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家と足

掲載日:2026/10/26


 バスの外側には青々とした街路樹があり、仲のよさそうな老夫婦や登校中の学生たちがその道を往来していた。人のつながりというのは線状にあらわされることが常だが、私からしてみれば膜のように見える。細胞のようにそれは内と外を分断しながら動的平衡を保つように外来との交流をキープしている。空気や栄養を確保しつつ、膜内ではホメオスタシスによって熱が一定に保たれている。

 私にも時折そういった人間関係の膜の中に入る機会があったが、話題や対話が繰り広げられてもどこか熱を帯びることはできなかった。私はずっと細胞の中に留まらない液体のように世界に飄蕩している。

 渋谷区青少年センター前です、というアナウンスが電光掲示板に光るや否や私は降車ボタンを押した。膝の上に画面を伏せて置いていたスマートフォンを取り上げて、グーグルマップでもう一度経路を見る。やはり渋谷区青少年センター前だ、時刻は8時40分、予定通りだ。あとはついてからどこを通っていくか、そして、どこに向かうのかを確認しなくては。

 経路とか、目的地とか、乗り換えとか、そういうものの一つが不明瞭になったり、不安になったりすると、諸々のことが点検してくれと私の脳の中で足音をたてる。そもそも今日だったか?とか髪型は大丈夫か?とかスマホ、財布、筆記用具は持っているか?とか今ではどうにもならないことすら頭をもたげてくる。そのうちどれを解決すべきか、あるいは取捨選択をしないといけない。心を乱されることなく、バス一つ降りられたものじゃない。

 私にも膜が欲しい。未知と既知を淡く隔てる境界が今もっとも欲するところだった。すくなくとも私の脳を守っている硬膜はそうでなかった。

 しかしもはや膜や安心を求めるというのは捨てたものだ。

 巨大な豪邸、白色で大聖堂のように安定感があり、その建物以外には見晴らしのいい草原しかない。草丈を超えるような敵は身をひそめることができず、ただ一つ風雨から百年は身を守ってくれるだけの頑丈な家。それを手に入れるために私は今ここに生きているのだ。

 踏み出した一歩目が左足からじゃなかったせいか、バスを降りるとき、私は赤い大きな百足を踏みつぶしてしまった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「午後の予定について以上です。何か質問は?」

 教壇に立った講師が教室内を見渡すが、みんな一様にニコニコしていて、質問らしき質問はひとつもなかった。

 私が参加したのはマーケティングに関するキャンプイベントだった。

 二日目になったがグループのみんなとは膜を構築できていない。

 年下の男子は二日目も目深にキャップを被っていて、そのツバを使って私たちの視線をうまく弾き返している。女子の方はぎこちなく目線を泳がせたかと思うとスマホに目をやった。無言の中に互いのぎこちなさが騒然と鳴っていた。私はその無音の煩さに圧倒されて、しどろもどろになりつついろいろと小話をするしかなかった。

 合わなければ終わりだと思った。しかし、どれほど居心地が悪かろうとこれまで膜の中にいた実感の薄い私にはほか二人よりもその落差に打ちのめされるようなことはなかったと誇示したい。

「動画編集とか、スライド作成って得意だったりする? あんまり私はやったことないんだけど、もし得意な人がいればそっちを取ってもらって、残った方を私が担当するよ」

 私はひとまず二人に提案してみる。

 今回のマーケティングの課題は訪日外国人客に対して今までにない角度のプロモーションをしよう、という漠然としたものだった。

 自分一人ならいくらでもアイデアは出るけれども、今回はなるべく苦手を克服するためにチームワークをいかして作業しようと思った。少しは膜のようなものや無言の圧力に気圧されないための練習になるはず。

