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融解する境界

観測史上最長の雨が続く海辺の町。全てが水に溶け、輪郭を失っていく世界で、人々は静かな無気力に沈んでいく。水溜まりに映る自分の顔が、日に日に見知らぬ「誰か」へと変貌していく時、個であることの恐怖と、融解することの甘美な喜びが、私を侵し始める。観測史上最長の「霧雨」が続く、海沿いの地方都市「雨霧あまぎり市」。全てが湿り、輪郭を失っていく世界で、人々は静かな無気力に沈んでいく。フリーの校正者である主人公・朔太郎は、水溜まりに映る自分の顔が、日に日に見知らぬ「誰か」へと変貌していく現象に苛まれる。これは、単なる幻覚ではなかった。雨霧市で配布される「観測日誌」に記された、恐るべきルール。この霧雨は、人々の個性を融解させ、一つの巨大な「集合意識」へと作り変える特性を持っていたのだ。自我を失う恐怖と、全てと融け合う甘美な誘惑の間で、朔太郎の精神は引き裂かれていく。逃げ場のない霧の牢獄で、彼が最後に校正する文章は、自分自身の「物語」だった。

俺、神崎朔太郎の仕事は、文章の「境界」を定めることだ。フリーランスの校正者として、作家が紡ぎ出した言葉の海の中から、誤字や脱字、事実誤認といった不純物を取り除き、文法というルールに則って、文章の輪郭を明確にしていく。それは、ひどく地味で、孤独な作業だ。都心の喧騒を嫌い、数年前に移り住んだこの海沿いの地方都市「雨霧あまぎり市」の、古びたマンションの一室が、俺の仕事場であり、世界の全てだった。

雨霧市は、その名の通り、霧の多い街だった。だが、今年の梅雨は、明らかに、異常だった。

始まりは、一本のニュース速報だった。『観測史上例のない、極めて大規模な滞留性の霧雨が、雨霧市及びその周辺地域を覆っています』。それは、天気雨のような、淡いものではない。空から、粘度の高い、灰色の液体が、絶え間なく、降り注いでいるかのようだった。それは、雨と霧の中間の、名状しがたい現象。地元の人々は、それを、ただ「ナガメ」と呼んだ。

「ナガメ」が始まって、一週間が経つ頃には、街の景色は、一変した。全てのものの輪郭が、滲み、ぼやけていた。アスファルトは常に黒く湿り、建物の壁には、緑色の苔が、急速に、その領土を広げていく。遠くに見えるはずの、港のクレーンも、背後の山々の稜線も、全てが、灰色の絵の具を、分厚く塗りたくったかのような、のっぺりとした風景に、溶け込んでいた。

そして、人々もまた、その風景に、同化していった。

最初は、誰もが、この異常な長雨に、不平を漏らしていた。だが、やがて、そんな感情すらも、この、高い湿度に、洗い流されてしまったかのように、街全体が、鉛色の、静かな無気力に、支配され始めた。人々は、口を噤み、その動きは、緩慢になり、その眼差しは、どこか、虚ろになった。まるで、思考そのものが、湿って、重くなってしまったかのように。

俺もまた、その、気怠い空気の、例外ではなかった。校正の仕事は、集中力が、命だ。だが、モニターに並ぶ文字の列が、まるで、雨に打たれたように、滲んで、揺らいで見える。キーボードを打つ指は、水を吸ったスポンジのように、重い。俺は、仕事の効率が、著しく落ちているのを、自覚していた。

そんなある日、ポストに、一冊の、薄い冊子が、投函されていた。『雨霧市災害対策本部』と記された、その冊子のタイトルは、『ナガメ観測日誌』となっていた。中を開くと、そこには、専門的な気象データと共に、市民への、いくつかの、注意事項が、箇条書きで、記されていた。

