8 幼い日の約束
女性に対する暴力描写(未遂)があります。苦手な方はご注意下さい。
頬に痛みを感じ、クリスティーナの意識はゆるゆると浮上した。
重い瞼を無理矢理に持ち上げると、ぼんやりした視界の中に、見知らぬ男の顔が横向きに映り込んだ。
「ようやくお目覚めみてぇだな」
(誰!?)
声を出そうとして、猿ぐつわを噛まされていることに気づいた。
咄嗟に後ずさろうとしたが体が自由に動かない。
手首を後ろ手に縛られて床に転がされている。
そう理解した瞬間、ザァッと全身から血の気が引いた。
「悪ぃな、嬢ちゃん。アンタにとっちゃ気を失ってた方が楽だったかもしれんが、それじゃあ俺らは張り合いがないもんでね」
目の前の男が下卑た笑い声をもらし、それに別の笑い声が答えた。
(なに、なにを言っているの? この人達は誰? どうして? ここはどこ?」
小さく体を震わせながら、クリスティーナは周囲に視線を走らせる。
薄暗い倉庫のような小部屋。
見覚えのない三人の男。彼らはいずれも目深に帽子をかぶり、口元を布で覆っている。
その手にナイフが握られているのを見て、クリスティーナは息をのんだ。
(殺される!)
逃げなければ。
必死にもがいて上体を起こせば、リーダーらしき男が楽しそうにナイフをひらめかせた。
その濁った目がクリスティーナの顔、胸元、そしてスカートが乱れ露わになった脚に、ねっとりと向けられる。クリスティーナの全身が粟立った。
「心配しなくても殺しゃしねぇよ。俺らが雇い主から依頼されてるのはアンタの命を取ることじゃない、純潔を散らすことだからな」
「――――!!」
クリスティーナは声にならない悲鳴をあげ、床にお尻をついたままずるずると後ずさった。だが、すぐに背中が壁にぶつかってしまう。
「おっと、逃げようったって無駄だぜ」
嗜虐的な笑みを浮かべ、男たちがクリスティーナに一歩また一歩と近寄る。
(怖い! 誰か、誰か助けて……!)
絶望に涙が滲む。
男の手がクリスティーナにのびる。
思わずぎゅっと目をつむった、その時だった。
バァンと派手な音を立てて扉が吹き飛んだ。と同時に、黒い装束に身を包んだ人物が矢のように飛び込んできた。
「な、なんだテメェは!?」
驚愕から我に返った男たちが闖入者に向き直る。が、そのときにはすでに黒装束の人物は男たちの目前に迫っていた。
黒装束が疾風のように男たちに襲い掛かる。男たちは手にしたナイフを振り上げる間もなく、思い思いのうめき声を残してその場に崩れ落ちた。
何が起きたのか分からないほど、あっという間の出来事だった。
黒装束は男たちに意識がないことを確認すると、クリスティーナに顔を向けた。感情の見えない目がクリスティーナを捉える。
(今度は何? この人は敵なの? もう何もわからない……!)
カタカタと震えながら、それでもクリスティーナは気丈に黒装束を見返す。
すると黒装束はその場に跪き、深く頭を垂れた。
「お嬢様、私は敵ではありません。さる高貴なお方の命を受け、あなた様をお助けに参りました」
男の声が黒装束から響く。聞き覚えのない声。けれどその落ち着いた声音に、次第に身体の震えが収まっていく。
「どうぞご安心を――」
(私、助かったの……?)
緊張の糸が切れたかのように、クリスティーナは意識を手放した。
*
夢を、見ていた。
夢だと気づいたのは、目に映る自身の手や身体が、今よりずっと小さいからだ。
本をめくる小さな手は十歳……いや、もう少し幼いかもしれない。
古い紙の匂い。天井まで届く高い書架。静かな空間に本をめくる音だけが落ちる。
クリスティーナはこの場所を知っている。
(ここは……王宮の図書館……)
「それ、面白い?」
声をかけられ、顔を上げる。こちらの手元を覗き込んでいるのは十歳くらいの男の子。
「うん、とっても面白いよ!」
幼いクリスティーナが笑顔で答えると、男の子は驚いたように目を丸くした。
(これは私の記憶だ……。子どもの頃、お父様について図書館に行ったときの……)
男の子に手を引かれ、書架の間を駆け巡る。本の森の探検は、一人でも楽しいけれど二人だともっと楽しくて。
「本当に勉強が好きなんだね」
感心したように言われたのが嬉しくて、「うん!」と元気に答えた。
「私、たくさんたくさんお勉強して、大きくなったらお城で働くの!」
笑顔で言うと、男の子はほんの少し黙ってから、
「それは素敵だね。俺も大人になったらお城で働く予定だから、一緒に働こう」
「うん、約束ね!」
「ああ、約束だ」
男の子がエメラルドの瞳を細める。黒鉄色の髪がきらきらと光を弾く。
(ああ……どうして忘れていたんだろう、こんな大切なことを)
男の子がクリスティーナの頭をそっと撫でる。
(あの方はずっと覚えていて下さったのに――)
優しい優しい手の感触。それは涙が出そうなほどに心地よくて――――。
*
涙で滲んだ目を開けると、エメラルドの瞳が優しくクリスティーナを見つめていた。
大きくて温かい手が、そっとクリスティーナの頭を撫でている。
「……ごめ……なさい、私、やくそく――」
ぽろりと零れ落ちた涙を、ジェラルドの指先がそっと掬い取る。
「大丈夫。今はゆっくりお休み」
慈しむような眼差し。深い安堵が胸に染み渡っていく。
小さくうなずき、クリスティーナは安らかな眠りに落ちていった。
次回はジェラルド視点です。