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憧れるのをやめました 〜私の婚約者に恋をしていたはずの男爵令嬢の様子がおかしい〜

作者: 相沢ごはん

pixiv、個人サイト(ブログ)にも同様の文章を投稿しております。


(ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

「ご一緒してもよろしいでしょうか、セルシウス男爵令嬢」

 昼休みの学園の食堂、つまらなそうな顔で食事をしている彼女を見つけて、マチルダはふとそう声をかけた。

「私、カンプラード伯爵家のマチルダと申します」

「ええ、もちろんです。カンプラード伯爵令嬢」

 セルシウス男爵家に引き取られた、元平民だという彼女、ターニャ・セルシウスは、一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに取り繕うように微笑んでそう言った。食事のトレイをテーブルに置き、マチルダはターニャの向かいの席に座る。

「マチルダとお呼びください。私も、ターニャさんと呼ばせていただいてもいいかしら」

「ええ、よろこんで。マチルダ様」

「マチルダさん、でいいわ」

「マチルダさん。お声をかけていただけて、うれしいです」

 ターニャはそう言うと、にっこりとした笑みを見せた。貴族令嬢らしからぬその笑顔は、本当にうれしそうに見えて、マチルダもなんだかうれしくなる。

 ターニャは、平民となり商会を営んでいたセルシウス男爵家当主の二番目の弟の娘だと聞いている。数年前、買いつけに出ていた両親が旅先の事故で亡くなったため、男爵家に養子として、商会ごと引き取られたらしい。その商会をターニャは継ぐ予定らしく、彼女は学園の商業科に所属している。

「あの、私、あなたに聞きたいことがあって」

 食事を終え、食後のお茶を飲みながら、マチルダは少し砕けた口調で切り出した。

「なんでしょう」

 ターニャは、言葉遣いや表情は貴族令嬢としてはまだまだかもしれないが、所作は美しいので、男爵家に引き取られてから努力を続けているのだな、とマチルダは好ましく思っていた。

「ボッセ・ライゼン伯爵令息のことで」

「マチルダさんの婚約者の」

「ええ」

 マチルダは、頷く。

「誤解だったら申し訳ないのだけど、ターニャさんは、ボッセのことを慕っているように私には見えていました」

「ああ……」

 ターニャは、マチルダの言葉に、納得したような気の抜けたような声を漏らした。それを肯定と受け取り、マチルダは続ける。

「なのに、最近ではボッセに対して全く興味をなくしたように過ごしていらっしゃるのは、なぜなのかしら。他意はないの。でも、なんだか気になってしまって……」

「まず最初に、謝らせてください。わたしのライゼン伯爵令息への態度が、マチルダさんをご不快にさせていたなら申し訳ありません」

 ターニャは真剣な表情で頭を下げる。

「不快になんて思いません。ターニャさんはボッセのことを、ただ見ているだけでしたもの」

 ターニャに気を遣ったわけではなく、これはマチルダの本音である。婚約者を見ていただけでいちいち不快になっていても仕方がない。

「そう言っていただけてありがたいです。あの、わたしの態度は、そんなにわかりやすかったでしょうか」

 困ったように言うターニャに、

「ターニャさんがにこにこしながらボッセのことを見ているから、もしかしてそうなのかしらと思ったの。でも、それは私がボッセの婚約者だったから気になっただけかもしれません。あなたが他の人のことをそんなふうに見ていたのなら、たぶん気づかなかったと思います」

「見る人が見ればわかるということですよね。もっと表情に気をつけないといけませんね……」

 でも難しいんですよ、と笑って、ターニャは続ける。

「それで、わたしが、ライゼン伯爵令息への興味を失った理由ですよね」

 ターニャは複雑そうな表情で、「どうお答えしたらいいのか……言葉にするのが少し難しいのですが」と切り出す。

「言葉遣いなどは気にせず、話しやすいように話してくださって大丈夫です」

 マチルダが言うと、

「確かに、わたしはライゼン伯爵令息に憧れておりました。そしてこのたび、憧れるのをやめました」

 ターニャは神妙な面持ちで、宣言するようにそう言った。おもしろい言い方をするのね、とマチルダは思う。そして、ふと、自分がもうボッセのことを好きではない、と気づいてしまった。このとき、初めて。

