予期せぬ再会
「輝」
名前を呼ばれ、輝は通話を終えた後も耳に付けたままだった電話を下ろした。
「何よ……どこに行ったのかと思ったら電話だったのね」
「あ、ああ。悪い」
「別に良いわよ。それより、ほら」
瑞希が何かをこちらに放り投げてくる。慌ててそれをキャッチした。
「あれから一回で取ってやったわ」
「凄いな。これ、時計か? こういうのって結構難しいと思うんだけど」
箱の中には懐中時計が入っていた。なかなかに重いから取りにくいことは想像できる。
「ま、あんまり実用性のない物を取っても嬉しくないでしょ?」
「……そう言われると、ぬいぐるみを取った俺が申し訳ない」
「あ、あれはあれで別に良いわよ」
その言葉に瑞希も女の子なんだなと、今更ながら改めて思う。
「とにかく、これで貸し借りはなしだからね」
「ああ」
「んじゃ、そろそろ帰る?」
「そうするか」
帰路に着く。
「……あんた、何かやけにキョロキョロしてない? 何か気になるの?」
その途中、何故かぬいぐるみを袋に入れずに抱きしめたままの瑞希が、輝の様子に耐えかねてそう言った。
「いや、別にそんなことは……」
と言いつつも輝は目を左右に振り、小さな物音にも敏感に反応している。
瑞希が訝しげな表情を浮かべて輝を見つめた。ゲームセンターを出てから輝はずっとこの調子だから怪訝に思うのは無理もない。
――神崎に気を付けて。彼は君のことを狙っている。
電話の内容が頭の中で繰り返されている。
あの電話の主はどこか聞き覚えのある声で、輝に謎の忠告を残していった。
その声は、まるで輝がハイダーだと知っているような口ぶり。
そして、神崎が輝の命を狙っているかのような警告。
神崎が輝を狙っている。つまり、何らかの危機が輝に差し迫っていると言うのだろう。
もちろん電話の主の言っていることを簡単に信じることはできない。
――だが、もしそうだとしたら……。
全てを疑えと神崎は言った。あれは神崎本人をも疑えという意味なのだろうか?
とにかく輝は、電話の忠告を聞いてから自分に監視の目がついているような感覚が離れず、自分でも分かるほどに不安定な状態になっていた。
「分からねぇ……」
何を信じ、何を疑えば良いのだろう?
色々な思惑が輝の周りにあるようで、それが知らない内に大きくなっているようで……だんだんそれが分からなくなってきた。
疑念が渦巻いて、余計なことまで考えてしまう。
――もしそうだとしたら。
「何が分からないのよ?」
――瑞希が、何らかの目的を持って輝に接しているとしたら。
「ねえ、あんた、本当にさっきから変よ?……体調でも悪いの?」
――こちらを心配そうに見る瑞希すらも疑えと言うのか?
そこまで考えて。
「ごめん。ちょっと疲れたみたいだ。今日は帰って寝る。……じゃあな」
そんな自分の思考に輝は激しい苛立ちを覚えた。
信じると決めた人をいとも簡単に疑いそうになる自分が最低だと思った。
「ちょっと、輝」
思考と瑞希を置き去りに、輝は走り出した。
――本当に最低だ。
逃げ出すように瑞希と別れた。
道を転がるように走る。
「……神崎」
その道に神崎が佇んでいた。
ただ一人。
それほど狭い道でもないはずなのに、他の通行人の姿は見当たらない。
神崎は夜の街灯の光を浴びて、まるでスポットライトに照らし出された役者に見えた。
何故、彼がここにいるのか。何故、自分を待っているような様子なのか。
輝は先ほどの電話の警告を思い出し、反射的に身構える。
「どうした、久遠輝? どこか俺を警戒しているようだが?」
「……あんた、纏っている空気が前と全然違うんだよ」
今まで使っていた敬語すら忘れ、輝はそう答えた。
「“話があるから、ついてきてくれないか?”と言うつもりだったんだがな」
「……答えはノーだ。断る」
言うや否や、輝は踵を返して走り出そうとする。それで振り切れると思うくらいには神崎との距離はあった。
「――そのようなので、悪いが少々手荒に行かせてもらう」
しかし、それは距離の問題ではなかった。
次の瞬間、目にも止まらない速さで肉薄してきた神崎によって輝の意識は刈り取られていた。
◇◆◇
記憶。どこか遠い世界での、誰かの記憶。
――その世界で少年は戦っていた。
死の臭いが辺りに満ちている。周囲に目をやれば、既に命を失った連中。
――その世界で少年は生きていた。
悲しげに自分を見つめる少女を想う。生きる。生きることしかできない。
――その世界で少年は求めていた。
どれだけ生活が変わろうと、何かが足りない気がした。埋まらない心の隙間。……求めている。何かを。誰かを。
ただ一つだけを。
そんな、遠い世界での誰かの記憶。
不意に、ぞっとするほど、身近に感じた。
◇◆◇
「……ここは?」
輝が目を覚ますと、そこは暗闇だった。
「……っぐ!」
体を動かそうとするが、何かが手足を束縛していてそれは叶わない。
徐々に目が慣れてくる。
そこは、安ホテルの一室のような小さな部屋だった。
「起きたか?」
頭上から声が降ってきて、輝は目だけをそちらに動かす。神崎が天井の光を背に立っていた。
「……どういうことですか、これは?」