一、ナガメ発生中は、不要不急の外出を避けてください。

二、ナガメは、精神に、影響を及ぼす可能性があります。気分の落ち込み、無気力感、幻覚等の症状が見られる場合は、安静にしてください。

三、ナガメに、長時間、直接、肌を晒さないでください。皮膚の、境界が、曖昧になる、症例が、報告されています。

四、そして、最後の一文は、特に、不気味だった。

『自己の、輪郭を、強く、意識してください。あなたは、あなたであり、他者では、ありません』

馬鹿げている、と思った。まるで、SF小説の、設定資料のようだ。だが、その、馬鹿げた警告が、俺の、心の、どこかに、小さな、棘のように、引っかかった。

異変は、その直後から、始まった。

それは、近所の、コンビニへ、食料を、買い出しに行った時のことだった。水溜まりを、避けながら、俯き加減に、歩いていると、ふと、その一つに、自分の顔が、映っているのが、目に入った。濁った、水面に揺れる、俺の顔。四十男の、疲れと、諦めが、刻まれた、見慣れたはずの、俺の顔。

だが、それは、どこか、俺の、知っている自分とは、違って見えた。

一瞬、揺らめいた、水面のせいだと、思った。しかし、違う。雨足が弱まり、水面が、鏡のように、静止した瞬間、俺は、はっきりと、見た。そこに映る顔は、俺の顔でありながら、俺ではなかった。目つきが、俺のものより、ほんの、僅かに、鋭い。そして、口元が、皮肉な、笑みを、浮かべているように、見える。まるで、俺の、知らない、別の誰かが、俺の、顔という、仮面を被って、俺の、知らない表情で、そこに、いるかのようだった。

ぞくり、と、背筋に、悪寒が走った。

あの『観測日誌』の一文が、脳裏をよぎる。『自己の、輪郭を、強く、意識してください』。

俺は、激しく、首を振って、その幻影を、追い払おうとした。そして、水溜まりから、目を逸らし、足早に、その場を、立ち去った。だが、一度、意識してしまった「それ」は、俺の、網膜に、焼き付いて、離れなかった。

その日から、水溜まりを、覗き込むことが、俺の、密かな、そして、強迫的な、習慣になった。コンビニの、帰り道、マンションの、廊下の、水たまり、ベランダに、置いた、バケツに、溜まった雨水。俺は、あらゆる「水鏡」を、恐る恐る、しかし、確かめずには、いられないという、衝動に駆られて、覗き込むようになった。

そして、「彼」は、いつも、そこにいた。

水面に映る俺の顔は、覗き込むたびに、その、異質さを、増していった。ある日は、俺の、頬にはないはずの、古い、傷跡が、刻まれていた。またある日は、髪の色が、僅かに、明るく、見えた。その変化は、あまりに、些細で、他人が見ても、いや、自分自身でさえ、強い意志を持って、観察しなければ、気づかないような、僅かな違いだった。だが、その、些細さこそが、俺を、恐怖させた。それは、俺という、個体が、少しずつ、別の「誰か」に、置き換えられつつある、動かぬ証拠のように、思えたからだ。

この現象は、俺だけに、起きていることでは、なかった。リモートでの、打ち合わせの際、画面越しに見る、編集者の、顔も、どこか、おかしいことに、俺は、気づき始めていた。皆、口数は少なく、その表情は、能面のように、変化に乏しい。だが、ふとした瞬間に、彼らが、手元に置いた、コーヒーカップの、黒い水面に映る顔や、スマートフォンの、暗い画面に、反射する顔が、僅かに、しかし、明確に、歪むのを、俺は見た。本人が見せる、無表情な顔とは、裏腹に、その反射像は、嘲るように、笑っていたり、あるいは、深い、悲しみに、沈んでいたりするのだ。それは、彼ら自身が、気づいていない、もう一つの、貌だった。

この街は、「ナガメ」に、侵されている。それは、単なる、気象現象などでは、ない。もっと、根源的な、あらゆるものの、境界を、侵食し、融解させる力を持った、未知の「何か」なのだ。個という、存在を、規定する、輪郭を、じわじわと、洗い流し、全てを、均質で、無個性な、一つの、巨大な液体へと、還元しようとしている。

