***病院に行った日の母***
その日は母が午前中に病院に行くと言っていたので、部活を休んで直ぐに家に帰った。
「ただいまー」
「ねえ祐くん! 土曜日空いている!??」
玄関を開けると母がまるで待ちわびていたように玄関まで走って来て言った。
少し高揚した顔に、目を潤わせて。
「うん、一応予定は入っていないけど、父さんは?」
なぜ父と一緒に行かないのか不思議に思って聞くと、父は海外の仕事のサポートをする都合で、土曜日は出勤するかも知れないと教えてもらった。
「それより病院はどうだったの?」
「なんでもなかったよ」
「そう、それは良かったね」
「うん。心配してくれて、ありがとうね」
「べ、別に、心配なんて……」
「ふぅ~ん……」
母は悪戯っぽい大きな瞳で僕の顔を覗き込むと、まるで父さんにそうするように腕を絡めるように僕の手から鞄を取りリビングの椅子の上に置き料理を始めたので、僕はリビングのテーブルに教科書とノートを広げて宿題を片付けることにした。
ボールに何かの粉を入れる音。
冷蔵庫から何かを取り出す音。
パックが開く音に続いて、卵の殻が割れる音。
ホイッパーで、ボールの中身を掻き混ぜる音。
バターが焼ける香ばしい香りの後には、甘く味付けされた小麦粉が焼ける香り。
「よっ♪」と言う掛け声の後に「やった♬」と言う可愛い歓声を上げたのは、焼けた面をクルリと裏返した証し。
母の料理は、まるで子供が調理に挑戦しているように、時として真剣で時として可愛い。
裏返してから約2分で出来上がり、盛り付けてテーブルに置かれるまで1分として合計3分。
頭脳のアフターバナーを全開にして、それまでに宿題を終わらせた。
「はぁ~い、お待たせ♪」
ちょうど鞄に教科書とノートそれに筆記用具を仕舞い終えたとき、空いたスペースをダスターで拭き終えた母が出来上がったホットケーキをテーブルに置いた。
「ホットケーキ! しかもイチゴと生クリームも‼」
ただのホットケーキだと思っていたところ、出て来たものが余りにも手の込んだものだったので僕は子供のように喜んだ。
「ありがとネッ♡」
母も得意気に喜んだ。
きっと病院から戻って来た時から下ごしらえをしていたことは明白・・・…いや、その前からかも。
その日は珍しく父も早く家に帰って来た。
晩御飯は焼肉。
家で焼肉なんて何年振りだったろう……しかも肉は父が仕事の帰りにスーパーではなくてチャンとした肉屋で買って来た極上ものの肉。
メッチャクチャ美味しくて、もう高校生なのにまるでキャンプに行った子供の時のように燥いでいた。
きっと父も母の診察の事を心配していたのだろう。
晩御飯を食べ終わり、お風呂に入って歯を磨いて自分の部屋に戻り、少しだけ勉強をしてからベッドに入った。
“今日は、楽しかった”
夜中の1時に何故か目が覚めた。
こんな時間に起きていても仕方がないので、とりあえずトイレにでも行こうと思い階段を降りると、まだリビングの明かりがついていた。
明日は平日なので普通はコンナに夜更かしはしないのに何故だろうと思いつつ、先にトイレを済ませてからリビングに向かうとパジャマを着た父と廊下ですれ違う。
「まだ起きていたのか?」
「いいや、なんか急に目が覚めて、とりあえずトイレに行っただけ。父さんは明日お休みなの?」
「いや、仕事だよ」
「そうなんだ……」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
父との短い会話。
いつも穏やかな父なのに、今夜は言葉にトゲがあったような、嫌な気がした。
リビングを覗くと、母もいた。
「祐くん、おはよー! ってか、まだ真夜中よ」
相変わらず明るい笑顔。
だけど少しだけ声が鼻にかかっている気がした。
「どうしたの? こんな遅くまで」
「うん、パパと少し思い出話しをしていたのよ。祐くんが生まれる前の事とか、後の事とか」
「それで鼻声なんだね」
「う、うん。そうね」
母は感動屋で涙もろいから、思い出話しの中には泣く要素も多いだろう。
「心配してくれていたの?」
「チョットね。 でも安心した」
「ありがとうネッ!」
歯磨きをするために洗面所に行った母を残して、僕は自室に戻りベッドに横になる。
直に洗面所のドアが閉まる音が聞こえ、廊下から階段を登る音が聞こえ、一瞬間を置いて寝室の方に消えていった。
ドアの閉まる音や母の歩く音を何故か寂しいと感じたのは、さっき母の鼻声を聞いたからだろう……。