「動画編集もスライド作成も得意じゃないです」

「スライド作成なら、Canvaって使ったことありますか?」

「うん。それじゃあ、Canvaで資料作成しながら、インスタに挙げる用の動画の編集をしようか。分業して、私がこっち側やるね。〇〇くんもこっち側手伝ってくれる?」

 とりあえず彼がうなずいたのを把握してから、時計を見上げた。とりあえず、早くお昼を食べたかった。腹の虫が鳴いた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 こんなことして何の意味があるのだろう。

 施設に併設されているコンビニラウンジで昼食をとる。

 円筒形のラウンジは真っ白に塗られ、何本か白い柱が聳え立っている。それが天窓に伸びていて、雲を支えているのではないかと思わせるほどだ。太陽光が薄膜のように流れ、雲間の動きに合わせてヒラヒラと靡いた。

 私は何も考える気になれなかった。

 目の前でぐちゃぐちゃに混ぜられたビビンバを忘れて、私の魂は白い円筒の中を浮上していた。

「子供、欲しいな」

 誰の口から出たのだろうか。

 恥ずかしい言葉にカッとなり、私は右手に反射的に力を込めてしまった。フォークがプラスチックのコンビニ弁当底を突き破る。割れた黄身が弁当底から漏れ出しそうだ。

「……早く食べないと」

 そのうちにコンビニから弁当を買ってきたほかのメンバーや同じプロジェクト参加者が周りにあふれる。私は笑顔を浮かべてチームメンバーに「こっち座りなよ」と言った。半ば何かに操られたかのようにぎこちない台詞だったと思う。

 二人は安堵したように、あるいはちょっと疲れを見せたような顔をして、私の右隣に連なった。

 眼前にはいつの間にかアメリカから参加している留学生のカサンドラが座っていた。

「ハイ、カサンドラ」

 カサンドラは今日だけこのマーケティングキャンプに参加した補助役のようだった。正味私のことを知らないからフレンドリーそうな私の手前に座ってくれたのだろう。なんだか悪いことをしてる気分になる。

 私にはフレンドリーさしかない。

 でもそのフレンドリーさは作為的なもので、その作為が不安感に由来していることもいずれバレてしまう。

 カサンドラは、しかし、ほかの膜を持った恒温動物たちと違っていた。彼女もまた異国の地において種が違うものとして扱いを受けているからなのだろうか、私は久方ぶりに何か波長の近いものを彼女から感じた。

「はじめまして、私は藤巻。会えて嬉しいよ。アメリカのどこから来たの?」

 カサンドラは柔和な笑みを浮かべた後、バウンスするように全身を使って説明し始めた。金色のくせっ毛は彼女のチャーミングポイントの一つだと思った。

「こちらこそ。アラスカ州よ。冬になると北極と大差ないくらい寒くなるようなところから来たわ」

「そうなのか。そうしたら今の日本の暑さは堪えるものがありそうだね。温度もそうだけど、湿度も高い国だから大変でしょう?」

 彼女はそれを激しく肯定した。

「日本の湿度! これは本当に大変よ。欧米と違ってすぐに汗をかいちゃうから、すぐにシャワーに毎日入る習慣ができたわ。だってすぐ汗臭くなっちゃうし」

「本当にね。私も日本人だけど、この蒸し暑さだけは嫌になるよ。今はどこの大学にいるの?」

「春まで日本語学校にいたけど、この秋からは大学の方で授業を。今は日本文化を専攻してるの。でも、正直日本文化を専攻している人って、なんていうか、ちょっと変わり者が多くて。Weebってわかる?」

「わかる。オタクみたいなものでしょ」

「もうみんな風呂キャン界隈。これ、私が新しく覚えた日本語ね、ふふ」

「風呂キャン界隈!」

 私とカサンドラは気があった。

 会話は英語だけど敬語や語尾を気にしなくていいから、好き勝手話せた。

 日本語はアイデンティティを記号的に規定するけど、私はそういうニュアンスの裁量を与えられるのが苦手だった。なんなら私は『私』を使わなきゃいけないのも、苦手だった。

 男らしい話し方とか、女らしい話し方とか、そういうものを使うことも使わないこともすべてに意味が籠る。

 その点でIから始まる文章は言いたいことだけを言えていい。

 自分を表現するのが言語の使い方ではなく、話す内容に規定されている。

 私がネイティブじゃないから間違いを気にしなくていいと安堵できるのも要因かもしれない。それでも、カサンドラには通じる。

「アラスカの家の様子はどんな感じ? アメリカは土地が広いから道幅も広くて、家も大層大きいんでしょ? 私も日本の北端の島に家族がいるから、いずれは」

 いずれは?

