憂さ晴らし
「……少し言い過ぎたか」
神崎は市内にあるマンションの一室に帰ると、サングラスを外し、スーツを脱ぎながら独りごちた。
失望。彼が感じているのは失望だ。
年端もいかぬ少年に過度な期待をした自分に非があるのは事実である。神崎が独自に入手した映像で見た久遠輝は自分の身を顧みずに誰かを助けに向かうことができる男だったため、並行世界に跳んでしまったことによる精神的な不安などが全くない人間なのだと思い込んでしまっていたのだ。
輝が自分の存在の意味を探すというようなことを言っているのは、恐らく無意識の内の自己防衛反応だろうと神崎は推測していた。そうでも思わなければ生きることが辛いのは理解できる。ましてや、自分の知らない世界での生活。いくら勇気ある――この場合は蛮勇であると言うべきかもしれないが――少年といえども、不安になるのも当たり前と言えば当たり前だ。
そんな不安は自分も経験したことであり、慣れるまでは時間がかかったのも鮮明に覚えている。
故にこの失望は輝に向けたものではなく、自分に対してであった。
もしかしたら輝は自分の力になる存在かもしれないと思ったが、残念ながら望んだ人物像ではなかったようだ。何より、時期が早すぎたのもいけなかっただろう。
――それはもう仕方のないことだ。
思考を切り替える。自分の目的を達成するためには、こんな所で立ち止まっている暇などない。
神崎はリビングのテーブルに飾られた一枚の写真の縁をそっと指で撫でた。
「……待っていろよ、明日香」
神崎に一本の電話がかかってきたのはそんな時のことだった。
「つまんない」
その日の音楽の授業で練習している時、椎名が曲の途中で演奏を止めて言い放った。
「どういうこと、椎名?」
自分のミスはなかったはずだと言わんばかりに、瑞希が真っ先に口を開く。
「音が揺らいでいる。こんな状況で叩きたくない」
「……気分が乗らないってこと?」
「そんな感じ」
「だからって……今はそんなことを言っている暇はないでしょ」
「分かってるよ」
「なら――」
「だからこそ、こんな中途半端な状況で叩きたくない」
「……どうして」
「元々、僕が君らとやる理由は一つだけなんだ。分かってるよね、輝」
瑞希と話していた健が、輝に目を向けた。
「……分かってる。すまない、シータケ」
瑞希は憮然とした表情で輝を見つめていたが、やがて「今日は個人練習させてもらうわ」と言い、それ以上何かを言い募ることはなかった。
放課後。当番だった掃除を済ませて帰り支度をしていると、教室の入り口で瑞希が缶コーヒーを手に輝を待っていた。
「お疲れ様。差し入れよ」
「……ありがとう」
珍しいことだ。輝は多少面喰いながらもそれを受け取った。
瑞希の手にはもう一本同じ種類の缶が手にあって、輝は彼女の意図を悟る。お茶の誘いなのだろう。
「中庭にでも行かないか?」
「ええ」
輝が言うと瑞希は眉一つ動かさずにその提案を呑んだ。
二人は鞄を手にし、中庭に向かった。
心地よい風が中庭の芝生を撫でている。
シェルターの隠された巨木の葉からは木漏れ日が差し込んでいて、少しばかり暑さも感じるくらいだ。
夏はもうすぐそこまで来ている。いや、暦の上ではもう夏になるのか?
