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 赤ちゃんの誕生を心待ちにしていたガーランド家だが、奥様のつわりが思ったよりも酷くて、笑顔溢れる普段の明るさは鳴りを潜めて、今や不穏な空気さえ漂っていた。


 ねえ、旦那様。つわりってこんなに酷いものなの?


 嘔吐するその背をさすり、やつれた顔で寝ついた奥様を苦しげな顔で見守る旦那様に、わたしは「にゃん……」と弱々しく問いかけた。


 ジョセフのときにわたしはまだこの世界にいなかったから、これが普通なのかわからない。


 貴族の妻としてはなかなか活発だった奥様が、最近ではずっと寝台にいて、ほとんど食事もできていない。食べてもすぐに吐いてしまうのだ。


 それだけならまだ、つわりと言ってもいいのだろうけど、わたしが心配しているのは、奥様の体にたびたび現れる奇妙な痣だ。


 内出血のような痣が浮き出ては、旦那様が顔を顰めて患部に手を当て、治癒魔術みたいなものをかけて治している。


 旦那様くらいの魔術師ならば、お医者さんを呼ばなくても、ちょっとした傷とかなら治せてしまうらしい。


 痣が浮き出ると痛みを伴うのか、奥様が小さくうめくので、わたしは寝台の下でうろうろとしてしまう。


 まるで見えない敵から攻撃されているみたいだ。


「エリス……」


 旦那様のこんなつらそうな声、はじめて聞いた。


「大丈夫……よ、大丈夫……だから」


「だが」


「お願いよ、それ以上は、言わないで……」


 わたしには旦那様がなにを言おうとしたのか、わかってしまった。わたしにわかるくらいだから、奥様にもわかったのだろう。


 奥様を守るために、お腹の子を……。


 だけど奥様の意志は固い。だから結局旦那様が折れて、ほっとしたように眠る奥様の額の汗を拭ってやりながら嘆息を漏らす。


「私が代わってやれればと思うよ……」


「にゃん……」


 気持ちはわかるけど、無理だよ。さすがの旦那様も、出産まではできないよ。わたしだって可能なら代わってあげたい。


 奥様はわたしの、命の恩人だから。


「わかっては、いるのだけどな……でも……」


 なにを考えてるの?


 旦那様が、怖い顔をしている。非情な決断をするときの顔。


 だめだよ。


 奥様を助けるために、お腹の子を堕ろすなんて決断、絶対にしたらだめ。


 それで奥様が助かったとして、きっと元の家族の形に戻れなくなる。


 それは旦那様の望む家族の姿なの?


「シャーッ!」


 旦那様と奥様の間に滑り込んで威嚇する。


「ココ……」


「にゃーん」


 お願い。奥様のこと、信じてあげよう?


