あなたが望めばその距離は
彼女は歯噛みしていた。
音楽の授業の際、凪流瑞希が自分の誘いを断ったことで、彼女の仲間内での立場は悪くなっていた。一緒に音を合わせているからこそ伝わる同情、憐み、そして侮蔑。
――クソッ!……あいつら、手のひら返したように私を見下しやがって……!
本当はこんなはずじゃなかった。クラスで浮いている連中から比較的まともそうな凪流瑞希をメンバーにすることによって、自分はそんな人を仲間に入れるほど度量が広い、ということをアピールするはずだったのに。
結果として、凪流瑞希はその提案を足蹴にし、あろうことか他の浮いている連中と一緒に演奏すると宣言した。そしてその宣言通り、人を相手にしないことで有名な椎名健、氷のような冷たさを持つ美少女の華秋和奏、そして言わずと知れたあの久遠輝とともに曲の制作を始めた。
それだけなら。それだけならまだ良かったのだ。しかし、問題は彼らのその後の行動にあった。
まず、ベースの凪流瑞希を除いたメンバーの演奏のスキルが異常と言って良いほどに高いことだ。ドラムの椎名健、ピアノの華秋和奏、ギターの久遠輝――彼らの紡ぎ出す音は、雑多な音が絡み合う音楽室の中で一際輝いている。
そして、何よりも、彼らの作っているらしい曲が、人の心を掴んで引き離さなかったことは彼女にとっての誤算だった。流れるような旋律の嵐。荒れ狂う風のように強く、だが、時には春の風のように穏やかに。
まだ個人が演奏しているだけにも関わらず、その曲は何の文句も入らないほどに“完成”していた。吹奏楽部の部員として音楽に携わっているからこそ分かる、その曲の完成度。――自分達との格の違い。
正直、学生レベルじゃないとすら思った。彼女はインターネットを駆使して、彼らの曲が何かのコピーでないかを調べに調べたが、結果は一つもフレーズが合うものすら見つからないという、彼らの曲の素晴らしさを逆に証明してしまうものだった。
その結果は、彼女の所属する集団の面子を潰すには十分すぎるほどだった。そして、彼女の仲間内での地位を下げるには。
彼女は歯噛みする。
――このまま終わらせてやるものか。
発表までの期間が残り半分になっていた。
「あと二週間になったし、そろそろ合わせよ~よ」
一人でドラムを叩くのが退屈になったらしい健の提案により、今日の授業では初めて全員での合同練習をすることになった。
短い期間であったが、輝の指導と瑞希自身の努力を怠らない姿勢により、瑞希の演奏もそれなりのものには仕上がっている。
ピアノの使用時間が回ってきて、全員が位置についた。
輝は和奏、健、瑞希を順に眺め、深く息を吐いた。
――いよいよ、合わせるのか。
心なしか、教室中の視線がこちらに向いている気がする。その視線が懐かしいような……疎ましいような。そんなことを思いながらピックを振り上げる。
それはバラードではなく。
しかし、胎児の鼓動のように穏やかに。
それはロックでもなく。
しかし、燃えるような衝動と共に。
インストゥルメンタルなら、できる。
ギターを弾きながら、輝はそう思った。歌うことは……心の底から湧き上がる感情を喉から吐き出すことは、もうできないけれど。あの高みに上ることはできないけれど。――楽器だけなら弾ける。
曲が終わる。世界が元に戻るような心地と共に、輝はもう一度息を吐いた。
「久遠、感想は?」
和奏が尋ねる。
「……全っ然合ってなかったなぁ」
「その割には、笑いが止まらないようですが」
輝は思わず笑っていた。和奏が怪訝そうな目で、しかし、どこか優しげに輝を見る。
「やっぱり、まだまだね。あたしが足を引っ張ってるわ……」
「う~ん、まあ面白かったし、良いんじゃない?」
健がほくほく顔で言うが、瑞希は再びベースを触り、先ほどの反省をしているようだった。
そうして四人の第一回の合同練習は終わった。
「今まで以上に練習しないといけないわね」
その後、そう言った瑞希に
「じゃあ、放課後も練習するか?」
と輝が申し出て、それに和奏も加わり、三人は放課後に練習することになった。ちなみに健は気分が乗らないからと言って悪びれもせずにそれを断った。
そういうことがあり、三人は放課後に音楽室に向かったのだが、その場所は既に吹奏楽部が所狭しと使っていて、練習することはできなかった。
「それなら私の家でやりますか?」
和奏の提案はこの場で最善なものだった。和奏の家には電子ピアノがあるらしいし、ベースもアンプを通して音量を調節できる楽器だ。周りの住民に騒音の苦情を言われる心配はない。
そういうわけで、三人は輝と同じマンション内にある和奏の家へと向かうことになった。
和奏の家に着くと、早速準備を始める。
「アンプは音楽室のミニアンプを借りてきたわ」
ミニアンプは電池駆動で手のひらに載るほどの大きさのアンプだ。有名なブランドのLEMON製だから小さくても音質は良い。
瑞希はベースのチューニングをし、和奏は電子ピアノのスイッチを入れて音量を絞った。輝はギターを持っていなかったが、流石にこれは音楽室の物を借りるというわけにはいかないので今日は指導役に徹するつもりだった。
「準備ができたなら早速合わせてみるか」
「え、もう?」
「ああ。この曲はあまり運指が激しくないからウォーミングアップにちょうど良いんだ。ただ、テンポをちょっと落とすから俺の手拍子に合わせてやってみて」
「なるほどね……分かったわ」
「了解しました」
二人が頷くのを確認した輝のカウントと共に練習が始まったのだった。
「ドラムがないと自分のミスが目立つわね……」
「どうしても誤魔化せないからな。シータケのドラムは正確だから、もし本番で遅れたら遠慮なく置いてかれるだろうな。ちょっと楽譜がアレだったかなぁ」
「ここは八分ではなく、四分音符にしたらどうでしょうか?」
「……ううん」
瑞希が否定を口にした。
「八分で大丈夫よ。モタらないようにするわ」
「そうだな…サイドギターはいないから、俺もここは八分でしっかりと刻んでもらいたい。
和奏も、ここはそのままで良いか?」
「ええ、久遠が良いのなら。私もその意見には賛成ですし」
「……この楽譜は完璧よ。あたしの技術が追い付いていないだけ」
瑞希は悔しげに言うが、輝は言うほど瑞希の技術が足りないとは思っていなかった。最初はベースのTAB譜を四線譜とか言っていた人が、ものの二週間で一曲を形にするのは十分すぎるほど凄いことだった。しかし、それで満足しないのが凪流瑞希という人だ。そしてそんな努力家な姿に、輝は尊敬すら抱いていた。
かつて音楽の道を目指しそして途中で挫折した自分にはないものを、彼女は持っている。
――だからだろうか?