「端的に言うなら――事情が変わったため、お前をとある場所に連行することになった」
「連行するって……」
「……俺にも責があることだ。人払いは済ませてある。可能な限りの説明はしよう。」
「…………」
首を僅かに縦に振り了解の意を示す。手足を縛られた今、輝に主導権はないことは明らかだった。
「まずは、俺の身分を明かそう。――俺は世間の言うところでのテロリストだ。先のテロの事件で襲ってきた隣国のある組織に属している」
「……ハイダーだというのは嘘だったんですか?」
「いや、それは本当だ」
「なら何故……っ」
この人は鏡界でハイダーが生きるためのアドバイスをしてくれた。
人格者なのだと思う。誠実な人間にも見えた。
それだけに神崎がこのような理不尽な暴挙に出るのは信じがたかった。
「事情が変わったと、そう言いましたね? 何が変わったんですか」
「ああ。当初の俺はお前を拘束する目的の下に接触を図ったわけではない。
始まりは、この街を標的にした作戦から帰還した者の映像を偶然俺が回収し、とあるハイダー……お前のことを発見したことだ。……俺はチャンスだと思った。何せ、俺以外の組織の連中は誰もそのことを知らない。
現界の人間と個人的な協力関係を結びたいと思っていた俺は、お前に会うことにした。結果はまあ……お前さんの精神状態が不安定な時期だったため、協力関係を結ぶことは断念することになったが。
とにかく、それで終わりのはずだった。俺とお前は二度と関わることもなく終わる……そのはずだった」
神崎はサングラスの縁に手を当てた。
「――だが、組織はそんな俺の様子を監視していた」
その眼光がレンズの向こうで鋭く光ったように思えた。
「お前についての調査が行われ、俺が手に入れたものとは別の映像からお前がハイダーだということが判明した。ハイダーは鏡界で唯一の戦力。見過ごすという手はない。――直ちに久遠輝の拘束、及び本国への連行が命令された」
「…………」
言葉を失った。
喉が渇いて貼り付く。
たった今、地獄行きを宣告されたような、そんな妄想すら覚える。
自分の命が、自分の知らぬ間に破滅に向かっている。
「あなたは何故、それでも尚、組織の命令を守ろうとするのですか?」
こんな状況だからだろうか。自分でも不思議なほど輝は冷静に言葉を紡いだ。
「……妻がいると言ったな」
返ってきたのは繋がらない答えだった。
「この世界の縁と言う物は実に不思議だ。知り合いだった人間が、知り合いではない。知らなかった人間が、親しげに話しかけてくる。最初は頭が狂いそうだったよ。
だが、ただ一人だけ、現界と鏡界で俺との関係も何もかもが変わらない人間がいた。それが俺の妻……明日香だった。運命、そんな曖昧なものすら信じてしまいたくなるほど……嬉しかった。明日香の存在に途方もないほど救われた。
しかし、そんな生活にも小さなほころびは生まれてしまう。ふとしたきっかけから明日香は俺がハイダーだと知ってしまった。……その時の絶望感、そして、その後に続いた感情を俺は生涯忘れないだろう。――明日香は、俺を変わらず愛すると言ってくれた。この世界では徹底的に忌み嫌われたハイダーを、だ。……俺はこの並行世界で生き抜く覚悟をその時初めて決めた。
……そうして今まで以上に幸せな生活が始まった。だが……それはそう長く続かなかった。俺がハイダーだということがあるテロ組織に伝わり、彼らは俺に仲間になるように脅してきたんだ。もちろん、俺はそんな誘いなど一蹴した。……その翌日のことだ。――明日香が誘拐された。人質。俺は彼女を守ることができなかった。俺は組織に入った。それ以外の選択肢はなかった。明日香が俺の人生の全てだったからだ。
気が付けば、組織に入ってからは六年、こちらの世界に跳んでからは十年が経っていた。……明日香とは作戦を成功させた後の数時間だけ面会を許されている。俺はその数時間のために、見ず知らずの人間をハイダーの力を以て殺し、たった今もお前を拘束している」
「…………」
「詫びるつもりはない。俺のミスがお前のこの状況を導いたのは確かだが、明日香以外の人間がどうなろうとも俺は一切気に留めない。そういう風に今まで生きてきた」
そう言い切り、神崎は輝に背を向けた。
「……これは組織を出し抜いて協力者を作り、組織を壊滅させて妻を救い出そう、と……そんな浅はかなことを考えた俺への警告なのだろうな……」
神崎が部屋から出て行く。
「……くそっ」
扉が閉まると、輝は悪態を吐いた。
神崎の十年間と自分の数週間にも満たない鏡界での暮らしを比べる気はない。
だが、ぬくぬくと鏡界での生活を送っていた自分を恥じたくなった。
誰が神崎を責めることができよう?
――誰も責めることなどできない。
愛する人のために誰かを犠牲にしても生きる。
どの世界だって、誰にだって、その感情を否定することだけは決してできないのだ。
「……くっそ!」
この湧き上がるような怒りと、これから先の未来に感じる不安を、一体どこに向ければ良いのだろう?
身動きもできないまま、輝はただ時がいたずらに過ぎるのを待つことしかできなかった。