「最初からお話ししますと、きっかけは、わたしが中庭で蛇を踏んづけて驚いて後ろに転びそうになったときでした」

 ターニャは続ける。

「蛇を」

 マチルダは衝撃を受けた。そんな導入の話は初めて聞いたのだ。マチルダはまだ蛇を踏んだことがない。しかし、その感触を想像してしまい、背筋がぞわっとした。いつか自分も、学園の中庭で蛇を踏む日がくるのかもしれない。

「ライゼン伯爵令息が、背中を支えて助けてくれたのです。大丈夫ですか、気をつけてくださいね、ライゼン伯爵令息は爽やかに微笑んでそう言いました。笑顔がとても素敵でした」

 その笑顔は容易に想像できた。マチルダが好きだったボッセがそこにはいた。ターニャの口から語られるボッセは、かつてマチルダが好きだったボッセの姿だ。

「恐縮してお礼を言うわたしに、彼は、気にしなくていい、と、なんでもないように言って、去って行きました。そのお姿がとても格好よくて、わたし、ぽーっとなってしまったのです」

 ターニャは、苦々しそうにそう言った。とても好きな人の話をしているとは思えない表情に、マチルダは興味深く先を促す。

「騎士科特有の鍛錬着を着用されていたことから、彼が、騎士科の生徒だということを知り、さらに友人に尋ね、ライゼン伯爵家のご次男だということを突き止め、そして婚約者がいらっしゃることも同時に知りました。速攻で失恋したものの、男爵家のわたしが彼とどうこうなるなどまずありえないという思いもあり、まあ、見ているだけならいいか、と彼に憧れながら日々を過ごしていたのです」

 ボッセに憧れるのをやめたと言ったターニャは、憧れていた日々のことを淡々と語る。

「わたし、初めて知ったのですが、好きな人がいると毎日が楽しいんです。世界がキラキラと輝いて見えて、小さな出来事も奇跡みたいに大切に思えて……それなのに」

 意味深に言葉を途切れさせ、

「マチルダさんは恋をしたことがありますか?」

 ターニャはマチルダに尋ねた。

「いいえ。ないと思います。これからもないかもしれない」

 マチルダは嘘をついた。本当は、ボッセに恋をしていた。ターニャの言うようなキラキラした恋ではなかったが、幼いころから、静かに穏やかに育っていった恋だった。しかし、ボッセはそうではなかったようだ。恋をしていたのは自分だけだった。マチルダは、そのことを少し悔しいと思う。だから、恋をしていないふりをした。

「そうなのですね。ではライゼン伯爵令息とは、お家の事情で婚約を?」

「ええ、幼いころに決まったのです。私は一人娘だから、ボッセがうちに婿入りする予定でした」

 過去形で話してしまったことに気づき、マチルダは自分で自分に驚いた。

「なるほど」

 ターニャは、それに気づかず頷いている。

「マチルダさんとライゼン伯爵令息はとても仲睦まじそうに見えました。おふたりが並んでいる姿を見ると、少し胸は痛みましたが、婚約者を大事になさっているところも素敵! と、わたしはまたライゼン伯爵令息に惚れ直したものです。それに、マチルダさんという婚約者がいらっしゃるからこそ、わたしはライゼン伯爵令息に安心して憧れていられたのです。わたしとは無関係な素敵な人として」

 夢見がちなようでいて、ボッセと自分を無関係と言い切るターニャは、実はマチルダよりも現実を見ているのかもしれない。

「それなのに、最近のライゼン伯爵令息は、マチルダさんという婚約者がいらっしゃるにもかかわらず、コーネル男爵令嬢と親密にしているように見えて」

 ターニャの声に、微量の怒りが含まれた。

「確かに、そうなのよね」

 ビビ・コーネルは、コーネル男爵家の一人娘である。素朴でかわいらしい感じの令嬢だ。ただ、礼儀作法が覚束ない印象をマチルダは持っていた。こうして見ると、生まれながらの男爵令嬢であるビビよりも、元平民であるターニャのほうが所作が美しい。