 言葉がつっかえた。

 言語的にではなく、アイデンティティ的に。

 私は本気で叶うと思っているのだろうか?

 私は本当にそう夢見ていたのだろうか?

 私はいつからそんなことを夢見て。

 カサンドラが小さく日本語で「がんばれ」と言った。丸顔に弾力を持って浮かべられた笑顔は本物の血の通った笑顔だ。

 カサンドラは私の言葉のつっかえを非ネイティブスピーカーにおこる普通のことと捉えたようだった。私はそれに甘えて適当に誤魔化す。

「あー、なんでもない」

 彼女は自分のスマホのカメラロールから、実家の写真を見せてくれた。

「アラスカでは冬にオーロラが見えるんだ。これが私の家だよ」

 そこにはアメリカ製の巨大な、白い邸宅があった。

 横長で、車庫があって、豪華な家だった。

 夜闇に浮かぶ美しい歯列のような家はその上に緑色のヴェールを称えていた。まるでおとぎ話のように、彼女の家の上にはオーロラが煌々とあった。

 そんな写真がスクロールされるたびに出てくるし、彼女の家の近くの湖の写真、山の写真、乗馬した姿の写真は本当に夢のようだった。

「That is my dream」

 それこそが、私が夢見ていた以上の夢だった。その夢にときめいていた。

 dreamなんて動詞を使うのは久しぶりで、キング牧師の言葉が出そうになるのがくすぐったかった。

「I have a dream. That dream. This dream」

 スマホに映る世界は夢想と同じく私には手に届かないもの。スクロールするたびに様々なカサンドラの生活が輝かしく過ぎる。

 彼女がアラスカの学校で参加した文化祭、家族との写真、彼女の弟のふざけた写真。それから彼女は彼女の父が軍に勤めていたことやいろいろな彼女の家族の話をしてくれた。

 私が蕩けたように目で追い、耳で追っている様子に、彼女は私が本当に彼女の生活に感動しているようにとらえられたのだろう。

 私の表情の放蕩は悲しみ。そして、絶望だった。

 それは白い絶望。

 彼女の内側にあるオーロラに照らされた雪のように透き通る輝きは手を伸ばしても、私にはその冷たさしか得られない。どれほどときめいても、ときめけばときめくほどに、その光が心を鋭く刺した。

 自分の頭の中にあった懐かしい夕焼けに沈む白い家のイメージはいまやただチョークのようなちゃちな白さに変わって、丘も、崖から望む海もなくなって、ただ白んだ箱になっていった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 私には夢がありませんでした。

「あなたの夢を英語で話してみて」

 お金? 豪華な食事? ゲーム? 友達とか恋人とか?

 全部人生を費やすのにはいささか夢たりえないチャチさがありました。

 誰かが言っていたようなものというか、それらは夢という言葉を埋めるためのパズルのピースでしかありません。

 でも、それしか思いつきませんでした。私は満たされていたし、今以上に何かを望む必要はなかったからです。それでも私はパッと思いついたパズルのピースを組み合わせて、出来合いの夢を作りました。

「アイ アーン アロット オブ マネー。アイ イート デリシャス ディナー、 あー、 ウィズ マイ フレンド、 アンド マイ ファミリー」

 たくさんお金を稼いで、友達や家族と素敵な食事がしたいです。

 それがぼんやりとしているけど、私の幸せの基本形です。

 パズルが組み上がってできた絵は案外悪くないものでした。

 その絵に共感できました。

 例えば、いつか子供の頃、みんなで昼食を一緒に話しながら食べた瞬間が好きでした。それは学校でも、親戚での集まりでも、『僕』にはあの頃無言の声も足音も聞こえなかったのですから。みんなが笑っていることも、何より自分が笑っていることが幸せでした。

「それだけ?」

 ソレダケ?

