もう一人のハイダー
いつも通りの朝。
「久遠輝、だな?」
がっしりとした体格。スーツ。顔に傷跡。それを隠すようにかけられた黒光りするサングラス。誰かが見ればその道の人に見えてしまうような中年男性が、学園へと向かう輝の名前を呼んでいた。
「……えっと、そうですが?」
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
「…………。ええ、まあ。そちらもお元気そうで何よりです」
輝は言葉を選びながら答えた。どうやら鏡界の久遠輝と顔見知りのようだ。……どんな経緯でこんな厳ついおっさんと知り合ったのか非常に気になるが。
「ああ? 何か随分とよそよそしいじゃないか、輝?」
「いや、そんなことは……ないですよ?」
「んん、いや、なーんか変だぞお前」
凄味のある顔を近づけられ、輝はたじろいだ。
もう少し歩けば、数日前までは輝の家にわざわざ迎えに来ていたが最近は通学路で合流するようになった瑞希の姿があるだろう。遅刻なんてした日には何を言われるか分かったものじゃない。この場はできるだけ穏便にかつ速やかにやり過ごしたいところだ。
「すみません、ちょっと急いでるんで、また」
「テロ、ハイダー、凪流瑞希」
「――――」
横を通り過ぎる瞬間に囁かれた心当たりの多すぎる単語に、輝は足を止めた。
「話がある。来れるな?」
それは確認ではなく、命令だった。
「いやいや、別に何かしようってわけじゃないさ。こんな出で立ちだが、別にお前を取って食いはしねえ」
おどけて肩を竦めてみせる。悪意はなさそうに見えるが、瑞希の“絶対に正体を知られるな”という忠告が頭を離れない。
「わりいな、さっきの久しぶりってのは嘘だ。
“初めまして”。神崎だ」
男――神崎はそう名乗って、輝を先導した。
神崎が案内した先は喫茶店だった。平日の午前中とあってか人の姿はない。適当に注文を済ませると、輝はため息を吐いて椅子に深く腰掛けた。
「……どこかの事務所にでも案内されるかと思った」
「ははは、そりゃあ映画の見すぎだ、ってね。
さて、改めて自己紹介するな。神崎だ。鏡界のお前さんとは知り合いだった……わけじゃない」
「…………」
――やはり鎌をかけられたか。
鏡界の久遠輝を演じるために取った態度を逆手に取られ、自分がハイダーだと知らしめる結果となってしまった。
「ま、警戒するなって言うのは無理な話だわな。気持ちは分かる。何せ、俺自身もそうだった。ハイダーは自分の正体を隠すのは、基本中の基本だ」
「……あなたはハイダーなんですか?」
「ああ、そうさ」
あっさりと肯定される。
「無論、こちらの素性を明かすのはタブーってのは百も承知だ。
これでも鏡界に来たのは十年も前でな。何度かヤバい目に合ったこともある」
――ダメだ。これだけではまだ神崎がハイダーだと断定できない。
「……江戸時代を舞台とした殺し屋の物語。主人公は刀に毒をしこんで戦う非情な男」
「お、“毒殺のギン”か。随分と古い映画じゃねえか。何だ、いきなり……って、ほう、そういうことかい」
くっくっと神崎は押し殺したように笑った。
「これは一本取られた。お前さんも鎌かけたのか」
「……まあね」
輝は肩の力を抜いた。“毒殺のギン”は殺しをテーマとしていた映画だ。当然、キャンセルのある鏡界には存在しないことも確認済み。それを知っているということは神崎がハイダーだということは間違いないだろう。
「ブレインはあのお嬢ちゃんってところか?」
どうやら瑞希との関係もお見通しらしい。
向こうに害意があるならこの時点でどうにかされていてもおかしくない。これ以上シラを切るのは無意味だろうと判断し、とりあえずは向こうの出方を窺うことにする。
「何故こちらの事情を知っているんですか?」
「ん? ああ、そりゃあ簡単だ。この目で見てたからだよ。シーカーの嬢ちゃんがテロリストと銃撃戦をする中、お前さんが撃たれて傷つくのを」
「…………」
――見られていた?