「わたし、それが不誠実に思えてしまって、ライゼン伯爵令息に幻滅してしまったのです。なーんだ、理想の騎士様だと思っていたのに、違ったんだあ、って。勝手に裏切られた気分になってしまって」

 ボッセが、学園でビビ・コーネルと親しげに過ごしているのを、マチルダもよく見かけた。ターニャも知っているということは、ボッセとビビは、その関係をそれほど隠そうとはしていないのだろう。

 タウンハウスの庭でふたりでお茶をしているときに、どういうつもりなのかと、一度、ボッセに問いただしたことがある。ボッセは、「どうせ、将来はきみと結婚するんだ。それまでは少しくらい遊んだっていいだろう」と言ったのだ。

「コーネル男爵令嬢とのことは遊びだと言うの?」

「そうだよ。だから安心するといい」

 ボッセは、悪びれもせずそう言った。その笑顔は、醜く歪んで見えた。なにをどう安心しろと言うのか。マチルダの胸の内は、得体のしれないもやもやでいっぱいになった。こんなボッセを、マチルダは知らない。マチルダに対してもそうだが、ビビに対しても不誠実ではないか。あちらは、ボッセのことを本気で好いているかもしれないのに。かつての、やさしくて笑顔が素敵だったボッセは、いなくなってしまった。なにより、自分との結婚を「どうせ」という投げやりな言葉で表現されたのが、悲しかった。

「つまり、わたしは、勝手にライゼン伯爵令息に憧れて、勝手に幻滅しただけなのです」

 ターニャが言い、ああ、とマチルダは視界が開けたような気がした。私も、と思ったのだ。私もあのとき、あのお茶の席で、ボッセに幻滅したのだわ。勝手に恋をして、勝手に幻滅したのだわ。そして、いつのまにか、好きでいるのをやめてしまった。マチルダは、ターニャと自分を重ねて、心の中で頷く。

「ライゼン伯爵令息はマチルダさんの婚約者なので悪く言うのは気が引けるのですが、悪く言いたい気持ちが抑えられないので、言ってもいいですか?」

 マチルダは一瞬、虚を突かれたような気分になったが、「ええ、聞かせてください」と促した。そんな正直な申し出を受けたのは初めてだわ、と、マチルダは楽しい気持ちになる。そして、自分がそんな気持ちになってしまったことを不思議に思った。決して楽しい話をしているわけではないのに。

「中庭を移動していたときに、目の端をなにか黒いものがよぎったんです。見ると、しげみから蛇がにょろにょろ這い出てきたんですね」

「また蛇が」

 学園の中庭は一体どうなっているのか。ちゃんと業者を呼んで蛇の駆除をしたほうがいいのではないか。マチルダはちらりとそう思ったが、いまはターニャの話の続きのほうが興味深かったので、そんな思いはすぐに忘れてしまう。

「その蛇が出てきたしげみを見ると、人の脚が見えたんです。誰かが倒れているなら大変だと思って、慌ててよく見たら、ライゼン伯爵令息とコーネル男爵令嬢が重なるようにして横になっていたのです。一瞬、どういう状況なのかわからず戸惑ったのですが、すぐに状況を把握しました。まさか、学園の中庭であんなことを……信じられませんでした。学園ですよ? しかも、外ですよ?」

 マチルダも、一瞬どういう状況なのかわからなかったが、次第に理解が追いついた。ふたりは、もうそこまでの関係だったのか。そのことに対して、マチルダは驚き呆れた。だが、悔しいとも悲しいとも、腹が立つとも思わなかった。ただ、気持ちが悪い、と、マチルダはボッセに対して嫌悪を抱いた。

「あまりに驚いてしまって、動けずにいたら、こちらに気づいたライゼン伯爵令息が、真っ赤な顔で怒り出して、見世物じゃないぞ! って。だったら、見られるようなところで下半身を出すなって話ですよ。出てりゃ見ちゃいますよ」

