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序章:概念の揺らぎ

夜の帳が降りる頃、十三歳のシニェデは、今日もピアノの鍵盤と向かい合っていた。最高峰ではないが、それでも名の知られた難関私立中学の制服を脱ぎ捨て、身につけたのはごくありふれた部屋着。窓の外には、都会の煌めく光が遠くに滲んで見える。しかし、その光は彼女の心に安らぎをもたらすことはなかった。防音室の厚い扉の向こうからは、今日もまた、母と父の、信義と論理の火花が、静かに、そして鋭く散っていた。それは、シニェデにとって、この家に満ちる決して鳴りやまぬ不協和音だった。


シニェデはピアノを弾く。それは、彼女の持つ数少ない武器の一つだ。指先が鍵盤を叩くたび、研ぎ澄まされた音色が部屋を満たし、防音室の壁を震わせる。最高峰の技術と並外れた要領の良さに裏打ちされたその演奏は、全国大会へと駒を進めるほどの実力を持つ。しかし、どれほど完璧な音を奏でても、彼女自身の心を癒すことはなかった。彼女の内面は、両親から遺伝したかのような、ある種の病理に侵食されていた。根深い自省の欠如と、人と衝突することをよしとせず、なぁなぁな関係を築くことでしか自己を保てない母の甘っちょろい他責的な人間関係。そして、他人との衝突を物ともせずに、すべての事象を合理的な方程式で解こうとする父親の冷酷なまでに明晰な論理。この二つの矛盾した概念が、シニェデの現実を静かに、だが確実に揺らがせていた。彼らは互いに、自身の「正しい」概念を絶対的な真理として世界に投影し、その衝突を繰り返す。その結果、シニェデの住む世界は、絶えず不安定な揺らぎの中に置かれていた。


その日の理科の授業で、教師が語った量子力学の奇妙な世界が、シニェデの心に深く刺さった。「箱の中の猫は、観測されるまで生きている状態と死んでいる状態が重ね合わせになっています。つまり、私たちの観測行為が、その状態を決定するのです」。教師の声は遠い残響となり、シニェデの頭の中を何度も反響する。自分はまるで、その箱の中に閉じ込められた猫のようだと感じた。母の言う「正しい」は情動の重ね合わせ。父の言う「正しい」は論理の重ね合わせ。どちらも観測しない限り、この二つの概念は確定せず、永遠に矛盾を抱えたまま、この家に漂い続ける。自分の存在は、この家庭において誰にも観測されていない、ただ漂うだけの「概念」であるような気がしてならなかった。家庭の方針で年長者に対する無意味な役割を課されないため、姉としての特別な権利も義務も持たない彼女は、妹や弟に嫉妬することもなかったが、それは同時に、彼女の存在がこの家庭において、誰からも観測されることのない、曖昧な存在であることを意味しているようでもあった。


その夜の夫婦喧嘩は、シニェデの心を深く抉るように始まった。ピアノのコンテストの結果と、学校の評点平均を巡って、母は延々と、まるで解けないパズルのように、すでに確定した過去を掘り下げていた。


「どうして全国大会の一次予選で、あと0.3点足りなかったのかしら。先生の講評をもう一度見て。ここの『表現力にやや課題』っていう部分、これってどういうことだと思う?やっぱり、もっと感情を込めて弾くべきだったのよ。シニェデは技術ばかりで、心がこもっていないって、他の先生方も言ってたわ」


母の甲高い声が、防音室の扉をすり抜けて、シニェデの耳に届く。母の言葉は、終わりのないループだ。シニェデはもう何百回とこの話を聞かされたか分からない。そして、そのたびに、自分の努力の結晶が、母の「つまらない」概念の消費材になっているように感じていた。自分のピアノの演奏は、母の承認欲求を満たすための道具でしかないのだろうか。そう思うと、彼女の心に、言いようのない虚しさが広がっていく。


「そして、この平均点。あと1点上がっていれば、学年トップテンに入れたのに。あなたが勉強の仕方をもう少し見てあげていれば、もっと上を目指せたはずなのに…」


母の言葉は、次第に矛先を父へと向けていく。まるで、自分の不満を、父のせいにして、その矛盾を解消しようとしているかのようだった。


父の低い声が、そのループを断ち切るように響く。完璧に論理的で、しかし冷酷な声。「結果はすでに出ている。コンテストの評点や学校の成績は、評価者や出題者というパラメータによって常に変動する。何の分析方針もなくただ他の開催場所や別の会の結果を見て、その変動を分析した気になることに本質的な意味はない。圧倒的な力をつけ、それら全てのパラメータを無効化する以外の近道はない。感情的な分析は、何の結論も導き出さない」。


父の言葉は、母の感情的な言葉を、論理の剣で切り裂いていく。母がどれだけ掘り下げても無意味なことだと断じるその声に、母の反論は、論理の軸を失っていく。「な、何を言っているの!私はそんなに長い間話をしていないわ!いつもあなたの言い方が…」。


同じリビングで宿題をしていた妹と弟が、急に静かになる。彼らは、この不毛な会話に慣れっこだった。母親の終わりのない話にはうんざりするが、同時に、父親が正しいと分かってはいても、わざわざ刺激して話を長引かせることにも苛立っていた。彼らは、喧嘩の終わる気配がないことを悟り、そっとリビングを後にした。その足音を聞きながら、シニェデは、自分だけがこの不協和音の残響に取り残されているように感じた。


シニェデは、ピアノを弾くのをやめた。その静寂の中で、彼女はまるで量子もつれを起こした粒子のように、どちらかの「正しい」概念に引き寄せられてしまいそうになる恐怖を感じた。このままでは、自分自身が彼らの「つまらない」概念に消費されてしまう。そう直感したシニェデは、本棚から、祖母が遺した哲学の専門書を手に取った。それは彼女にとっては難解な内容だったが、その中には「普遍」や「本質」といった、世界の根源を問う言葉が記されていた。


両親の喧嘩が最高潮に達したその瞬間、シニェデは哲学書を閉じ、静かに目を瞑った。彼女は、自分の内にある揺らぎを鎮めるかのように、瞑想を試みた。心の中で、両親の声を、世界の不協和音を、そして自分自身の存在を、ただ「あるがまま」に受け入れようとした。すると、彼女の意識は、まるで光速を超える粒子のように、現実の束縛から解き放たれていく。家庭内の矛盾という、狭く不協和な世界から、見知らぬ遠い時代の、広大な風の中へと吸い込まれていくのを感じた。それは、彼女がまだ観測したことのない、全く新しい概念の世界だった。

量子とは概念を物理的に観測したものであるという仮説を衝動的に物語にしたものです。考察は自由ですし、同時多発的にみなさまにも起きた事だと思うので、批評はしていただいても構いませんが、批判はご自身でなんらかの概念でしていただければと思います。(優しく見守ってください。概念の二次創作は二次創作とも思いませんよ。恐らく私が思いついた事も何かの積み重ねで二次創作的な出力に過ぎないのです。)

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