだつもりだったのに……」
瑞希が呟く。
「やっぱ輝だけで良いってば」
「いや」
と、それまでは黙っていた輝が口を開いた。
「俺はドラムもピアノも専門外だ。そっちの視点からの意見もあった方が良い気がする。
大体、本番じゃもっと多くの人に見られるんだし。三人くらいでビビってちゃダメだろ」
「……言っておくけど別にビビッてなんかいないからね。良いわ、やってやろうじゃない。ええ、やってやるわよ! ちゃんと見てなさい!」
輝が付け加えた明らかな煽りを込めた台詞に、瑞希は面白いほど単純に反応した。
心なしかそんな瑞希の様子に、いつもニコニコ顔の健だけでなく、和奏も微笑んでいるように見えた。
――やっぱ瑞希って負けず嫌いだよな。
そして、何事にも真っ直ぐだ。
人には強い言動で当たるが、それは自分がどんなことにも努力を惜しまずにいることの証拠でもある。
どこか、自分には決してない何かを持っている。そんな気がするから、きっと和奏も健も瑞希とあっさり打ち解けられたのだ。もちろん、輝も。
瑞希の演奏が終わると、三人は瑞希の努力の度合いを改めて思い知らされた。
楽器始めて一か月も経たない初心者とはとても思えない。自身もまた経験があるからこそ分かる。
「どうよ? シータケ。ドラマーの意見は?」
「前より安定してる。同じリズム隊として不満はないよー」
ドラムとベースは曲のビートを支える役目がある。曲を導くビートがなければ、曲を支える低音がなければ、音楽は成り立たない。その重要な二つの楽器を合わせてリズム隊と呼ぶのだが、当然ながらこの二人の連携も重要になってくる。
健のドラムはアクが強いので合わせにくいが、その健に不満がないと言わせるとは本物だ、と輝は素直に感心した。
「和奏は?」
「私も瑞希は良くできていると思います。特に問題のある箇所は見つかりませんでした」
「だな。俺も和奏に賛成。瑞希、すげえわ」
「どんなもんよ」
ニカっと笑ってみせる。
細かい修正点が全くないわけではないが、あえて指摘するようなものでもない。それより今は、初めての発表を前にして“間違うことなく全部弾けた”という自信を持つことが重要なのだ。
他の二人も同じ意見なのだろう。
「第十八小節と四十五にミスがあった。そこだけ音程がずれていた」
――だから、こんなことを言うはずがないのだ。
「同じベーシストとしての意見よ」
他のグループの、瑞希に喧嘩を吹っかけられて、仲間内で立場がない、よりにもよってベーシスト……でもなければ。こんな露骨な嫌味は。
「ねえねえ、輝。この露骨に小物臭がする女が前に言ってた人ー?」
「……なっ!」
健の発言に輝は頭を抱えたくなりながらも、もうなるようになれという気持ちになった。
「……シータケは相変わらず空気読まないし……ま、良いか」
――どうせなら、この方向のまま行ってしまおう。
「そうそう、そんなこと言っといて実際自分は大した腕じゃなかったりするんだぜ? そうだろ?」
輝が顎でしゃくると、女生徒は心底憎しみを込めたように顔を歪めて答えた。
「私をこんな初心者と比べるつもり?」
「楽器の腕は続けた日の数だけで決まらない。どれだけ本気になったかだ。吹部での練習は毎日本気だったのか?」
「そんなの当たり前じゃ……もう良いわ。どうせ本番になれば分かるだろうし」
「だな。じゃ、俺らも練習あるからそろそろどっかに行ってくれないか」
「……言われなくとも」
憎々しげに吐き捨て女生徒は去って行く。
「ねえ、輝」
「ん、何だ?」
いつの間にか話の中心から外れていた瑞希が輝の肩を軽く叩いた。
「あんた、何でアイツのこと知ってるの? あたし、アイツとの間で起こったこと、あんたに言ったことないわよね?」
「……あ」
瑞希は先ほどの輝達のやり取りですっかり毒気を抜かれてしまったらしく、ただ疑問符を浮かべて尋ねた。
「あーあ、バレちゃったー」
「シータケっ」
手を頭上に掲げて気楽そうに言った健を輝が咎めた。
「…………」
一方で和奏は“私は何も関係ありません”と言わんばかりに楽譜のチェックなどをしている。
「つまりー、輝はあの日の瑞希と小物ちゃんのやり取りが聞こえちゃったんだってさー」
「…………」
輝の耳が常人よりも遥かに良いということを思い出す。確かに、輝ならばあの程度の距離の会話を聞くことなど容易いだろう。
「…………そんなこと一言も……」
「んで、あの日僕らがグループでやることをあっさり賛成したのは、輝が僕らに頼んだからなんだよ。それが、前に言ってた“僕がこのメンバーで曲をやるたった一つの理由”ってこと」
「……私は別にどっちでも構いませんでしたがね。一人でやろうと、何人でやろうと」
楽譜を目で追いながらもしっかり話を聞いていたらしい和奏が口を挟む。
「どうして、黙ってたの?」
以前に“こんな雰囲気じゃ叩きたくない”と健が合同練習を拒否した時に言った言葉の意味を知り、瑞希はキッと輝を睨んだ。
「いや、だって、それは……わざわざ言ったらお節介に思われそうだし……それに」
「それに?」
「……俺だってあそこまでボロクソにシータケや和奏のこと言われて、悔しかったんだよ」
「…………はあ」
瑞希が大きなため息を吐いた。
「何て言うか……あんたも結構面倒な性格してるわよね」
「……悪かったな」
お前が真っ直ぐすぎるだけだろ、という言葉を飲み込んで輝はそうとだけ言った。
「ま、あんたが裏で一枚噛んでたってのは気に食わないけど、最後引き受けてくれた椎名と和奏に免じて見逃すことにするわ。何であれ、きっかけはあたしだしね」
「……どうも」
「それと」
「それと?」
「俄然やる気が湧いたわ。ありがとね」
瑞希はいつもの調子で不敵に笑うのだった。