「結婚して、家を持つとかは興味ないの? 私の夢は海岸沿いに大きな家を建てて、ハンサムガイと暮らすことよ! 子供はね、たくさんほしいの」

 フィリピン人の英語教師は私にそう言います。

 彼女はエネルギッシュで、南国の太陽のようで、夢を語る彼女は本当に幸せそうでした。私にはその時見えたのです。彼女が海でパートナーと子供たちと一緒に幸せそうに笑っている姿が。それがとても似あっていて、それがとてもうらやましくて、確かに夢に相応しいと思いました。

「じゃあ アイ ウォント テン チルドレン」

「十人! いいわね!」

 量が多ければ多いほど、幸せになれると肯定しているかのように彼女は笑いました。まるで南国を産んだ女神を知っているかもしれないと信じ込ませられるほどに、彼女は産まれることの幸せを信じていました。

 …………。

 私も子供と一緒に幸せになりたかった。

 彼女に私が見つけたような未来を自分も味わってみたいと思った。

 そのうちに自分の祖父母の家を思い返していた。

 もうなくなってしまった家だけど、鮮明に思い返せる。

 ミニチュアダックスフンドが2匹いた。花の女神の形をした燭台があった。ガラスの食卓でいつも芋をマッシュしたものを食べていた。

 庭にはフキノトウとナナカマドがあった。

 フキノトウは曾祖母が漬物みたいにしてくれたし、ナナカマドは冬に来ると赤い実を雪の上に落としていた。

 大理石の応接の間には絨毯と大柄なソファが一対、和室につながっていてそこには一族の仏壇があった。

 褪せた記憶が蘇ってきていた。息を吹き返したように白んでいたものたちがときめきを取り戻していた。その中には死んでしまった曾祖母への愛や後悔もあった。曾祖母は私が生まれる前に亡くなってしまった曽祖父の隣で笑っていた。曽祖父の顔は知らないから黒く記憶の中では塗りつぶされてしまっていたが。

「……犬が二匹、白い馬が5頭、子供はできるだけいっぱい。それから畑と庭を持って、子供たちと芋ほりをして、バーベキューを夏にやって、冬はみんなで雪合戦やスキーをする」

 そんな幸せな家が持ちたかった。

 またあの曾祖母がいたような家で、賑やかな日々を送りたかった。

 自分が愛されてきたように、次の誰かを愛したかった。

 そのためならどれほど生きることが辛くとも、死ぬまで愛せる気がした。

 そのとき分かった。

 夢とは生きる活力なのだと。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「持ち家がないというのは悲しいことよ」

 曾祖母の家が叔父の拵えた借金によってショートケーキのように、土地ごとカッティングされて売られたときに母が私に言ったことだった。

「ねぇ、長寿。あなたがいつか稼いだら家を買いなさい。白い家がいいわ。アメリカのファンシーな感じで、犬を飼いましょう。こんなせまっくるしい東京にいる必要もないのよ」