 ターニャがごく自然に下品なことを口にしたので、マチルダは驚いたが、不思議と不快には思わなかった。マチルダがターニャに好感を持っているからかもしれないし、ターニャの言葉に、それはそう、と共感していたからかもしれない。

「なんだか腹が立ったんで、這っている蛇を掴んでふたりに投げつけ、走って逃げました」

「蛇を。あなたすごいわね」

 ターニャの言動に、マチルダは驚かされてばかりだ。

「下半身丸出し男への生理的嫌悪にくらべたら、蛇くらいどうってことないですよ」

 そう言って、ターニャは苦々しい表情をする。

「それで、そのあとすぐに騎士科の先生に告げ口してやりました」

 そういえば、少し前にボッセが三日ほど謹慎していた時期があった。ビビ・コーネルはどうだったのか知らないが、彼女も謹慎していたのかもしれない。その謹慎の理由は、誰に聞いても知らないと言われ、ボッセの両親は気まずそうに口ごもるばかりだった。ボッセ本人に尋ねても、「蛇に噛まれて療養していた」と本当か嘘かわからないことを言われたのだが、そういうことだったのか、とマチルダは知った。思わず笑いそうになってしまい、ぐっと我慢する。

「まさか、ライゼン伯爵令息が、あんな最低な人だったなんて。外で行為に及ぶのもそうですが、婚約者でもない娘さん……コーネル男爵令嬢に対しても無責任じゃないですか」

「それは、本当にそう思います」

 マチルダは同意する。

「他に好きな人ができても、婚約者がいるなら隠せって話ですよ。あ、これはすぐ顔に出てしまうわたしが言えたことではないんですけど。隠すことができなくても、でも、せめて気持ちを押し殺して我慢しろよって話ですよ。それが理性ですよ。発情期の獣じゃないんだから」

 ターニャの声にはどんどん熱がこもっていく。

「千歩譲って、婚約解消後にそういうことをするならまだしも、婚約中に! いいいい、気持ち悪い! 汚らわしい! 不誠実極まりないです!」

 いいいい、と言いながら、ターニャは自身を抱きしめるように両腕を交差させて二の腕をさすった。鳥肌が立ったのかもしれない。

「ターニャさん……よくそんなに自分のことのように腹を立てることができますね」

 ターニャの勢いに、マチルダは思わずそんなことを言ってしまう。

「ごめんなさい。マチルダさんの婚約者なのに。無関係なわたしが腹を立てるのはおかしいってわかっているんです。でも、憧れていたせいなのか反動がすごくて。この口が止まらない。目指すべき淑女にあるまじき行為だとわかっているのに、悪口がどんどんあふれ出てきて止まらないのです」

 ターニャは苦しそうにそう言った。悪口を言いたくて苦しんでいるターニャの姿がかわいくておもしろくて、マチルダはまた笑いそうになる。

「ライゼン伯爵令息は、よくないです。婚約者であるマチルダさんに対しても、婚約者でもないコーネル男爵令嬢に対しても不誠実で、すごく、なんて言うんだろう。なんていうか、なんか、嫌です」

 ターニャの砕けた言葉は、マチルダの心に刺さった。

「なんか、嫌」

 マチルダも呟いてみる。その単純な言葉は、マチルダが感じていた言葉にならないもやもやを、いちばん的確に表しているような気がした。ターニャが、マチルダの言葉にできなかった気持ちを言語化してくれたのだ。

「あのね、ターニャさん。先ほど家の事情で婚約が決まったと言いましたが、その事情というのは全然重要なことではなくて、父親同士が仲がいいからというだけの話なの。実のところ、政略でもなんでもない婚約なのです」

