どこか遠い世界での、誰かの記憶
「状況は把握したわ」
瑞希に促されるまま少しだけ移動し物陰に隠れると、一通り神崎の出会いから先ほどの話を手短に話した。
それが終わると瑞希からも情報を聞く。瑞希の方は第二漁港に不穏な動きがあるから偵察してこいとの命令を受けて、来てみたらこの状況だったということだった。
「……まったく、偵察のつもりだったのに……何でこんなことになってんのよ」
「……っで」
瑞希は肘を輝の頭に振り下ろした。手加減されているもののそれなりに痛い。
「あんたはね、初対面の男のことなんか気にしてないで、さっさとあたしに話せば良かったのよ。
自分と相手、どっちが大事かなんて考えるまでもない」
考えが甘い、と言いたいのだろう。……もっともだ。結果がこれじゃ、否定のしようもなかった。
「……ごめん」
「もう良い。それより今はここからの脱出を考えないと」
「……了解」
第二漁港の地理的に、本島との間に架かっている橋が唯一の道だ。そこを塞がれたら、逃げる術はない。
「来るときはどの経路からだったんだ?」
「海からよ」
「じゃあまた海から逃げれば良いんじゃないのか?」
「…………」
瑞希はしばし顎に手を当て、その手を下ろすと首を縦に振った。
「……それしかないってのは分かってるんだけどね」
「何か問題でも?」
「本来ならば援軍を呼んで、あたし達はこのまま身を隠すってのが正解」
そうできない理由がある。それはつまり、
「……それって、もしかして俺がいるから――」
シーカーを呼べないってことか、と続けようとした言葉は、しかし瑞希に遮られた。
「どちらにしろ、今できる最善を尽くすだけね。……大丈夫よ、あんたの判断は間違ってないわ。海から逃げるわよ。確認しとくけど、あんた泳げるわよね?」
「あ、ああ。人並みには、多分」
「よし。さ、海まではざっと百メートルくらいかしらね。そこまで移動するわよ。……あんたの耳も頼りにしてるからね」
「……任せてくれ」
瑞希が気遣いやフォローのつもりでなく、本心からそう言ってくれていることが伝わったからこそ、輝はできるだけ力強く頷いてみせた。
輝の聴力の良さと瑞希の先導により、海への移動は輝が思っていたよりも容易にできた。
というより、監視などは一切なかった。不思議なほどあっさりと辿り着くことができたことにむしろ違和感を覚える。
それでも、海からこの場を脱出するという計画を変えるわけにもいかない。
目の前の、まだシーズンには二か月も早いであろう海水を見つめて輝は体を震わせた。
「良い? 最初はできるだけ遠くまで潜って行けるとこまで行くのよ。それで、息継ぎする時は水を跳ねないように」
瑞希はそう忠告すると、おもむろに上着に手をかけた。
「って、おいおいおいおい」
「……あんたも早く脱ぎなさいよ。服着たまま泳ぐ訓練なんかしてないでしょ?」
「そりゃしてないけどさ。……それでも年頃の羞恥心やら、異性の体への関心を排除しろというのは無理な話であって……いや、なんでもありません」
そんなことを言っている場合じゃない。服に手をかける。
と、その時、背後から、全てを飲み込むような音が襲いかかっきた。
いや、音よりも光が先だったのかもしれない。
辺り一面に広がる光。
爆音。
そして、衝撃。
熱い風が背中を押し出す。
それが何だったのかを理解する時もなく、輝、そして瑞希は、眼前に広がる海に向かって投げ出されていた。
吹き飛ばされる。
――あれ、これって爆弾でも落ちたのか?
自分の意思とは関係なく宙を舞いながら、体中に突き刺さるような肌を焼く痛みを感じながら、そんなことを輝は思う。
――瑞希。
彼女もまた、輝のように体中に火傷を負いながら宙に体を投げ出されている。
キャンセルが発動しない――つまり神崎の仕業か。
そこまで考えて、死を直感的に感じた輝は思考を放棄した。
意識が闇に落ちて行く。
僅かに残る意識の端で、幾度か垣間見た誰かの記憶が自分に流れ込むのを輝は感じていた。
◇◆◇
記憶。どこか遠い世界での、誰かの記憶。
――その世界で少年は戦っていた。
死の臭いが辺りに満ちている。周囲に目をやれば、既に命を失った連中。
――その世界で少年は生きていた。
悲しげに自分を見つめる少女を想う。生きる。生きることしかできない。
――その世界で少年は求めていた。
どれだけ生活が変わろうと、何かが足りない気がした。埋まらない心の隙間。……求めている。何かを。誰かを。
ただ一つだけを。
そんな、遠い世界での、誰かの記憶。
――それは、鏡界という世界での、久遠輝の記憶。
その中で、また、光る欠片を見つけた。
あれが鏡界の久遠輝が求めていたもの。
まばゆい光が、世界一面に広がった。
光が散る。目はまだ慣れない。
闇が出る。次第に浮かび上がってくる形。
今度こそ分かる。
その先に待っていたものは――
◇◆◇
「ただ一人のための、力。――それが、“俺”の求めていたもの」
そう、鏡界の久遠輝が呟いて。
爆風に踊らされていた彼の体は、永い眠りから覚めて、意識を取り戻した。