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好きな作品を語る

吉村昭の平家物語

 吉村昭訳の平家物語を読みました。以前の自分なら「こういうものは、原文で読まないと」なんて思っていたんですが、今は緩くなっているので、「吉村昭訳でいいや」と思って読みました。自分の中に知的体系ができているので、それを利用すればある程度読めるだろうと踏んで読み出しました。


 文章は吉村昭なので、読みやすかったです。ただ文章は整い過ぎているかな、と思ったりもしました。


 平家物語は言うまでもなく、平家の話です。滅亡していく平家を描いています。それ故に、源氏についてはそれほど深く描けているわけではありません。


 話がずれますが、最近、哲学や文学について色々話している友人に「今、平家物語を読んでるんだよね」と言ったら、「ヤマダさんは、平家と源氏、どっちが強いと思います?」と聞かれました。私は「いや、そういう考え方だとエンターテイメントにしかならないよ。平家物語がエンターテイメントではなく、文学作品と言えるのは、それが無常観からできているからだよ」と答えました。


 平家物語は、有名な冒頭の通り、無常観で書かれています。冒頭だけ引用してみましょう。


 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、生者必滅の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」


 これが作品の哲学になっています。清盛を中心とした平家が驕り高ぶっていた為に、平家は滅んだという視点です。これは「源氏が強かったら平家に勝った」というのは違う視点です。どっちが強いか弱いかという視点は、勝者は明日の敗者であり、敗者はまた明日の勝者であるという真実を逃しています。


 最近流行りの「無双」というような状態は、中世の無常観より劣った世界観だと思います。そこでは勝者が勝った地点が絶対化され、その小さな空間にとどまろうとします。こういう視点では、まともなドラマが作れないのも無理はありません。それというのは、人間の生涯とか、一つの集団の全体的な時間を描写する視点が存在しないからです。永遠に勝ち続ける物語は、時間的には不動でしかない。時間というものを俯瞰する視点がそこでは欠けています。


 平家は驕り高ぶった為に、滅んでいきます。だから源氏が平家に勝つのは、源氏が平家よりも強かった為ではなく、平家というものが持っていた固有の運命のためです。平家物語ではそのように描写されています。このように古代・中世の人々は、人間を上回る運命というものを信じていました。


 近現代には、人間の運命は「意志」という概念に取り替えられました。それによって、源氏が平家よりも「強かった」から、源氏が勝ったと考える事が可能になりました。ただ、この考え方であると、源氏は平家よりも「強かった」という平板な概念に陥り、勝った源氏もいずれは滅ばなければならないという運命を取り逃す事になります。


 人間の意志とか、可能性を中心に全体を考えると、その可能性が収束して、滅んでいく様がうまく捉えられない。人間の意志を中心にすると、ハッピーエンドのエンターテイメントにしかならない。バッドエンドも考えられますが、そこに人間の運命の表象は現れない。単なる個人的失敗にしかならない。


 現代は、近代の延長と考えられますが、古代人や中世人が感じていた大きな運命が現代においては完全に消滅した為に、全ては自己責任、自己の意志次第となり、人間を見舞う大きな運命というものが消えてしまった。その為に、個人は世界との大きな連関を失い、個人としての意志の発露、その成功や挫折だけが全てになってしまった。平家物語が現代から見て、わかりにくいのは、根本的な哲学がそもそも違うからでしょう。


 平家物語では、中世の物語らしく、盛んに占いや、奇怪な話が出てきます。ただ、それら全ては「平家の滅亡」という単線に向かって注がれています。


 一つ例をあげます。平家の武士の一人が、平家がいずれ滅ぶだろうという、お告げ的な夢を見ます。それが噂になって、清盛はその武士を呼ぼうとします。しかし、武士は自分の身に火の粉が降りかかるのを恐れて、逃げてしまいます。清盛はかわりに、武士の上司を呼んで事情を尋ねるのですが、「そんな夢などはなかった」と答えます。こうして、清盛に都合の悪い夢は黙殺されます。


 このあたりの描写はリアルとも言えますし、中世らしい、夢幻的な雰囲気だとも言えます。私がリアルだと感じたのは、専制的な権力を振るっている人間に対しては、その人間に都合の悪い情報が入らないように周囲が画策するという事です。これなどは現在でも見られる現象です。しかし、権力者にとって都合の悪い事実が「夢」だというのは、中世的な描き方だと思います。


 ただ、これなども、現代で行われていると考える事もできます。ワールドカップの前には、日本がどこまで行けるか、動物を使った占いをして、大々的に報道されたりします。当たった占いはメディアはこぞって取り上げますが、外れた占いに関しては取り上げられないし、みんな忘れます。中世においても同じような事が起こっていて、占いの内、当たったものだけが、平家の失墜を予告していたという風になったのでしょう。