 ターニャと話をしたことにより、ずっと迷っていたマチルダの気持ちは固まった。

「だから、私、父に相談してみます。ターニャさんの言うとおり、こんな状態で婚約を続けるのは、なんだか嫌だもの」

 きっと父も、娘の気持ちと将来を蔑ろにしてまで友人に義理立てはしないだろう、とマチルダは楽観的に考えた。

「マチルダさんのお家のことなので、わたしにはなんとも言えませんが、お父様に相談されるというのは、いいと思います」

 ふたりは、お互いを見て、にっこりとした。

「私、きっと誰かに愚痴を聞いてもらいたかったのだと思います」

 そして、きっとその愚痴に共感してほしかった。マチルダはそう気づいた。ターニャの話を聞いて、共感しているうちに、自分の心が慰められたような気がしたのだ。

「わたしでよければ、いくらでも聞きますよ」

 ターニャが言う。

「でも、私が言いたかったことは全部、ターニャさんが言ってくれました」

「それはよかった……のでしょうか」

「私は、そうね、ターニャさんの言葉に共感して……すっきりしました」

「それなら安心しました」

 ふたりはくすくすと笑いあい、「また、おしゃべりしましょう」と約束した。新しい友人ができたことをよろこび、マチルダは楽しい気持ちで午後からの授業を過ごした。



 午後の授業が終わり、教室で本を読みながら帰りの馬車を待っていると、

「マチルダさん」

 不躾に名前を呼ばれた。顔を上げ見ると、ビビ・コーネルだ。

「突然、こんなことをお願いするなんて失礼だとわかってるんですけど」

 ビビは名乗りもせずにそんなことを言う。ビビの真剣な表情から、彼女が必死なことは伝わるが、やはり礼儀作法が覚束ないのは気になる。

「マチルダさんとボッセの婚約は、ふたりの意思じゃなくて、お父様たちが仲がいいから決まったのだとボッセに聞きました。だから、あの、どうか、ボッセとの婚約を解消してもらえませんか」

「ええ、いいですよ」

 あっさりしとしたマチルダの返答に、

「え」

 ビビは驚いたようで、少しの間じっと固まっていたが、

「ええと、いいんですか? 本当に?」

 不審とよろこびがない交ぜになったような表情で確認の問いを口にした。

「ええ、もともとそのように考えていましたので。今日にでも父に相談するつもりだったの」

 ビビはうれしそうに、「ありがとうございます」と言った。別にあなたのためじゃないわ、とマチルダは思ったが、口には出さなかった。その代わり、「だけど、あなたはいいの?」と、ビビに問う。

「どういう意味ですか?」

「あなたも知ってのとおり、ボッセは不誠実な人です。あなたはそれでもいいの?」

 ビビは言葉に詰まった様子だった。自分でも薄々感じていたのかもしれない。

「私に直接そんなお願いをしてくるということは、ボッセに言っても、きっと有耶無耶な返答をされたのでしょう?」

 ビビは泣きそうな表情でじっとマチルダを見つめ、そして、首をこくんと肯定の意味で動かした。

「よく考えたほうがいいと思います」

「わかってます。でも、あたしには、あの人しかいないの。彼が不誠実でもかまわない。うちみたいに貧乏男爵家の娘に声をかけてくれたのはあの人だけだった。他に婿入りしてくれそうな人なんて、もう見つかりっこないわ」

「そう」

 誰にでも、それぞれ事情があるものね。マチルダはそう思い、この場はただ頷くだけに留めた。ビビの礼儀作法が覚束ないのは、ビビの放った「貧乏男爵家」という言葉に理由があるのかもしれない。マチルダはそう思った。

「あのね、まず、初めてお話する人のことは家名で呼ぶといいわ。例えば私のことでしたら、カンプラードと。敬称をつけて、カンプラード伯爵令嬢とお呼びください。相手が令息であっても同じです。名前を呼ぶのは、相手の許しを得てからです」

「え、あ、はい。失礼しました。カンプラード伯爵令嬢」

「それから、話し始める前に名乗ったほうがいいと思います」

「そう……そうですね。重ね重ね失礼しました。コーネル男爵家のビビと申します」

 ビビは、唐突に礼儀作法を説き始めたマチルダの言葉を素直に聞き入れ、すぐに吸収しているようだった。しっかりと指導を受けたら、きっと立派な淑女になれるだろう、とマチルダは思う。

