診察室
科学がどんなに進んだ世の中になっても、人間の弱い心を克服することは、困難なことかもしれません。
男が診察室の引き戸を開けて中に入ると医師は電子カルテの画面に視線を向けていたが、
「お座りください」
と、男に椅子をすすめた。診察室の一方は、カーテンに閉ざされた窓だったが、室内は壁面照明によって光に満たされていた。
男は、促されるまま、椅子に腰掛けると、ため息をついた。
「どうなされましたか?」
医師は、男の方に身体を向けて、訊いた。
男はうつむいていて、黙ってぼんやりとした表情をしている。医師が辛抱強く患者の言葉を待っていると、相手は医師に視線を合わせた。
「閉じこめられているんです」
「閉じこめられている?」
「圧迫感……閉塞感というか……」
「そんな気持ちがするということですか?」
「はい。もう、しばらく前から気持ちが晴れないんです」
「気分転換されたら、どうですか? 読書とか、スポーツとか、卓球などもいいと思いますよ」
「散歩をしてました。でも、気持ちが、……頭のなかに重いものが、こびりついているようで……」
医師はキーボードに男の言葉を打ち込んでいたが、男の顔を見ると、静かな口調で話した。
「お薬を出します。少し様子をみて、一週間後にまたいらしてください」
診察室を出て薬を受け取った男は、通路を歩き、エレベーターホールに進むと、下降してきたかごに乗り、階数表示灯をタップした。エレベーターを降りたところで、また通路が伸びていた。
すると、男の視界にとらえられた通路の壁面が、唐突に歪んで見えた。壁面が粘性の物質のように、ぐにゃりとしたものに見える。
歩いている通路も波打つように見える。
男は、これは錯覚だと自分に言い聞かせて通路を歩いていた。
歩いているうちに、行き止まりの通路に迷いこんでしまった。
男は、自分がどこに向かって歩いているのかも、思いだせなかった。その場に座りこんでしまった。
(……なぜなんだ……)
その閉塞感は、男の神経中枢に居座り、意識を撹乱していた。男は、ポケットから袋を取り出すと、薬の粒をシートからはじき出した。粒は勢いよく飛びだし、通路の床に転がった。壁面は、波打ち、通路ぜんたいが男に迫ってきた。―――
「駆動セクションのオペレーターの要員です。勤務には問題なく従事していました」
保安係の男性はストレッチャーに載せられた男を一瞥して、医師に話した。看護士がストレッチャーを押してエレベーターへ運んでいく。
医師は言った。
「同じ症状をうったえる例は、彼で五人目です。環境因子が充分に考えられます。ささやかな気分転換では、回避できない症例かもしれません。船長には、私から報告しておきましょう」
「わかりました」
そう言うと、保安係はその場を去った。
医師は、診察室に戻ってからも、先ほどの男のことを考えていた。
長い旅路に起こるかもしれない出来事は無数にある。それを承知での地球を旅立った移民計画だった。しかし、人間の心は計算どおりにはいかないものかもしれない。
医師は、テーブルの引き出しから、取り出した小瓶の錠剤を口に入れると、窓のカーテンを開けた。
窓いっぱいに星の光が見えていた。
移民船は、天の川銀河の辺境を航行しているところだった。
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