 もっとも、「占い」のようなものはただの迷信で片付けるわけにもいかないと思います。平家の驕り高ぶりにうんざりしていた京都の民衆や貴族の無意識が、占いのような形で外在的に現れたとも考えられるからです。今の世の中を見てもそうですが、人気タレントとして出てくる人はみな、大衆の欲求を具現化した存在として現れます。


 しかし、人々は客観的に「才能のある人」という形でタレントを見ようとします。これは、人々は自分達の欲望を密かに具現化しているにも関わらず、それに対しては主体的(自分達がそうした)ではなく、客観的なものだとみなしたいという願望を示していると思います。私は占いにもそうした、人々の願望が表象される機能もあったと見ています。


 今述べた事をトータルとして考えるなら、平家が滅んだのは平家に内在する客観的、法則としての運命故であるとも考えられますし、また、人々の意志が平家を権力の座から引き下ろすのを望んでいたからだ、とも考えられます。もちろん、全体的にはあくまでも法則としての運命が濃厚なのですが、近代的な視点で作品を解析するなら、そこに人々の意志を読み取る事も可能だ、という事です。


 これらの意志と運命との混ざり合いは、平家物語においては奇怪な話や、夢、占いといった中世的な要素で作られています。それ故に作品は夢幻的な雰囲気を持ち、それと共に、人間はその雰囲気の中に包まれて、その空気に準じて、生き、死んでいくものとされています。それが平家物語全体を支配している一種の「調子」となっています。


 ※

 平家物語は現在の観点から見ると、足りない点があります。それについて触れておこうと思います。


 何より不足しているのは心理描写だと思います。人間の心理を深く掘り下げるというのは、近代文学から出てきた考えなので、中世文学である平家物語ではその要素は薄いです。大抵は「あはれであった」とか、「袖を濡らして泣いた」のような類型的表現で片付けてしまいます。もちろん、これは時代的制約なので、しかたのない事なわけです。


 歴史学者の石母田正は「平家物語」で、特に平知盛という人物を取り上げています。確かに、平知盛は、非常に複雑な人物です。

 

 平知盛は、壇ノ浦の戦いまで平家方として戦い続けます。知盛は船の上で、不安がっている女房達に「戦の様子はどうですか」と問われ、「珍しい東の男(源氏のこと)が見れるでしょう」と冗談を言って豪快に笑います。女房達は、こんな時に冗談を言う知盛を不審に思います。


 知盛は死の瞬間も、どこか達観した様子を見せます。「見るべきものは見た。もう自害する時だ」と言って、鎧を二つ着て、海に沈んでしまいます。


 知盛の「見るべきもの」とは一体なんだったのでしょうか。それは「平家の滅亡」です。その終末を見届けた、という事です。

 

 知盛は、平家方として最後まで徹底的に戦いながらも、どこか戦自体を俯瞰して見ており、「見るべき時は見た」と感じると、潔く自害します。知盛は、戦を俯瞰的に見る、おそらくは仏教的な視点を持ちながらも同時に、平家の一武将として戦い抜くという、党派的な動きを遂行できる人間でもありました。清盛対頼朝の戦いの構図はわかりやすいのですが、平知盛はそれよりも更に複雑な人間であるようです。ただ、先に言ったように平家物語は心理描写、人間の内面描写はそれほど深くは描けないので、平知盛は大まかに、上記の二つの言葉でその内面を推し量るしかできない存在として、作中には現れています。

 

 ※


 平家物語という作品は全体として見れば、文学作品だと私は思っています。平家物語は、この物語を琵琶法師が庶民に歌って聞かせたという事情があるので、当時の中央の政治闘争を庶民が知るというジャーナリズム的な要素があったのでしょう。また、歴史の話なので、歴史書の一種と考えられます。


 ただ、全体としては、仏教的な無常観で作品の全体を構成しており、その構成の仕方が作品を文学に近づけていると思います。事実を正確に伝える事よりも、事実を配列して、事実の背後にあるものを照らし出そうとする点において、立派な文学であると思います。


 この無常観自体は、直接的には仏教の輸入から派生した思想でしょうが、私は日本に元々あった信仰が土台となって、いわゆる日本的な無常観が生まれたのではないかと思います。作品全体の読後感は、高橋和巳の「邪宗門」と似ていました。「邪宗門」もまた、無常観を基調とした作品です。


 無常観という意味が現代ではわかりにくくなっていますが、日本思想、日本文学を考える上で、重要な要素だと思います。平家物語は、滅亡していく平家を中心に作品が作られており、勝者である源氏を作品の中心にしてはいません。何故、敗者を作品の中心的な対象にするのか、という事の中に、現代のエンターテイメント思想ではわかりにくい、積み重ねられた人間の知恵があるのではないか思います。平家物語を読んで、私はそういう考えを喚起されました。



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