Hello, world
時間が解決する、という言葉が嫌いだった。苦しみに耐えて、いつかその痛みが癒える時が来るのを待つことが。行動を起こせないのを言い訳にして、ありもしない奇跡に縋っているように思えて。
待つのではなく、自ら進みたい。一秒でも、一瞬でも、その時間をしっかりと噛みしめて。
――時間は何も解決しないのだから。
◇◆◇
――叩きつけるように、歌っていた。
狭いステージ。照明は肌を焦がすほどに熱い。客席を見渡せば、狂ったように手を突き上げ、頭を振り回す連中。
――泣き叫ぶように、歌っていた。
ドラムの音が、ベースの音が、心臓に突き刺さる。それを頼りに弦を掻き鳴らす。音の洪水。ロック。
――求めるように、歌っていた。
どれだけ歌っても、何かが足りない気がした。埋まらない心の隙間。……求めている? 何を? 誰を?
「く……。……く……ん」
「……」
頭上から声が降ってきて、久遠輝はまどろみから覚めた。
「やっと起きましたか、久遠」
眩しさに顔をしかめながら薄目を開けると、そこには一人の少女が立って輝を見下ろしていた。
「またこんな所で寝ていたのですか? あなたは」
こんな所、と言われて自分がどこで寝ていたのかを思い出す。マンションの屋上だ。ちょっと休むため横になったつもりが、いつの間にか眠りに落ちてしまったようだ。
「太陽が良い具合に当たるんだな、これが」
横になったまま、言い訳をしてみる。五月の日差しは柔らかで心地良いのだ。
「……風が強いです」
「おかげで寝苦しくない」
輝のどこか気の抜けるような言葉に、少女――華秋和奏は腰程まで伸びた長い髪を抑えつつ、小さくため息を吐いた。
「そうですか。まあ、どうでも良いですが。……それより」
「ん?」
ばっさりと話を切られ、何か用事でもあったのかと思い輝は身を起こした。目が合う。端正な顔つきに透き通った瞳。体つきは華奢でいて人形のようだ、と輝は日頃から思っている。そして何よりも目を引くのは長い銀色の髪である。太陽の光を浴びて、幻想的に輝くその髪を見ていると、彼女が物語に出てくるお姫様のように思える。
思わず見とれていた輝に和奏が告げた。
「時間、大丈夫ですか?」
まさか、と思いつつも輝は時計に目をやり、そして絶望した。
「うお! バイトの時間、過ぎてる!」
「やはり、そうですよね」
取り乱す輝に対してあくまでも冷静な和奏。そもそも和奏は感情をあまり顔に出さないから分かりづらいのだが。
「必要な荷物は準備しておきました。今更焦っても遅刻には変わりないので、せいぜい死なない程度に急いで行ってください」
慌てて立ち上がった輝にバイト用のリュックが手渡される。
「サンキュ! んじゃ行ってくる!」
感謝の言葉を投げつつも輝の足はもう動き出していた。死なない程度に急いで。
久遠輝はフリーターである。ニートではない。何故なら親からは金を一円も貰っていないからだ。そして輝はアルバイトで生計を立てているからだ。
中学を卒業したあとも高校には進学せず、かといって職にも就かずにただ明日を生きるためにバイトで生計を立てている。こんな自分なんかとまともに付き合ってくれる人は、和奏と、輝と同じく中卒である同級生の男ぐらいのものだ。
とにかく、久遠輝は齢十八にしてフリーターの男だった。
その後、当然の如く輝はバイト先ではこっ酷く叱られた。それでも和奏が起こしに来てくれなかったらもっと処分は重かっただろう。今のバイトは時給が良いから、やめさせられるわけにはいかない。やめさせられたら、金がなくなる。金がなければ、飯が食えない。飯が食えないと、生きていけない。――簡単な式だ。
そのバイトの帰り道で、コンビニ帰りと思われる和奏を発見した。
「よ、和奏。買い物か?」
「久遠。ええ、夕飯を買いに」
後ろから声をかけると、長い髪を翻して和奏が振り向いた。横に並んで歩くと、なるほど、ビニール袋の中には弁当が入っている。
「相変わらず料理は苦手なんだな」
「料理をする必要性が感じられません」
少しだけムスッとした返事が返ってくる。心なしかいじけているようにも見えて、輝はなんとなく微笑ましい気分になった。表情の変化は薄くてもちゃんと彼女には感情があり、そして輝は時折見せる彼女の表情を楽しみにしていた。
「あなただって、料理はしないでしょう?」
「……そりゃそうだ」
和奏の反撃に輝はたじろぐ。飯は最低限食えれば良いと思っているため料理はロクにせず、和奏と同じくコンビニやレトルトのお世話になっている身だ。
「一人暮らしは大変だな」
「お互い様、です」
和奏は輝と同じマンションの住民で、一人暮らしをしている。輝が二年半程前に引っ越してきて以来、色々縁があって今でもこうやって偶に会って話をする仲である。
それきり和奏は口を閉ざしたため、自然と会話が途切れた。和奏は無口なタイプなため、こういった会話のない時間が二人にはよくある。気心の知れた二人の、無言が心地良いというシーンは定番だが、輝にとってはそんな大げさなものじゃなく、ただ真っ白で居られるという気分である。気負いとか、遠慮とか、配慮とか、そんな余計な物が削がれたような。
結局これを心地良いって言うのかな、と輝は思う。
「……」
そして、そんな静かな空間では色々なことをぼんやりと考えてしまうものだ。
街灯がぼんやりと照らす道を歩く、同い年の二人。一人は現役の学園生。片や、現役のフリーター。
我ながらシュールな光景かも、と自嘲気味に思う。