 数秒見つめ合って、やはり旦那様が折れた。


「しばらく、頭を冷やして来る」


 奥様を看病するメイドに席を外すことを告げて、旦那様は部屋を出て行った。





 つわりさえ終わればと思っていたけど、わたしの考えはあまかったらしい。


 奥様の症状は治ることなく、それどころか日に日に痣が大きく、治りが遅くなっていく。奥様は痛みと疲弊で憔悴していく。


「母上……」


 泣いているジョセフの腕の中から、青白く痩せこけた奥様の姿を見て目を伏せた。


 ついさっき、お医者様が来た。


 旦那様と話している声を、わたしの耳は拾ってしまった。


 このままだと母子もとに危険だと。


 奥様の症状は、お腹の赤ちゃんの影響らしい。


 ガーランド家は優れた魔術師を輩出する名家。ということは、強い魔力を持った子が生まれやすいということで。


 お腹の赤ちゃんは、すでに赤ちゃんではあり得ない量と質の魔力を持て余していて、それが制御しきれず、内側から奥様を攻撃しているのだとお医者様は言った。


 たぶん、旦那様は気づいていたのだと思う。


 魔力を吸収する魔石と呼ばれる石があるらしいけど、そんなものでは収まりきらないと、お医者様は最後通牒を告げた。


 奥様の横たわる寝台の周りには、家族が集まっている。


 旦那様とジョセフ、そしてわたし。


「エリス。このままではきみも、子供も助からない」


 奥様の手を握る旦那様の手は、震えているように見えた。


 わたしの頭に、ジョセフの涙がぽろぽろこぼれ落ちてくる。


 それでも奥様の意思は変わらなかった。


 自分が死んでも、子供は産む。


 憔悴しきった体なのに、目だけは強い光を宿していた。


 くっ、と旦那様が顔を歪める。


 旦那様も言いたくなんてないのだ。だけど奥様を愛しているから、彼女の願いを叶いたい気持ちと彼女の命を守りたい気持ちの狭間で懊悩している。


 なんで、わたしは無力な猫なんだろう。


 旦那様ですらどうしようもできない状況でも、わたしは己の無力さを嘆かずにはいられなかった。


 ジョセフの腕から這い降りて、思い切って寝台へと飛び乗る。


 泣くジョセフの姿に瞳を潤ませている奥様の手を、ぺろりと舐めた。


 ずっと触れ合っていなかった奥様の肌は、萎れた花のようにかさついていた。


「ココ……?」


 ペットが飼い主の病を舐めて治した事例があることをわたしは記憶していた。


 なにかせずにはいられなかった。


 一心不乱に奥様をぺろぺろと舐める。


 舐めて舐めて舐めて舐めて……舌が攣りそうになってきたとき、奥様がわたしの頭を撫でた。


「あなたは本当に、優しい子ね」


 優しいのは、奥様だよ。


 絶対、ふたりとも死なせないからね。


 わたしが舐めて治すんだから!


 ふすん、と鼻息荒く決意表明したとき、頭上で旦那様が驚愕の声をあげた。


「エリス……!?」


 えっ、なに!?


 わたしが舐めたせいで悪化した!?


 おそるおそる旦那様を見上げる。怒っている様子ではなさそうだが、わたしと奥様を交互に見て、動揺しているように見えた。


「エリス、腕を動かせるのか?」


 旦那様の声は上擦って聞こえた。


 奥様は自分の手がわたしの頭を撫でていることに今気づいたと言うように、手のひらをじっと見つめて、大きく目を見開いた。


 なんだか顔色がちょっとだけよくなった気もする。


 ま、まさか、舐め猫セラピーが成功した!?


 やっぱり舐めて治すは道理に適っていたんだ!


 すごい! もっと舐めるよ!


 今度は奥様の頰をぺろぺろしていると、旦那様の手がわたしの脇に入れられて、ちょっと体を持ち上げられる。


 どうした? と思っていると、旦那様がジョセフに奥様の体にかけられている掛布を剥ぐよう言い、寝衣姿の奥様のお腹の上にわたしは下ろされた。


 うん?


 なんとなくお腹の上に座るのも気が引けたので、ブランケットみたいにびろんと伸びてお腹とお腹を合わせる形で着地する。


 ……え、なにこれ?


 触れ合ったお腹がじんわりと温かくなってきた。


 戸惑うわたしとは対照的に、旦那様や奥様は、なにか気づいたように顔を見合わせていた。


「ココが、赤子の魔力を吸っている……?」


 えっ!? 旦那様、今なんて?


 わたしってもしかして、魔石みたいな猫だったの?


 それもう化け猫じゃん!


「エリス、気分は?」


「……少し、楽になってきたわ」


「母上、本当!?」  


「え、ええ……」


 一番混乱しているのは奥様なのか、旦那様に背中を支えられながら上体を起こして、びろんと伸びた姿のままのわたしを呆然と見つめていた。




 すぐにお医者様が呼ばれ、わたしの舐め猫セラピーを聞くととても驚かれた。軽くひっくり返ったくらい、びっくり仰天していた。


 診察の結果、本当に奥様の容体は安定傾向にあったらしい。


「つまり、この猫ちゃんが魔石のような能力を持っていた、と?」


 実際目で見ても半信半疑って、よっぽとあり得ないことらしい。わたしを見る目が化け猫を見るそれだ。失礼な。


「いや、魔石とは違う。赤子の魔力だけを、吸収していた」


 そういえば、わたしはよく抱っこされていた抱き猫だけど、魔力を奪われた! なんて騒ぎになったことはこれまで一度もなかった。


 眉間にしわを寄せて深く考えはじめた旦那様に、わたしは奥様に抱っこされながら、理屈は後回しでいいじゃないかなと、にゃんとひと声鳴いた。


「もしかすると、この猫ちゃんが、胎児の魔力との相性が非常にいい器ということなのかもしれません。とにかく今は、猫ちゃんとの触れ合いでどれだけ抑えられるものか確かめる方が先決かと」