 外観に設定なんてなかったけれど、母が言うならばそう言う家もいいかもしれない。なんてぼんやり思っていたことを思い出した。

「いつかあの家を取り戻して見せよう」

 それは私と母のどちらが言い出したことかはわからなかった。

 もしかしたら母は口にはそんなこと出してなかったかもしれない。

 けれど、私と母の想いはきっと混然一体となっていた。

 家を手に入れる。それは失くしてしまったから。

 帰るべき場所に帰るために。家族のために。

「馬鹿だよな」

 父は書類を整理しながらつぶやく。

 叔父を馬鹿にし、母を慰めることもなく、ただ淡々とことの整理をつけていた。

「お前はちゃんとやれ。そうだ、ちゃんと孫の顔も見せろよ」

 長男なんだし、家が潰れないようにうまく立ち回れよ。

 家の存続こそが私の今生きる意味なのだ。

 物理的な家はなくなったけれども、血筋があれば繋がれる人がいる。

 そのためには子供が必要なのだ。

 すでに私の中にときめくような恋愛感情は枯れ果てていた。

「任せてください。これからは私がしっかり家を支えていきます」

 私は白い家で、たくさんの子供たちに囲まれるのだから。

 夢の中の家で子供たちは白く均一で、まるで出荷前の芋のようだ。

 ただ増殖する媒介物でしかないのに、媒介する意味もないままの増殖は図像が氾濫するかのようだった。

「私たちは何のために」

 起き上がれない日に泣きながら私は闇と化した天井に向かって慟哭した。

 それでもよかった。

 子供たちと白い家があれば私はそれで。

 私はそれでよかったのだったっけ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 父方の祖母が死んだ。

 父方の叔父と一緒に住んでいたらしいが、精神に難のある叔父は長子であるのに、その土地を相続できないらしい。

 父が土地を相続するならば、その土地はいずれ川を流れる水が滝つぼに溜まるように自然と私の手のひらに落ちてくる。

 ……

「本当にアイツは思いもよらないことしかせんな」

 将棋盤から取り上げた桂馬を指でもてあそびながら父が言った。

 その声音にはいつもの鉄板が震えるような苛立ちの音を帯びていた。

 叔父が病院に留まらないと駄々をこねているらしい。

 私が父と将棋をしているとそんな話が飛び込んできた。

「……では、住まわせておけばいいのでは」

「そう思うか?」

 窓の奥で雪の塊がぼふっと軒先から滑り落ちたのが見えた。その衝撃からか、奥の生垣の椿が血だまりを飾るように落ちた。

 自分が死に際に見た景色だったら命も諦められそうなほどに綺麗な滑落だ。それを見て私は持ち駒の金を相手の陣地に張ろうとしている手前だったが駒台に戻した。

「ここいらで家をあちらに建てようと思ってな。だが、それにはアイツが火種なのだ」

 思いもよらぬこととは、叔父が家に帰ること。

 思いもよらないことを起こすことが父を怒らせるきっかけになるというのを痛いほど知っていた。私はなるべく刺激しないように、父の誘いに乗って歩で歩を取るほかなかった。

「家、ですか」

 父はまんまと引っかかったと私を嘲るように息を殺して笑う。

 あの土地に叔父が病院から舞い戻る。桂馬で歩を取られる。

「アレが死ぬ頃には俺も死んでしまってるからな。トタン屋根のボロ屋を大事に住処にするしかないやつが使いつぶすには勿体なすぎるものだ」

 父に土地の所有権が回ってこなくなる。

 桂馬が動いたことで空いたマスを通して角が王手をかける。

「そうでしょうね。でも」

 父の長子という私の座も意味をなさなくなる。

 金を張って塞ぐも、私の言葉を遮るように飛車が突貫し、また王手をかけられた。

「誰が真に藤巻の土地を管理し、有用に扱えるかは目に見えていることだ。だから」

 王手。

 土地。

 これはまずい。父が最後まで言い切らずとも私は百も承知していた。

 気が付けば将棋盤の上を赤い百足がうねうねと歩んでいた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 カサンドラやほかの指導員の人との交流もあって、私たちのチームはメンタルケアを受けながらも動画作成と発表をどうにか完成させられた。

 班員の一人の提案で、最後まで手抜かりなくリハーサルをしたおかげで、私たちはベストチームワーク賞を受賞できた。それは参加賞的にもらえる賞であり、最高の発表をしたチームはほかで表彰されたが、それはそれとして私は嬉しかった。視線や意図を察してほしいと言わんばかりの態度につかれていた。