「……何か?」
「うん?」
「いえ、何かくだらないことを考えているような目をしていたので」
「くだらないと断定かよ。……ただ、和奏は学園生なのにさ、俺はフリーターだなあって思っただけ。実際、端から見たらどうなんだろう?」
「くだらない」
気持ちの良いくらいあっさりと一蹴される。
「他人の目など気にするような性格ではないです、あなたも、そして私も。そんなことを考えている暇があったら、もっと有意義な時間の使い方をしてください」
「何、拗ねてるんだよ……」
「拗ねてなどいません。あー、くだらない、くだらない。誰か面白い話を聞かせてくれないでしょうか」
夜空を見上げ手を後ろに組みながら、和奏は何ら声色を変えることもなく言う。
「めちゃくちゃ棒読みだな。それじゃ話を変えて、と。昼間はありがとうな。おかげでクビにはならなかった」
「そうですか、それは幸いでしたね」
「ああ」
「…………」
「…………」
「……あなたに面白い話を期待した私が馬鹿でした」
「ああ」
輝と和奏の関係はいつだってこんなもんだ。……でも、そんな関係が心地良いって言うことなのだと輝は思っている。そしてきっと、和奏もまたそうなのだ。
翌日。バイト帰り。マンションのエレベーター内。
輝は俄かには信じがたい状況に直面していた。
「ありえねえ……」
エレベーターのボタンが一つ増えていた。
「エレベーターのボタンが一つ増えている」
狭い空間の中で、思ったことを口に出して確認してみる。紛れもなくボタンは一つ増えていた。
一、二、三、四、五、六、七。
自分の住む部屋の階が六階で、このマンションは六階建て。つまり最上階だ。ここは日本であってヨーロッパや台湾じゃないのだから、日本の感覚で七階のボタンを押すと六階に着く……なんてことはない。それにも関わらず、さも「最初からここにありましたが、何か?」とでも主張するかのように、六という数字の上には七と書かれたボタンがあった。
屋上へ直通するように改修でもされた。つまり、七=屋上ということ。それが一番現実的かもしれないが、輝はここの屋上を良く利用している。あそこへは階段でしか行けないし、仮にそのような工事を行ったとしたら気づかないはずがないのだ。
「マジありえねえ……」
どこの若者だ、と自分自身に突っ込みを入れたいような感想しか漏らせなかった。
もちろん、わざわざこんな正体不明のボタンを押さずに六階へと行っても良いのだけれども、しかしだからと言って全く興味がないわけではない。
そう。ひょっとしたら、ずっとこういった刺激を求めていたのかもしれない。
変わらない日常。何かが足りない気がする日常。――それをぶち壊すような突拍子もない出来事を。
過去に一度挑戦して、失敗した。自分自身が壊れてしまったのだ。もうこのような機会はないのだと諦めかけていた。
「時間は何も解決しない」
それが輝の心情だ。待つのではなく、自ら進め。
「…………行け!」
そして輝はボタンを押す。押した。押してしまった。
七。――当ても、果てもない、行き先を。
動き出したエレベーターは、普段と何も違いは見られない。
そしてそのまま六階を――通過した。
「……えっ!」
その瞬間、エレベーターが激しく揺れ始めた。横揺れ、続いて縦にも。
「うわっ……!」
故障か、大地震か。どちらにしても異常な程にエレベーターは揺れ続ける。……しかし、その二つ予想はどちらも不正解だった。
それを裏付けるかのように、最大の変化が、来た。
――何が来たのか? 端的に言うならば“加速”だ。
「ぐぁああああ!」
空気を引きちぎりながら、エレベーターは上へ上へと加速する。明らかにマンションの高さを越えても尚、そのスピードは微塵も緩む気配がない。
――加速する。
凄まじい大きさの重力に押さえつけられた輝は、あっという間に立っていられなくなり、床に張り付くように四つん這いにさせられた。
――加速する。
何なんだよ、これはっ!
そう叫びたかった。いや、実際叫んだのだが、声は轟音と圧力に掻き消され音にならなかった。
――加速する。
やがて口を開くことさえ叶わなくなる。文字通り身動き一つ取れない。
……どれほどの時間が過ぎたのだろうか。輝の思考の端には諦念が生まれつつあった。助からない、という。最早上がっているのか飛んでいるのか、それすら分からない。
《俺は、お前に、謝らない》
不意に、聞き覚えのあるような声が聞こえた。とても身近で耳にしているような声。
その声を捕える感覚器官は、しかし、聴覚ではない。直接頭の中に語りかけられているような気がする。
《大体、来るのが遅すぎなんだよ》
何のことだ……。そう言おうとしたが、相変わらず音にはならなかった。
《もう、待たせるな。会いに行け。その権利を持つのはどの世界にもただ一人しかいない。俺じゃない……ましてや他の誰かでもない。お前だけだ、久遠輝。お前が会いに行くんだ》
この声をどこで聞いたのだろうか、思い出せない。この男が何を言っているのかも分からない。意識が酷く歪む。
《Hello, world》
――そこで輝の意識は途絶えた。落ちていく。
[プロローグ Hello, world 完]
閲覧して頂きありがとうございます。
更新ペースは一週間に一度を目標としています。
これが処女作なので、至らない点も多くあると思います。
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