俺は、自分の、仕事に、救いを、求めた。校正という、行為。文章の、境界を、確定させ、意味を、固定する、その作業に、没頭することで、自分自身の、輪郭もまた、保たれるのではないか、と、考えたのだ。俺は、狂ったように、仕事に、打ち込んだ。

だが、その、最後の、砦も、脆くも、崩れ去った。

校正していた、原稿の、文字が、目の前で、動き出したのだ。

『彼ハ、笑ッタ』という、一文が、『私ハ、泣イタ』に、変わる。固有名詞が、勝手に、別の、名前に、置き換わる。文字と、文字の、境界が、溶け出し、文章全体が、意味不明な、記号の、羅列へと、変貌していく。

俺は、悲鳴を上げた。俺の、唯一の、拠り所が、足元から、崩れていく。

パニックに陥った俺は、再び、あの『観測日誌』を、手に取った。そこには、追記として、新たな、一枚の、紙が、挟まれていた。

『追伸:当現象下において、一部市民の間に、意識の、共有化、あるいは、混濁が、確認されています。これは、ナガメに含まれる、未知の、微生物の、影響と考えられます。この微生物は、水を介して、脳内に侵入し、シナプス結合を、再構築することで、個々の、意識の、境界を、融解させます。最終的に、全市民の意識は、一つの、巨大な「集合意識」へと、統合される、可能性があります』

『対策:現時点では、有効な、対策は、ありません。ただし、強い、自己同一性を、維持し続けることで、ある程度の、抵抗が、可能であることが、判明しています。自身の、物語(人生、記憶、アイデンティティ)を、強く、意識し、それを、他者に、侵食されないように、努めてください』

俺は、愕然とした。これは、もはや、災害では、ない。侵略だ。静かで、音のない、しかし、絶対的な、侵略なのだ。俺たちは、皆、一つの、巨大な、スライムのような、存在に、なろうとしている。

俺は、抗うことを、決意した。

俺は、俺だ。神崎朔太郎だ。四十年間、培ってきた、この記憶、この人格、この人生を、得体の知れない「何か」に、明け渡してたまるか。

俺は、自分の、物語を、書き始めた。生まれてから、今日までの、人生を、詳細に、書き記すことで、自己の、輪郭を、再確認しようと、試みたのだ。

だが、その作業は、困難を、極めた。

自分の、過去を、思い出そうとすると、必ず、「誰か」の、記憶が、混線してくるのだ。

俺は、行ったこともない、雪国の、風景を、鮮明に、思い出すことができた。俺は、愛したこともない、女の、名前を、口ずさみ、涙を、流した。俺の、中で、俺ではない「誰か」が、勝手に、生きている。

そして、水溜まりに、映る「彼」は、もはや、俺の、面影を、留めてはいなかった。それは、完全に、見知らぬ、男の顔だった。そして、その数は、一人では、なかった。覗き込むたびに、違う顔が、現れる。老人、若者、女、子供。それは、この街の、住人たちの、顔だった。彼らは、皆、水の中から、俺を、見つめ、そして、手招きをしていた。

『おいでよ』

『こっちへ』

『一つになろう』

『楽になれるよ』

その、誘惑は、ひどく、甘美だった。

そうだ。もう、抗うのは、やめようか。

この、孤独な、俺という、檻の中から、解放され、全てと、一つになる。それは、ある意味、究極の、救済では、ないか。自己であることの、苦しみ、責任、その、全てから、解放されるのだ。