「じゃあね」

「またね」

 二度と会うことがないのに再びまみえるような挨拶がいろいろと繰り返される。カサンドラともそうだった。

「あなたに会えてよかった。私もいつかアラスカに行ってみたい。オーロラを見に」

「是非来て。その時は私が歓迎するわ」

 私たちは連絡先を交換して別れた。

 それももう連絡することがないのにするようなものだった。

 カサンドラとはここじゃないどこかならもっとずっと仲良くなれたかもしれないし、あるいはここじゃなかったら一生すれ違っていたかもしれない。同じ大学に通っていたとしても、同じ学部だったとしても、話すことはなかったかもしれない。

 途端に人生を振り返ると、私は身近なカサンドラを大量に指の間から零していったのではないかと恐ろしくなる。

 またバス停に行く。

 バスに乗って、車窓からオーロラの夢を見る。

 街路をなぞる様に、カサンドラの写真に写っていたあの緑色のヴェールが並走するようなことを想像していた。

 ヘッドフォンをカバンから取り出して、車窓に預けていた頭を上げる。

  オーロラとミュージックアプリで検索に入れるとOnce upon a Dreamがかかる。眠れる森の美女のテーマ曲だった。

 ゆったりとした音楽に包まれたせいかあくびが自然と出た。

 一気に緊張がほぐれたおかげもあって頭をそのままかしげて、私は眠りについてしまった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 夢を見ていた。

「それに比べて、お前は!」

 父の怒号が壁を通して聞こえる。

 思わず背筋が伸びて、盤上から摘み上げた駒を落としてしまう。

 カラン、コロン。

 脂汗をかきながら私は慌てて床に落としてしまった駒を探していた。

 真正面に座った相手は動じることなく、私のみっともない一挙手一投足を見ているものだから、より緊張して指が汗ばむ。

 ちょうど盤の下に入り込んだ駒を握りこむように捕まえて取り出した。

 ほっと一息をついたところで握りこんだ拳をおもむろに開いてみると、その駒はただの五角形で何の役も書かれてなかった。

「ハッ、何? 更年期? もう先がないからってアタシでストレス発散しないでよ!」

 隣の部屋でドタドタと足音と口論が聞こえる。

 苛立った足音は鈍器で家を殴るように響き、怒号の応酬は妹と父だけのものにとどまらないような気がした。私は全身に虫が這いずるような気分の悪さを覚えた。

 いつも、この家には、虫が這いずっている。

 無数の足を持つ姿の見えない虫が。

「こ、駒が白い」

 こんな駒を使っていたなんてバレたらいけない。

 のっぺらぼうの駒のことをどう言い訳しようかと、私は開いた手のひらの中で視線を泳がせた。

 こんな何にもない駒を使っていた言い訳をどうつけるかを必死になって考え続けた。考えれば考えるほどに、相手の顔が見られないようになり、相手の視線が水を吸った綿のように重くなっていった。

 私はついにその駒を盤の下に戻して隠してやり過ごそうとした。

「ゲームと関係ないものを拾ってしまったようでした。続けましょう」

 私はようやく面を上げて、にこやかにそう言ってみた。

 相手の様子は駒で手遊びをするでも、怪訝そうにするでもなく、ただ山のようにどっしりと構えているばかりだった。

「どちらの手番でしたっけ」

 そう言って、しっかりと見つめ直した相手は首から上が人間ではなく、長く伸びた百足だった。

 百の足。

 四方を囲んだ壁の向こう側から、無数の人間の苛立った足音が響いてきた。まるで和太鼓の中に閉じ込められたように足音の重なりが直に心臓を揺さぶった。父が怒りに任せて子供を殴り蹴る音、妹が叫び声を上げながら