 そうだね。お医者さんの言う通りだよ。

 

「そうだな。エリス」


 旦那様が奥様からわたしを譲り受ける。奥様に症状が出はじめたらまたわたしを抱っこするというのを何度か繰り返した。


 二日かけて検証した結果、どうやらわたしを一時間抱っこしておけば、六時間くらいは持つという計算になった。


 というわけで、睡眠一時間前に充電をしておけば、六時間はぐっすりと眠ることができる。


 これまでゆっくり眠ることもできなかった奥様や、付き添いでほとんど休めていなかった旦那様の疲労は深刻だったので、わたしは一生懸命任務を遂行した。


 抱っこされてるだけだけどね。


 たまにわたしの頭上をわたしの話題が飛び交う。


「ココは特異体質なのかもしれないな」


「父上、特異体質ってなんですか?」


「人でもごく稀に、魔力を持たない者が生まれることがある。それは知っているな?」


「絵本の『救国の聖女様』……みたいな人のこと?」


 ああ、あの子供向けの絵本。


 悪しき魔物を倒すために、異界から招かれた聖女様と共に王子様が戦うお話だ。最後はお決まりの、王子様と聖女様の結婚で終わる。


 異界って意外とわたしの前世と同じ世界かもしれないね。


 いわゆる異世界転移というやつだ。


 そう考えるとわたしは転生者ということになるけど、正確には転生猫だよね。


 難しい話を考えなくていいだけでも、猫に生まれ変われてよかったと思う。飼い猫最高。飼い猫万歳。


「数百年前、この世界に降り立った救国の聖女には魔力がなかった。代わりに、王子の魔力の一部を借り受けて悪しき魔物と戦ったとされている。それ以降、なぜか数世代にひとりの割合で魔力を持たないが器を持つ者が生まれるようになったと文献にも残されている。その者たちは決まって女性であり、聖女の生まれ変わりと呼ばれるようになった」


 へぇー……って、あの絵本実話なの!?


 ファンタジーじゃん!


 あ、ファンタジーか。魔術とかあるもんね。ファンタジーだった。


「じゃあココは聖女様の生まれ変わり!? ココすごいっ!」


 奥様の腕からジョセフがわたしを引っ張り出して高い高いをしてはしゃぐ。


 やめれー。


 誰かジョセフに、手加減というものを教えてやってほしい。


「落ち着け、ジョセフ。ココの目が回るだろう」


「ああっ! ココがだるんだるんの靴下みたいになってる!」


 誰がだるんだるんの靴下じゃい。


 お金持ちの息子なのに、だるんだるんの靴下を見たことがあるのか。どこで見た。


 奥様ー!


 奥様の腕に戻ると、ジョセがごめんなさいね、と慰めてくれた。奥様の豊かなお胸に顔を埋める。はぁー……癒し。


「ココは猫だから、聖女の生まれ変わりではない。それに、最近神殿周りが騒々しい。聖女の生まれ変わりらしき女児が誕生したともっぱらの噂だ」


 じゃあわたしはただの化け猫、じゃなくて、ただの飼い猫なのね?


 ああ、よかった。聖女の生まれ変わりなんて痛いふたつ名なんて、要らなさすぎる。


 神殿に捕まったらなにされるやら。よくて祀りあげられて、悪くて生贄だろう。


 わたしは平穏無事に、みんなにかわいがられながら猫生を満喫したいだけなのだ。


「念のため、ココのことは我が家だけの秘密だ。できるな?」


「うん! 僕お兄ちゃんだからね!」


「偉いぞ、ジョセ」


 信じてるぞ、ジョセ。


 今のところ赤ちゃんの魔力を吸ってるだけでほかの人には適用されないことがわかっているし、狙われることはないだろうけど、化け猫扱いされたくないからね。


 とりあえず、わたしの幸せとガーランド家の幸せのために、抱き猫任務がんばるよ!



だるんだるんの靴下(絵本)

だるんだるんの靴下が風に飛ばされながら世界を旅をする物語

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