9 王太子の初恋①
今回はジェラルド視点です。
クリスティーナが規則正しい寝息を立て始めたのを確認し、ジェラルドはようやく安堵の息をついた。
連絡を受けて駆け付け、真っ青な顔でベッドに横たわる彼女の姿を目にした瞬間、様々な感情が渦巻き、体の芯が震えたのが自分でも分かった。
大きな怪我はないという報告を受けているが、手首には縛られた跡がくっきりと残り、痛々しい。
(間に合って良かった、と言うべきなんだろうな……)
確かに最悪の事態は免れた。だが、クリスティーナが感じた恐怖は並大抵のものではなかったはずだ。
どうかその痛みが少しでも和らぎますようにと、ジェラルドはクリスティーナの額をそっと撫で続ける。
蜂蜜色の柔らかな髪。瞼の奥の瞳が澄んだ青色だということを、ジェラルドは知っている。
その姿は、十年間探し続けていた人の面影と完全に重なっていた。
出会いは十年前、ふらりと王宮図書館に立ち寄ったときのことだった。
書架の合間に設けられた椅子にちょこんと座る小さな女の子の姿が目に入った。
興味を引かれたのは、彼女が手にしていた本が、ジェラルドがようやく習得したばかりの古語で書かれたものだったからだ。
女の子はどう見ても、ジェラルドより二つ三つ幼い。
「それ、面白い?」
本当に意味が分かってるの?
そんな疑問を込めて声をかけると、女の子が弾かれたように顔を上げた。
蜂蜜色の柔らかそうな髪。ぱっちりとした青い瞳は、夢見るように輝いている。
「うん、とっても面白いよ!」
その屈託のない笑顔に目を奪われた。
話してみると、女の子は本当に古語を理解しているらしいことが分かった。
「私、神話とか古い物語を読むのが大好きなの。そうしたらね、家庭教師の先生が、古語で書かれたものを読めるようになったらもっと楽しいですよ、って」
古語だけではない。女の子は他にも色々なことを勉強していて、そのうちのいくつかは、年上のはずの自分と同じくらいのレベルにあることが分かった。
ジェラルドは王族として、幼い頃からあらゆる分野で高度な教育を受けてきた。『殿下は非常に優秀でいらっしゃいます』という家庭教師達の言葉がお世辞でないとすれば、この女の子の優秀さは同年代の中でも飛び抜けていることになる。
そんな女の子にいいところを見せたくて、ジェラルドは女の子の手を引き、図書館中を案内して回った。女の子は楽しそうについて来た。ジェラルドの話に耳を傾け、自身の考えも遠慮なく口にした。それはジェラルドにとって、新鮮で楽しいひとときだった。
「本当に勉強が好きなんだね」
感心して言うと、パッと顔を輝かせる。その表情にまた釘付けになった。
「私、たくさんたくさんお勉強して、大きくなったらお城で働くの!」
一瞬、言葉に詰まった。この国では女性は文官になれない。この子はまだそのことを知らないのだ。
「それは……」
無理だよと続けようとして、言葉を飲み込んだ。彼女の笑顔が曇るのを見たくなかった。
だから代わりにこう言った。
「それは素敵だね。俺も大人になったらお城で働く予定だから、一緒に働こう」
「うん、約束ね!」
「ああ、約束だ」
女の子を眩しく見つめながら、この時ジェラルドは誓ったのだ。
彼女が大人になるまでに、国の制度を変えてみせると。王太子の立場をもってすれば不可能ではないはずだ。
そして必ず彼女との約束を果たすのだ、と。
女の子の名前を聞かなかったのは、あえてのことだった。
名前を聞けば、自分も名乗らないわけにはいかなくなる。王太子であることを明かしてしまえば、もうあの屈託のない笑顔を向けてはくれないだろうと思ったからだ。
また図書館に行けば会えるはずだ、もっと親しくなってから名乗ろう、そう考えていた。
だがジェラルドは、その時の判断をその後十年もの間後悔し続けることになる。
それっきり、何度図書館に行ってもあの女の子に会うことはできなかったのだ。
もう一度会いたい。
その一心で女の子を探したが、辿り着くことはできなかった。
身なりや、王宮図書館に出入りしていた事実からして、貴族階級に属していることはほぼ間違いない。教養の高さからすると、高位貴族と思われた。
だが、公爵家と侯爵家に該当する娘はいなかった。伯爵家にも見つからなかった。子爵家や男爵家の娘となると、そもそも顔を合わせる機会がなくて行き詰まった。
『殿下は恋をしていらっしゃるんですねぇ』
狂おしいほどの感情に名を与えたのは、一つ年上の乳兄弟、エドウィンだった。
恋という響きは、実にしっくりとジェラルドの耳に馴染んだ。
相手がどこの誰とも知れない中、ジェラルドはあの約束に縋った。
もし女性に文官への道を開くことができたなら、きっと彼女はその道へとやってくるに違いない。
その可能性に賭けた。
同時に、早く婚約者をという周囲からの圧力を、のらりくらりと躱し続けた。
彼女以外の女性を婚約者に迎えることなど想像すらしたくなかった。
そして瞬く間に十年の月日が流れた。
思いがけない形で転機が訪れたのはジェラルドが二十歳のとき。新しい王太子補佐官として、クリストファー・エイベルが現れたときのことだった。