7 危機
そして迎えた約束の日、ドミニクはエイベル家の屋敷まで馬車で迎えにきた。
ここ数ヵ月は、婚約者の義務として月に一度、エイベル家の屋敷でほんの短時間顔を合わせるだけだったから、二人で外出するのはいつぞやの夜会以来久しぶりのことだった。
「君から誘ってくれるなんて初めてだな」
上機嫌なドミニクと共に馬車に揺られ、上流階級向けの店が建ち並ぶエリアへ。
ドミニクが予約していたレストランで昼食を取ることになった。
ドミニクの話に愛想笑いで相槌を打ちながら、クリスティーナはなかなか本題に入れないでいた。気もそぞろで、せっかくの美味しそうな食事を楽しむ余裕もない。
テーブルにデザートが並ぶ頃になって、クリスティーナはようやく覚悟を決めた。
ティーカップを置き、背筋を伸ばす。正面に座るドミニクをまっすぐに見つめた。
「ドミニク様。お話したいことがあります」
「ああ、手紙に書いてあったね。話って何?」
クリスティーナには視線を向けないまま、ドミニクはデザートフォークに手を延ばす。
クリスティーナはこっそりと一度、深呼吸をした。
「王太子殿下が女性の文官志望者を募っているというお話、お聞き及びでいらっしゃいますか?」
「ああ、聞いた気がするね。女を文官に登用しようだなんて、まったく……まさか、君――」
「はい。手を挙げたいと思っています。王宮で働くことは子どもの頃からの夢なんです、だから――」
カシャンと食器がぶつかる音に、クリスティーナはビクリとして口を噤んだ。
ドミニクが、ケーキに突き立てたままのフォークを皿の上に放ったのだ。
露骨に溜息をつき、ドミニクは胸の前で腕を組んだ。クリスティーナの方を見ようともせず、苛立たしげに指先で自身の二の腕をトントンと叩いている。
クリスティーナは息を詰めて、ドミニクの次の言葉を待った。
反対されるのは目に見えている。それでも引き下がらず説得するつもりだった。
やがてドミニクは、不機嫌な表情のまま口を開いた。
「……好きにすればいいんじゃない?」
「え?」
予想外の答えに、クリスティーナは目を瞬いた。
「いいのですか? ありが――」
「この話は終わりだよ」
そう言うと、ドミニクは無言でケーキを食べ始めた。
(良かった……と思っていいのよね……?)
言葉とはうらはらな態度に一抹の不安を感じながら、クリスティーナもドミニクに倣ってケーキを口に運ぶ。
大急ぎで飲み込んだケーキのせいか、少し胸が苦しくなった。
それからレストランを出るまで、ドミニクはクリスティーナをまともに見ようともせず、無言のままだった。
機嫌が悪いのは明らか。
今日はこれでお開きになるだろうと思っていたのだが。
「悪いがもう少し付き合ってくれないか」
そう言って、クリスティーナの返事も待たずに歩き出した。クリスティーナは慌てて後を追う。
「あの、どちらに向かっているのですか……?」
そう尋ねても、「少し寄りたいところがあってね」という答えしか返ってこない。
早足で歩きながら、キョロキョロと辺りを見回す。いつの間にか高級店が建ち並ぶエリアから、庶民向けの商店が集まるエリアに入り込んでしまっているようだ。店構えも道行く人々の服装も雰囲気が違っている。
(この辺りまで来るのは初めてだわ……)
物珍しさもあるけれど、同時に小さな不安も感じずにはいられない。下町の方には治安の悪いエリアもあると耳にしているからだ。
ドミニクは大通りを離れ、脇道に足を踏み入れた。何度か角を曲がるたび、道は細く、左右にそびえる建物の色も暗くなっていく。
足元にはゴミが散乱し、雨も降っていないのにあちらこちらに水たまりができている。何かが腐ったような臭いが立ちこめているのはそれらが出所だろうか。およそ貴族階級に属する人間が立ち入る場所とは思えなかった。
(こんな所にいったい何の用が……)
怪訝に思ったとき、ドミニクが足を止めた。左右に目をやり、クリスティーナを振り返る。
「少し迷ってしまったかもしれない。この先を見てくるから、君はここで待っていてくれ」
「え、待ってくだ……」
止める間もなくドミニクは早足で歩き出し、角を曲がる。慌てて追いかけたが、さらに角を曲がってしまったのか、ドミニクの姿はすでになかった。
(どうしよう……)
取り残されたクリスティーナは、呆然とドミニクの消えた方を見やった。
前後左右を見回すが、人の姿はない。それなのに周囲に感じるざわざわとした人の気配が、どことなく不安をかき立てる。誰かが隠れてこちらを窺っているような、そんな気がしてならないのだ。
クリスティーナは両腕で自身を抱きしめ、ぶるりと体を震わせた。
(ここはなんだか嫌だわ。イチかバチか、来た道を戻ろう……)
身を翻し、歩き始めた直後だった。
すぐ背後に複数の人間の気配を感じた。と同時に、真後ろから何者かに羽交い締めにされる。
「っ――――」
声を上げようとした口が布に塞がれる。
甘い匂いを感じた次の瞬間、クリスティーナの意識は薄れていった。