彼女が輝いて見えるのは。
日が暮れても練習は続いた。今やアンプから漏れる音量はテレビのそれよりも下がっていて、カチカチという鍵盤を叩く音とベースを弾くアタック音ばかりが響いている。それでも輝には十分らしく、和奏のピアノや瑞希のベースに指示を出し、時には自身がベースを手にして例を示して見せた。
そして、七時。瑞希が自身の納得の行く演奏ができたところで、その日の練習は終わった。
遅くまで失礼しました、と輝と瑞希が言い、さあ帰ろうと玄関を出た時だった。
「雨が降ってるじゃねえか。……気づかなかったな」
空にはどんよりとした雲がかかり、しとしとと予報外れの雨が降っていた。
同じマンションの一室に住む輝は問題ないが、瑞希はベースの持ち運びのために荷物を減らしていたため折り畳み傘を持っていなかった。
「凪流さん、傘はありますか? なければお貸ししますが」
「ん、ないけど小雨だから大丈夫よ。見た感じこの家、傘一本しかないみたいだしね。明日も雨が降ったら困るでしょ」
「それは、そうですが……」
「なら俺が取って来るよ。家には二本あるし、いくら小雨だからって濡れて帰るのはいけないだろ」
「……じゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかしら」
「ああ。すぐに取って来るから、ちょっとだけ待っててくれ」
輝はそう言うと、和奏と瑞希を玄関に残して自分の部屋がある上の階へと向かって行った。
「今日は遅くまで付き合ってくれてありがとね」
無言で佇む和奏に、瑞希がそう言った。
「いえ、お気になさらず」
素っ気ない返事が返ってくる。それが別に怒っているわけでも、迷惑そうにしているわけでもないことに、瑞希は最近ようやく気づいた。輝曰く、ちゃんと感情を顔に浮かべる女の子らしいが、流石にそこまでの域には達していない。
どちらにしろ、決して苦手なタイプではない。むしろ、必死に周りの様子を窺って愛嬌を振りまいている同年代と比べると、和奏のことは好ましく感じている。
そんな和奏に今まではなかった興味を覚えているのも確かだ。……大体、いつまでも輝を間に挟んでコミュニケーションを取るなんてのは性に合わない。
「和奏」
あえて呼び捨てにする。和奏は一瞬だけ眉を動かしたが、何事もなかったかのように答えた。
「はい、何か?」
「あのさ、和奏は雨が好き?」
和奏は少し考えるような仕草をした後、口を開いた。
「好き、ではないですね。その雰囲気が好きだという感想は耳にしたことはありますが、私には理解できません」
「そうよね。あたしもそんなセンチメンタルな気分にはならないわ。服は濡れるし、髪も跳ねるし……ってこれは和奏の方が大変かしら」
「ええ確かに、これだけ長いと手入れは面倒ですね」
和奏は腰ほどまで伸びた長い髪を手ですいた。さらり、と何も引っかからずに手がすり抜ける。何だか、シャンプーかリンスのコマーシャルにでも出られるんじゃないかと思う。
「でも、それはきっと些細なこと。
雨は必要なものです。当然のように雨の恩恵を受けている私達は、それすら忘れてしまっているのでしょうけれど」
その通りだ。この国は水に恵まれている。
「水が飲めなくても、死にはしないのにね」
死にはしない。だが、生きるのも苦痛でしかない。キャンセルがどのように発動しているのかは解明されていないが、鏡界の人間は水分を摂取しなくても生きることができる体を持っている。――ただし、生きるために必要最低限な機能のみを残して。
つまり、水を飲まなければ限りなく死に近い状況になる。現在でも、水を与えないことは拷問の中で最も使われる手法となっている。
水は必要だ。雨は必要だ。たとえこんなちっぽけな自分が多少煩わしいと感じたとしても。
「だから、私の答えは“好きではない”です。決して嫌いではありません。凪流さんは――瑞希はどうですか?」
「……私は、私も……嫌いじゃないわ。まあ、憂鬱な気分くらいにはなるけどね」
「今も憂鬱なのですか?」
和奏が雨の降り注ぐ外を見やる。
「どうかしら?……少なくとも今、和奏と話している分には、決して憂鬱じゃないわ」
瑞希が軽く笑みを浮かべながら言うと、和奏も僅かに顔を緩めた。
「……久遠があなたを選んだ理由が少しだけ分かりました」
そう言って、人形のような少女は小さく笑うのだった。
[第3話 Day wonder day 完]