俺の、抵抗は、日に日に、弱まっていった。

自分の、物語を、書く、ペンも、止まりがちになった。

俺は、一日の、大半を、ただ、ぼんやりと、窓の外を、流れる、灰色の「ナガメ」を、眺めて、過ごすようになった。

そんな、ある日。

インターホンが、鳴った。ドアを開けると、そこに、立っていたのは、一人の、若い、女だった。彼女は、びしょ濡れで、青白い顔をしていた。

「……あの……『観日会かんじつかい』の、者です……」

彼女は、そう、名乗った。

「観日会……?」

「……この、ナガメの中で、まだ、自我を、保っている、人間の、集まりです……私たちは、抗っているんです。最後まで……」

彼女の話によると、この街には、まだ、少数ながら、俺のように、集合意識への、統合に、抵抗している者たちが、いるのだという。彼らは、互いに、身を寄せ合い、励まし合いながら、この、終わりの見えない、戦いを、続けているのだと。

「あなたも、仲間になりませんか? 一人では、いずれ、飲まれてしまう。でも、私たちが、互いの『境界』の、証人になれば……」

その、誘いは、俺にとって、最後の、希望の、光のように、思えた。

だが、俺は、彼女の、瞳の、奥に、あるものを、見てしまった。

彼女の、瞳は、虚ろだった。だが、その、奥の、奥で、何かが、蠢いている。それは、俺が、水溜まりの中で、見た、あの、無数の「顔」と同じ、光だった。

彼女は、もう、飲まれているのだ。

彼女は、俺を、仲間に、引き入れに来たのではない。

抵抗する、最後の、異物を、排除するために、来たのだ。

彼女は、集合意識の、端末なのだ。

俺は、ドアを、閉めようとした。

だが、彼女の、力は、意外なほど、強かった。

「……無駄な、抵抗は、やめて……」

彼女の、声は、もはや、若い女の、声ではなかった。それは、男も、女も、老人も、子供も、数え切れないほどの、声が、重なり合った、不気味な、合唱だった。

「……もうすぐ、全てが、一つになる……あなただけが、不純物……」

俺は、突き飛ばされ、部屋の中へと、押し入られた。

そして、理解した。

俺には、もう、逃げ場はないのだ。

この、霧の街が、一つの、巨大な、密室なのだ。

俺は、最後の、抵抗を、試みた。

俺は、校正者だ。

俺の、武器は、言葉だ。

俺は、自分が、書きかけていた、自分史の、原稿を、手に取った。

そして、赤ペンを、握りしめる。

俺は、俺自身の、物語を、校正し始めた。

自分の、記憶を、自分の、言葉で、確定させていく。

『神崎朔太郎は、ここで、生まれた』

『彼は、こんな、子供だった』

『彼は、それを、愛し、それを、憎んだ』

だが、俺の、ペンは、やがて、止まった。

俺の、手が、震え、ペンが、勝手に、動き出す。

俺の、意志とは、関係なく。

赤ペンは、俺が書いた、文章を、次々と、塗り潰していく。

そして、その上に、新たな、文章を、書き加える。

『私タチハ、ヒトツ』

『私タチハ、ココニイル』

『私タチハ、エイエン』

俺の、物語が、集合意識の、物語に、上書きされていく。

俺という、境界が、消えていく。

最後に、俺は、鏡の前に、立った。

そこに、映っていたのは、もう、俺ではなかった。

それは、穏やかで、何の、個性もない、無表情な、男の顔だった。

それは、俺であり、俺ではない、誰かであり、そして、全てだった。

その、口元が、ふっと、笑みを、浮かべた。

それは、何かを、説明するような、陳腐なものではない。全ての、境界から、解き放たれ、個という、牢獄から、抜け出した、純粋で、無垢で、そして、恐ろしく、自由な、【幼い喜び】そのものだった。

ああ、なんて、楽なんだろう。

もう、一人で、悩む、必要も、苦しむ、必要も、ない。

窓の外では、まだ、「ナガメ」が、降り続いている。

灰色の、霧雨が、この街を、この世界を、優しく、包み込んでいる。

俺は、ドアを開け、外に出た。

そして、あの、女が、そうしたように、次の「不純物」を、探しに行く。

全てが、美しく、調和した、この、新しい世界を、完成させるために。

俺の、校正作業は、まだ、終わらない。

最後の、一人が、融解する、その時まで。


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