「いつからこんな虫が私の家に」

 無数の足音が、怒号が壁の向こう側から聞こえる。

 百足頭の人間が足をはためかせる音は笑い声を殺したときの音に似ていた。

 ちょうど父との対局を思い出した。

 あのときも父は私が引っかかったとき同じような笑い方をしていた。

 私はそれを見ないふりをして、ずっと笑って。

「わ、私のことを笑っていたのでしょう」

 心臓が締めつけられるように痛んだ。

 全身に沸騰したように血が流れ、壁から聞こえる怒りに怯えながらも私はなぜか立ち上がっていた。

「頭も回らなければ、気も利かないのに、足音に追い立てられて焦ってばかりの私のことを面白がっていたのでしょう!」

 みんなが口裏を合わせて黙っていたとき、私には百本の足が貧乏ゆすりをしてるほどはっきりと聞こえていた。

 父が何も言わなくても、私はどこに駒を置くべきか間違えようがないくらい、顔色から声が聞こえていた。

 深夜の誰もいないはずの赤信号ですら渡ろうとすれば足音も視線もざわざわと私の肌を虫のようによじ登ってきた。

 この百足の正体はそういった私にしか聞こえない無音の足音だろう。

「みんな家がどれほど軋んでいるのか全く聞こえてない。それなのに不満を抱えていると足を踏み鳴らすばかり。みんな何のためにこの家にいる、何の意味も幸せもない」

 私は百足を蹴り倒し、頭を踏みつぶした。

 踏みつぶされる瞬間、百足の頭は父の顔になり、妹の顔になった。

 床に血だまりが広がっていく。

「それでも、私は、私だけは」

 許せない。

 もはやこんな虫が家の中に入り込ませてはいけない。

 百足頭は踏みつぶされて尚足がバラバラ動いている。頭が潰されても百足の足は動き続けている。それが許せず、私は馬乗りになって潰した百足の死体から足を毟って食べた。

 ブチブチと千切る。口に運ぶと鉄と泥の味がする。

 髪の毛を食べるように喉に引っかかって嘔吐する。

 だんだんと私も百足に変身していく。

 やがてすべての足を貪りつくした後には壁の向こう側からは何の音もしなくなっていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 十年後。某初老の家にて。

「将棋は得意かね」

 老獪そうな依頼人は薄ら笑いを浮かべて俺に聞いた。

「やったことないっすね」

 随分と思い入れ深そうな将棋盤がリビングの端でほこりをかぶっているのが見えた。昔は子供と一緒にやったりしたんだろうか、となんとなく彼のかつての私生活を創造する。

「私と息子はよくやる仲だった」

 依頼人は俺の視線に気づいたのかそれとも、単なる手持無沙汰なのか、ほこりをかぶった将棋盤を机の上に広げて駒を並べ始めた。

「十年前の大震災が我が家をがらりと変えてしまった。それは私たち家族から一人欠落が出たのもそうだが、昔の住処は崩れ去った」

 記憶を一つ一つ手繰り寄せるように、彼は将棋盤の上に正しく駒を配置して言った。

 十年前に発生した首都直下型地震はちょうど依頼人が住んでいるこのあたりで起こったらしい。俺は西の方に住んでいたからちょっと揺れを感じる程度でしかなかったが、あのときのニュースは津波や火災などの二次災害も含めて阿鼻叫喚だった。

「その地震が、なんだっか、君のいうところの」

「呪い、ですね」

 俺は呪術師だった。主にお祓い専門の。

 怪異、妖怪、異界、異常、超常、呪詛、祝福、恩寵、天啓。この世でまことしやかに囁かれる噂の類を調査し、それが人に害をなすのならば行って、斬る。呪いを祓うための祭祀刀も携帯した武闘派の呪術師が俺こと勝沼重蔵だった。

「最初は信じる気などなかったがね。しかし十年たった今、都の息のかかった復興・再開発事業が始まった。どうやらここに大きな商業施設を建てるらしい。ちょうどかつての我が家があったところにね」

 並べ切った将棋の駒は寸分の狂いもなく向き合い、静止している。まるで再開発されたビル群のようにそろっている。

 依頼人は飛車の前の歩を動かして、居飛車の構えを取った。

「だから、将棋はやったことないっすね」

「嫌いかね。将棋には身内の裏切りも、偶然の勝利もない。すべてが己の知識や読みあいの中で生まれる。対話よりも雄弁に相手のことを引き出せる。息子が強くなったのを実感するたびに、顔には出さなかったが嬉しかったものだ」