「ま、偶然な。俺もハイダーだから本当は迂闊なことできないんだが、ちょっとワケありでな。テロの時に招集をかけられる立場なんだわ」
「……招集って? キャンセルが使えないハイダーはどう考えても足手まといでしょう?」
「それはお前、ハイダーには鏡界の人間にできないことができるからに決まっている。……ってお前、まさか知らないのか?」
サングラスに隠されて神崎の目は見えないが、何となく見開かれているような気がする。
「はい。どういう意味かさっぱり」
輝の返答に、神崎は大きく椅子にもたれかかった。
「……じゃあ何だ? 凪流瑞希はハイダーについて何もお前に聞かせていないのか?」
「誰にも正体をバラすなとは聞きましたが……」
「ふむ。キャンセルは知ってるよな?」
「はい」
この世界の人間は、故意に誰かを傷つけることができない。そのことは瑞希から詳しく聞かされている。
「じゃあ、ハイダーが例外だってことは?」
「例外と言うと……ハイダーはキャンセルが使えないということですか?」
「もう一つ。もっと重要な方だ」
輝は首を横に振った。
「はあ……何でそれを知ってて、一番大事なことを知らないのやら。
まあ良い。ハイダーはな、他人のキャンセルも無効化できるんだ」
「……?」
一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
「つまり、ハイダーは誰もがキャンセルを持つ鏡界で唯一、人を傷つけ、殺めることができるってことだ」
「……自分だけでなく、他人のキャンセルも無くしてしまう……」
「ああ、そうだ」
人を傷つけ、殺める、という現界ならば当たり前のようにできること。
だが、暴力も戦争もないこの世界では――
「そんなもん、この世界じゃ火種にしかならない。
俺らハイダーは戦争のないこの世界で唯一の兵器なんだ」
どんな世界でも人は争う。
争いで勝利するための最も手早い方法は、いつの時代も圧倒的な暴力である。
この世界ではそれは禁忌だった。
僅かでも害意のある暴力は存在を許されない。
――しかし、もしも。
もしも、例外的な存在がいるなら。
暴力を振るえる存在がいるなら。
例えそれが人間でも、それは一つの“兵器”だ。
「そういうわけで、多大な危険を孕んだハイダーは、シーカーに厳しく取り締まられ――って言うよりは、見つかり次第片っ端から捕まえられている」
「待ってください。……シーカーに、ですか?」
真っ先に、一人の少女の姿が思い浮かぶ。
――シーカーが、ハイダーを……?
「ああ。ヤツら、世界平和なんて大義名分を掲げちゃいるが、実際の目的はハイダーを捜し出し捕獲、及び抹消することだ。昔のハイダーがやらかした事件とも相まって、この世界でハイダーは侵略してきた異世界人、なんて認識でしかない。……まあ、鏡界の住民からしてみれば俺らなんてのは、恒久的だった平和をぶち壊す核爆弾みたいなモンなんだろうな」
「……それで瑞希は正体を隠せと言ったのか」
ようやく瑞希がしつこく正体の隠ぺいに――取り分けシーカーに対して――念を押した理由が判明して、輝は呆然としつつも、いつの間にか再び張っていた肩の力を抜いた。
「何と言うか……すまんな。まさか知らなかったとは思わなかったんで」
神崎が頭を下げるのを見て、輝は慌てて首を振った。
「……いえ、むしろ教えてくれて良かったです」
そんな大事なこと、いつまでも知らぬままで通せるはずがない。何故瑞希が教えてくれかったのかは分からないが、彼女だって近い将来輝がその事実を知ることは承知していただろう。
「……今日はここまでにしとくか」
輝の戸惑いを察してか、神崎がそう言った。
「本題には入れなかったが、そう急ぐ話でもない。まあ、ハイダーのお前にとって悪い話じゃないことは約束する。とにかく、また会った時にでも話させてもらおう。……それまでに、お前も自分の立場をもう一度考え直してみると良い」
「……はい。今日はどうもありがとうございました」
神崎はコーヒーを飲み干すと、伝票を持って立ち上がった。
「ああ、そうだ。釘を刺すようだが、俺と話したこと、そして正体に関しては凪流瑞希も含めて誰にも言わないでくれ」
「瑞希も、ですか?……いえ。はい、分かりました」
「理解が早くて助かる。ではまた会おう」
店を去って行く神崎を目で追うこともできず、輝はカップの湯気をぼんやりと眺めた。
――瑞希はシーカーなんだよな
神崎も輝も、彼女達に捕えられる立場なのだ。
それなのに――
「神崎って知り合いのハイダーに聞いたんだけど、ハイダーって人殺せるんだってな。で、シーカーがハイダーを捕まえているんだろ? それで何でお前は俺を捕まえないの? あと、その神崎って人はどうするよ?」
――なんて、言えるはずがない。神崎に迷惑がかかるのはもちろんのこと、自分の立場さえも危ういのだ。
「……あぁっ、もうっ」
瑞希には話せない。だが、隠し事をするみたいで何だか後ろめたい。輝が大嫌いな“時間に解決させる”ことではないはずなのだが、このもやもやはちょっと長く続きそうだ。
そういうわけで。
「……学園、行こ」
差し当たって輝は、現実逃避することにした。