コーヒーを飲みながら、輝はそんなことをぼんやりと考える。
「あんた、何かあったの?」
「…………」
瑞希らしいストレートな問い。それに輝はどう答えるべきか迷った。
神崎が言った、全てを疑い、敵だと思えという言葉が輝を惑わせていることは自分でも分かっている。
「いや、何もない」
「……嘘」
「ホント」
結局、こう答えるしかなかった。
神崎を巻き込む可能性がある以上、彼と話したことを瑞希には言わない。その姿勢は輝の中で変わっていなかった。
「次の授業までには元通りにしとく。これ以上シータケに嫌な思いはさせたくないしな」
「……話す気はないってことね。まあ良いわ。無理に聞こうっていうわけではないから」
「ありがとう」
「……ところで椎名が言ってた、私達と一緒にやるただ一つの理由って何なの?」
「アイツなりに思うところがあるんだろう。音楽が好き、とか」
「そっちも言えないのか。もう良い、輝、ちょっとこの後の時間もらうわよ」
「うん?」
「つまり――」
瑞希は残っていたコーヒーを一気に飲み干して缶をゴミ箱へ投げた。
「憂さ晴らしするの」
「……ナイスシュー」
缶は綺麗な放物線を描いてゴミ箱へと吸い込まれていた。
半ば強引に瑞希が案内した先は、ゲームセンターだった。
雑多な音が店内を満たしている。耳の良すぎる輝はこの音が苦手だったため、あまり訪れたことはない。
「さー、やるわよー!」
腕をぐるぐると振り回し、瑞希は獲物を見定めるように店内を見渡した。
「まずはガンシューティングから。輝、あんた2P側ね」
百円玉を取り出し、その手でビシッと輝を指差した。
「あ、ああ」
瑞希のペースに翻弄されながらも、輝は彼女の隣に立ちコインを投入した。
「ほら、銃持たなきゃ始まんないでしょ!」
「分かったから銃を突きつけるなっ」
その姿にデジャブを感じつつも、見よう見まねで銃を構える。
「持ち方が違うわ。こうよ、こう」
「……こうか?」
「違う、もっと脇を締めて……ああもう! じれったいわね! ストーリーが終わっちゃうじゃない!」
「うおっ」
瑞希が背後から腕を回し輝の腕を掴む。
柔らかな肢体が密着して、微かに胸のふくらみすらも感じるほど。
その上女の子の香りが鼻を擽り、一向に銃の構え方には意識が向かう気がしない。
「力を抜かないで!」
叱咤され、輝は何とか瑞希に預けていた腕に力を込める。
「よし、良いわね。
リロードの仕方は分かる?」
「リロード? いやこの手のゲームは初めてだからさっぱり」
「こうよ。こう」
輝の手を掴んだまま手首を小さく振り、手本を示す。
「こうか?」
「ひゃっ」
「……どうかしたのか?」
輝が腕を振ってみせると、瑞希がやけに甲高い声を上げた。
「……ううん、何でもないわ。もう一回やってみて」
「……ああ」
ガシャ!
「ひゃう!……ちょっと腕の動きが大きいかも。もっと小さくしないとタイムロスが」
「分かった。……てか、本当に何でもないのか?」
「良いから! はい、リロード!」
もう一度、今度は小さめに腕を振る。
「……良し、耐えた」
「?」
「……合格よ、合格。とにかくあんたはカーソルが合わなくても撃ちまくりなさい」
「撃ちまくればいいんだな。分かった」
瑞希の体が輝から離れる。
リロードの動作をする度に、自分の二の腕が当たっていた部分に輝は最後まで気づくことはなかった。
「ま、最後の方はそこそこだったわね」
瑞希は百円、輝が三百円をコンティニューにつぎ込んだところで、ガンシューティングゲームはやめることになった。
ゲームが始まった頃は慌ててしまい、言われた通りに銃を乱射することしかできなかったが、徐々に相手の弱点などにも打ち込めるようになり、最後にはステージのボスも倒すことができた。
初めてプレイするにしては悪くはなかっただろう。
「しかし、瑞希は随分と上手いんだな」
「まあ、これでもシーカーだからね」
「はー、そう言えば、銃のゲームとかは普通にあるんだな、ここ」
「シーカーでもなければ決してできないことだから銃に憧れがあるんでしょうね。ま、人を撃つゲームじゃなくて、さっきのヤツみたいにモンスターを倒す系しかないけど」
「なるほどね」
「じゃ、次行くわよ、次」
「おう」
すっかり瑞希のペースだが、輝自身も十分楽しんでいるので彼女に任せることにしよう。
そう決めて、輝は弾むような足取りで歩く瑞希の後を追った。