 地が揺るげば、天井から時間とともに堆積した煤が落ちてくるように、依頼人もまた十年前の地震に揺られて、古い思い出が手の中に振ってきているかのように淡く、ときめいた表情をしていた。

 将棋盤の向こうに見据える息子と十年前の地震と建設途中の商業施設は一直線に結びついている。俺は直感的に分かった。

「商業施設の建設が遅れているらしいが、そこには妙な噂があると聞く。どうにも幽霊が出るとな。百足と呼ばれているらしいな、長寿も最後のときは百足に怯えておった」

 幽霊、と口にした依頼人はまだ半信半疑な口ぶりだった。

「そっちは依頼があったから詳細は聞いた。誰もいないのに足音がたくさん聞こえるとか、いつの間にか天井に足跡がたくさんついているとか、作業員が急にヒステリックを起こして失踪したとか」

 作業員からたびたびそんな報告を受けていた建設会社とそのクライアント企業はとうとう内密に呪術師に相談をしてきた。俺は話を聞いただけでは土地の霊か、呪いの吹き溜まりに偶然触れてしまったのだと思っていたが。

「それだけじゃないだろう。その程度ではわざわざ呪術師なぞ海のものとも山のものとも区別のつかないモノに依頼しないだろう」

 依頼人は見透かしたように笑う。

 さすがに自分の二倍以上の時を生きているだけあってか、心理戦は得意なようだ。

「何人かの作業員が『実家に帰る』ことになり、急遽立ったから別れの挨拶もできなかったこともあったとか」

 どれだけ隠ぺい体質なのか。施工計画に大幅な遅れは出さないと宣言し、工事は予定通り進められることになった。その間にも、足音は響き続け、足跡は増え続け、作業員たちは災難にまみえている。

「息子は、恨んでいるのか」

 ふと依頼人は遊びかけた歩を駒台に戻した。

「恨まれるようなことをしてたら、恨まれるだろう」

 この男、藤巻とその失踪した息子・長寿の間に何があったかは知らない。きっと知らなくても無理やりにでも祓うことはできただろう。けれども、藤巻の顔には一切の怯えや後ろ暗さのようなものは感じさせなかった。その代わりそこには寂しさがあった。

「どの親も子から大なり小なり恨まれているだろう。親こそが子に最も重い期待をかけるからだ。だが、その重い期待に応えることで子はより高くから物事を見ることができるようになる」

 将棋をしようと尋ねて来た時の老獪さは消え、藤巻の背に乗っているのは重苦しい自らを呪う気持ちだけだった。

「ことこのような大都会で暮らしていくのならば、仲間もたくさんできるが、その仲間は同じ席を取り合う者同士でもある。長寿には藤巻家の更なる繁栄のためにも立派に育って欲しかったのだ。子が不幸になることを認めてやれる親などいるだろうか」

 藤巻は歩をひっくりかえしてと金に成らせた。

 敵陣を切り込む駒だけが成ることができる。

「たとえ子に恨まれたとしても、子の幸せを願い、叱咤激励するのが親の務め。その思いは長寿がいなくなった後も変わらぬ。が、こうしてのうのうと生きていると何のために生きているのか分からなくなってくるものだな」

 玉将がひっくり返されると、そこには何も書かれていない。

 そこにはなるべき姿などないかのようだった。

「金があっても、家があっても、私も長寿も幸せにはなれなんだ」

 金将がひっくり返される。

 王将と同じようにそこには何も書かれず、ただのっぺりとした五角形しか残らなかった。

「ただ笑い合って、将棋ができればそれでよかったのやもしれぬな。子と遊ぶそれ以上にときめく時があっただろうか。どうか、あれが長寿の呪いだというならば祓ってやってくれ」



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