走れ!!
「あ~あ。だから、気を付けろって言ったのにねえ」
久遠輝が神崎に捕えられる場を自分の目で確認して“彼”はため息を吐いた。
電話での忠告はあまり効果がなかったようだ。
「まっ、あの場合じゃ仕方ないか」
もう十年も鏡界にいる神崎に対して、久遠輝はあまりに無力だ。どれだけ注意を払ったところで、あの事態を回避することは不可能だっただろう。
神崎は待機させていた車に輝を乗せて、そのまま走り去っていく。
「ふむ」
あの方向から考えるに恐らく第二漁港だろう。あそこは現在の漁港が完成する時まで使われていたが、その機能の全てが第一漁港に移された現在では無人の資材置き場と化している。
他人の目を忍んで海に出るには絶好の場所だ。
そう――他人の目はない。
「…………」
彼は少しの間思考を巡らせると携帯電話を取り出した。かけるべき相手はただ一人。
着信履歴からその相手の電話番号を呼び出して発信する。
「……あっ、もしもし。俺だよ、俺、俺~」
いつもの軽いノリでスピーカーに話しかける。
電話越しに、いつもの不機嫌そうな声が返ってきた。
◇◆◇
まただ。
また何かが自分の中に流れ込んでくる。
――記憶。どこか遠い世界での、誰かの記憶。
その世界の少年は、ただ一つだけを求めていた。
でも、彼の目に映るのは、いつも望んだ光景ではなくて。
悲しく、寂しく、切なく、そんなものばかりで。
少年はいつしか、気がつく。
この自分ではダメなんだと。
求めているものは決して手に入らないと。
何故なら――それができるのは、どの世界でもただ一人だけだから。
そして、その一人は自分ではないから。
だから、少年はその一人に託すことにした。
そのためには気の遠くなるほどの準備がいると知っていて、それでも彼は諦めようとはしなかった。
――彼は何を求めていたんだろう?
記憶は酷く曖昧で形すらなく、ぼんやりとした一片しか見えない。
その中で、何か光る欠片を見つけた。
あれだ。きっと、あれが少年の求めていたものなんだ。
少年の求めていたそれは――
次の瞬間。
まばゆい光が、世界一面に広がった。
光が散る。目はまだ慣れない。
闇が出る。次第に浮かび上がってくる形。
その先に待っていたものは――
◇◆◇
「なんだ……今の……」
閉じ込められた独房のような部屋からどうにかして出られないかを探ったが、どうやら無理だということが判明してふて腐れるように横になった。手足を縛られているからロクに眠れるはずもないだろうと思いながら、少しだけ目を閉じた。
輝がした動作はそれだけのはずだった。決して眠ってなどいない。
だというのに、目を開けた今、長い夢を見ていたような心地を覚えるのはどういうことだ?
ドクン――
心臓が自らの命を確かめるように強く脈打つ。体にも違和感があった。四肢が上手く動かせない。これはそう……まるで初めて鏡界に跳んで来た時に感じた、自分の体が自分のものではないような感覚だ。
「……どうなってんだよ」
輝の呟きが狭い空間に取り残されるように響いた。
変化が訪れていた。
「準備が整った。行くぞ」
輝が目を覚まして数分の後、神崎が背後に数人を従えて、再び輝を捕えた部屋に入ってきた。
その連中に手の錠はそのまま足枷だけ外され、脇を抱えて無理やり立ち上がらされる。
「これから船に乗る。……海に飛び込んで逃げようなんて考えるなよ」
「……それは皮肉ですか?」
輝は肩を持ち上げ、自分の周りを示す。
神崎とその仲間が四方を囲んでいた。海に入る隙など全くと言って良いほどない。それほどまでにハイダーは重要視されているということだろう。
神崎が小声で取り巻きに何かを指示すると、移動が始まった。
部屋から出て、廊下を暫く歩くと扉から外に出る。
外の景色は真っ暗で、輝はようやく現在の時間帯を把握できた。
静謐な夜だった。
こんなに穏やかで平和な夜に、誰も知らないまま、この夜に溶けるほど静かに、久遠輝はこの街からいなくなる。
「…………」
歩きながら、何気なく空を見上げる。
下弦の月がそこにはあった。
欠けている月は、まるで誰かが不敵に微笑んだ時の吊り上げられた唇のようだ。
「……うあっ!」
空を仰いでいた輝は、一瞬、そのうめき声が自分の真横から発せられたことに気づけなかった。
慌てて目線を下げると、輝の右隣にいた人が地面に倒れ伏せていた。
「何だ……!?……うっ!」
また一人、今度は左隣の男が倒れる。
カランと音を立て男の前に何か小さな塊が落ちた。
「これは……!」
神崎が叫んだ。輝にもその正体が分かった。
――催眠作用のある銃弾での狙撃だ。
「船から人を呼び出せ!」
「無理です! 距離がありすぎます!」
彼らが言い争っている間にもまた一人倒れていく。
輝を囲んでいた人間はもういなかった。
「走れ!!」
その時、どこからか声が聞こえた。
――数人の怒声が入り乱れたこの場所で、それでも、輝は無意識の内にそれが自分に向けられた言葉だと知っていた。頭ではなく、心が命令を出す。走れと。その言葉に従えと。
それまで呆然と立ち竦んでいた輝は、弾かれたように走り出す。
前へ、前へ。後ろを振り向くことは恐ろしくてできない。がむしゃらに前だけを見て走った。
資材が散乱している場所なのが幸いした。隠れ場所はいくらでもあるし、捜すのも難しい。その中に輝が紛れ込むと、追手がたたらを踏むのが分かった。
そして、彼らに生まれた隙を突いて、またどこからか狙撃が浴びせられる。一人、二人と倒れる。
この場を支配している側は明らかだった。
「ちぃ……撤退だ! 一旦船まで戻る!」
どこからかそんな声が聞こえてきて、足音が遠ざかって行く。
自分の周囲の物音が、一つの例外を除いて全て消えたことを確かめて、輝は肩の力を抜いた。膝に手を当てて息を大きく吐く。
資材の影から足音が一つ近づいて来た。その音だけは例外だった。
「よく、頑張ったわね」
輝はそれが自分に向けられた言葉だと……良く知っていた。
「ありがとう、瑞希」
こんな時でも、やっぱり彼女は……凪流瑞希は、下弦の月のような不敵な微笑みをたたえているのだった。