 それから、とマチルダは続ける。

「いつか、悪口を言いたくなったら聞くわよ」

 その言葉を聞き、ビビはきょとんとした表情のあと、涙をつるんと頬にこぼして、微かに笑った。



 数日後、カンプラード伯爵家とライゼン伯爵家との間で結ばれた婚約は解消された。ボッセは、ビビ・コーネルと新たに婚約を結ぶことになるという。先方とも後日、詳細を話し合うそうだ。婿入り先が、同格の伯爵家から格下の男爵家になることに、もしかしたらボッセがごねるかもしれないとマチルダは心配していたが、そんな様子は全くなく、彼はおとなしくすべてを受け入れた。

「……よかったわ。コーネル男爵令嬢とのことが遊びで終わらなくて」

 カンプラード伯爵家のタウンハウスでの話し合いを終え、見送りの際に、マチルダはボッセだけに聞こえるようにそう言った。皮肉に聞こえたかもしれないと思ったが、別にそれでもよかった。実際には皮肉でもなんでもなく、ほっとして、思わず出てしまった本心からの言葉だった。ボッセはビビ・コーネルに対して、きちんと責任をとるべきだ。だから、婚約を結ぶことになったのは、よかったと思う。

「ビビは、僕のことを好きだと言ってくれたから」

 俯いたボッセは、ぼそっとそう言った。

「そう。でも、声をかけたのはあなたのほうからなのでしょう?」

 マチルダの言葉に、ボッセはハッとした様子で顔を上げ、再び俯くと気まずげに黙ってしまった。

「先に愛を囁いたのはあなたで、コーネル男爵令嬢は、それに応えてあなたを受け入れた。違うの?」

 声をかけてくれたのはあの人だけだった。あのときのビビの言葉を、マチルダはそういうふうに受け取った。ボッセは黙っている。この場合の沈黙は肯定していることと同じだ。ボッセがなにを思い、どういうきっかけでビビに声をかけたのか。そんなことを詳しく知りたいとは思わない。きっと、蛇を踏む以上に衝撃的な出会いではないだろう。

「でも、そうね。コーネル男爵令嬢はあなたのことが好き。あなたもコーネル男爵令嬢のことが好き。最初はどうだったかなんて知らないけれど、結果的にはそうなった。だから、それでいいのかもしれない」

「ごめん」

 ボッセは俯いたまま、初めて謝罪の言葉を口にした。

 もし、自分の恋心をボッセに伝えていたら、なにかが変わっていたのだろうか。マチルダは一瞬そう考えたが、それでも、と思い直す。ボッセが不誠実な行いをした事実は変わらないのだ。そんなボッセにマチルダは幻滅し、恋心はもう残っていない。

 もし自分が気持ちを伝えていたなら、ボッセは今回のような不誠実な行いをしなかったかもしれない。しかしそれでも、その上で同じようなことをしたかもしれない。だって、ボッセはそういう不誠実な行いを実際にすることのできる人間だったのだもの、とマチルダは思う。ボッセのことを、もう信用することができないのだ。こちらから婚約解消を言い出さなければ、ボッセはビビを捨て、そのまま自分と結婚していたかもしれない。そんな想像をして、マチルダはゾッとした。

「さようなら」

 マチルダはつぶやいた。これからの新しい未来、ボッセがビビ・コーネルに対して誠実でありますように。心の中でそう願う。不誠実な人は嫌だとボッセを切り捨てた自分とは違い、彼が不誠実でもかまわないと言い切ったビビの覚悟に、ボッセは報いるべきだ。

 マチルダの次の婚約もきっと父が決めてくるのだろう。できれば誠実な人と結婚したいわ。マチルダは思うが、はたしてその願いは叶うのだろうか。少なくとも、自分は相手に対して誠実であるよう心がけたいとは思う。

 とりあえずいまは、ことの顛末を、新しくできた友人であるターニャ・セルシウスに聞いてもらいたくて仕方がない。

「早く明日にならないかしら」

 自室に戻ったマチルダは独り言ちた。昔からの婚約が解消になったのに、明日が楽しみだなんておかしいわ。マチルダはそう思い、私はターニャさんのようにうまく話せるかしら、と、笑みをこぼした。



ありがとうございました。

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