その後、メダルを二人合わせて百枚だけ買って遊んだり(そのほとんどを使い切ったのは瑞希)、音楽ゲームに挑戦してみるも実際の演奏程には上手くいかなくて苦しんだり、クイズゲームで中卒の輝の知識不足が露呈したり、と店内を色々と巡って楽しんだ。
そして――
「勝負よ」
クレーンゲームの前で瑞希がそんな提案をした。
「そろそろ時間も時間だし、これで最後。今までのは協力ばっかでつまんなかったから、最後は互いに勝負がつくものにしましょう」
「……良いぜ。ルールは?」
「先に景品を取った方の勝ち。ただし、客観的に見ても小さい物に分類されるような景品はなし」
「了解。サクッと終わらせてやる」
「何それ、完全に負ける人のセリフじゃない?」
「言ってろ。じゃ、今からスタートな」
「オッケー。またね」
瑞希と別れると、輝は取りやすそうな景品を求めて早足で店内を巡った。
とは言え、アームの強さばかりは実際にやってみないと分からないため、どれに挑戦するかを慎重に選ぶ必要がある。その上プレイにも時間がかかるこの局面で狙うべきなのは――小さすぎず、かつ軽そうな景品。
「――これだ」
輝は約十五センチ四方のぬいぐるみが積み重なったクレーンゲーム機の前で歩みを止めた。
アームが片方しかなくて一見取りにくそうにも見えるが、こういう物は上の方から崩せば大量に獲得することもできる可能性があるサービス機だ。
だが今狙うのは複数景品の同時獲得ではない。欲をかかずに開口部に近い一つだけを狙えば、取ることはそう難しくないはずだ。
決断すると輝の行動は早かった。横から一度覗いて奥行きを測ると、手前の黒い塊(残念ながら顔が見えないのでそれが何なのかは分からない)に狙いを定め、即座にコインを投入した。
「む、先を越されたわね……」
そこで瑞希の声が聞こえ、輝はそちらにチラリと目をやった。どうやら瑞希もこれは取りやすそうだと思ったらしい。
「小さくはないよな?」
「ええ、そうね。……じゃ私はこれにしよ」
瑞希は輝の背後のクレーンゲームに挑戦するようだ。
輝は意識を目の前に戻し、ゆっくりとボタンを押した。
「よっ……しゃあっ!!」
自分の年齢も忘れて輝は高々と歓喜の叫びを上げた。
結果はまさかの一発ゲット。浮かれるのも無理はない。
「なっ? ホント!?……あーあ、あたしの負けか」
一回目は失敗したらしい瑞希が側に寄って、輝の手に収まった戦利品を見ると肩を落とした。
「てか、何、そのぬいぐるみは?」
「ウサギ、だと思う」
「何か……クマにも見えるわね」
一気に危険になったな。まあ、危い種類ばかりでもないだろうが。
「で、だ。俺の勝ちでオーケーな?」
「く、悔しいわね」
「ははは、だからサクッと終わらせるって言ったろ」
「むう」
「ということで、これは瑞希にプレゼント」
「……当てつけ?」
「俺に憂さ晴らしをさせてくれたことへの感謝」
「……受け取ってあげるわ。でも、貰いっぱなしってのは気に食わない」
瑞希は輝からひったくるようにウサギのぬいぐるみを受け取ると、それを胸に引き寄せて、くるりと反転した。
「あたしも一つ取ってくるから、あんたにはそれをプレゼントし返してやるわ」
「……楽しみに待ってる」
瑞希は再度挑戦するために、クレーンゲームの並ぶ他の列へと消えて行った。
「俺を騙してるようには見えないんだよな……」
瑞希を見送りながら、輝はそう呟いた。
瑞希は自分を捕まえるために虎視眈々と何かのタイミングを窺っているようにはどうしても見えない。
シーカーとハイダーの関係を知った今もなお、瑞希にハイダーの自分をどうにかするという意思は感じられない、というのが輝の出した答えだ。
神崎はそれを妄信だと言った。……確かにそうなのかもしれない。
しかし、全てを疑うことなど、輝にはできなかったのだ。一度信じた人を、自分の命を救いこの世界で生きる術を教えてくれた人を疑うことなど。瑞希を疑うと言うことはつまり、信じた自分をも疑うことになってしまう。――そうではありたくないと輝は思うのだ。
「…………電話?」
不意に輝の携帯電話が震え、着信を知らせた。
ディスプレイには登録されていない番号が表示されていた。心当たりがまるでない。
「はい、もしもし?」
近くにある出入り口から店の外に出て、通話ボタンを押す。
「――――――」
電話口から飛び込んできたのは聞き覚えのある声だった。