6 替え玉生活の終わり
ようとして行方を掴めずにいたクリストファーの突然の帰還に、エイベル家は密かに大騒ぎとなった。
まずはクリストファーが床にめり込む勢いで謝罪し、無事だったことを家族みんなで泣いて喜び、それが落ち着くと六時間に及ぶ母の説教タイムが待っていた。
それもようやく収まり、本人が家族の前で語ったところによれば、クリストファーは王都を出た後、王国南方の港町に流れ着いたのだという。
王国最大の港を擁するその町は、貿易の拠点として王都に次いで活気のある町だ。
この町でならなんとかやっていけるのではないかと考えたクリストファーだったが、そううまくはいかなかった。
仕事を探そうにも、ひょろひょろした体に薄汚れた服装、その上おどおどとした態度のせいで、どこに行っても門前払い。
持ち金が尽きて途方に暮れていたところを、その町を拠点にする商会の一人娘エイミーに拾われたのだという。
平民「クリス」として商会に住み込みで雇ってもらい、気の強いエイミーに叱咤されながら、少しずつ商会の仕事を覚えていった。
まずは掃除やおつかいなどの雑用から始め、間もなく読み書き計算ができるということで書類仕事を任されるようになった。もともと飲み込みは早い方だったから簿記もすぐに習得し、他の従業員からも一目置かれるようになった。さらに近隣三ヵ国の読み書きができるということで、会長からも目をかけられるようになった。
その頃には会長の娘エイミーと想い想われる仲になっていたから、結婚の話が出たのは自然な流れだった。
だが、さすがに素性を偽ったまま結婚するわけにはいかない。
クリストファーはエイミー親子に本当の名前と身分を打ち明けた。
二人とも、クリストファーがただの平民でないことは確信していたらしく、さほど驚きはしなかった。素性を隠していたことを怒るどころか、すぐに実家に戻って家族に無事を知らせるべきだと説得にかかった。
その上で、『もしご両親の許しが得られるなら、改めてプロポーズして欲しい』とエイミーに背中を押され、クリストファーは意を決してエイベル家の門をくぐったのだった。
商会の娘エイミーと結婚し、引き続き商会の仕事に携わりたい。
きっぱりと告げたクリストファーに、両親は目を丸くした。優秀でありながら常に弱気で消極的だったクリストファーが、こんな風に願望を強く主張することは、これまで一度もなかったからだ。
突然のことに戸惑いも大きかったが、数日にわたる話し合いの末、エイベル家としてはクリストファーの希望に沿う方向で動くことが決まった。
もとより縁組みによって成り上がろうなどという野心は持たないエイベル家である。
子爵夫妻は子ども達の結婚について、そこそこに釣り合いが取れてさえいれば気に入った相手と結婚すればいいと考えていた。その点、国で十本の指に入る商会の娘は、そこそこに釣り合いが取れていると言えなくもなかった。
子爵家と商会との関係をどうするかなど、決めなければならないことは山積みだったが、「クリストファー・エイベル」が王太子補佐官を続けられないことだけははっきりしていた。
本物のクリストファーが戻ってきた以上、ニセモノは速やかに姿を消す必要がある。
クリストファーが帰還した翌日、「クリストファー・エイベル」は急な体調不良を理由に王太子補佐官の職を辞した。
主や同僚達にお別れの挨拶もできないまま、クリスティーナの替え玉生活は終わった。
クリスティーナが替え玉として王太子補佐官をしていたという話を聞いたクリストファーは、真っ青な顔で絶句した後、涙目でうなだれた。
「ティナ、ごめん。僕のせいでなんて危ないことを……」
「そんなに落ち込まないで。幸いバレずに済んだんだもの。それに私、意外と楽しんでいたのよ」
本当に、クリスティーナには弟に対する怒りの感情など全くなかった。むしろ感謝すらしているくらいなのだ。
微笑んで見せると、クリストファーはもう一度「ごめん」と力なく呟いた。
(これで良かったんだ。あのままずっと殿下を欺き続けるわけにはいかなかったんだもの……)
替え玉が発覚すればエイベル子爵家はただではすまない。バレる前に終われたことを喜ぶべきなのだ。
頭では分かっているのに、心は割り切れなかった。
*
それからの一ヵ月を、クリスティーナはぼんやりと過ごした。
父とクリストファーは水面下で商会と連絡を取り合い、結婚や事業について話し合いを重ねている。
クリスティーナも一度、お相手のエイミーに会う機会があったが、ハキハキとして物怖じしない様子に好感を持った。クリストファーの気弱な部分を補ってくれることだろう。
両親と弟が明るい未来に向かって浮き立つ中、クリスティーナだけがポツンと取り残されたような心地でいた。
何をしていても、心に浮かぶのは王太子補佐官として過ごした日々のこと。
毎日通った執務室。
親切な同僚達。
そして誰よりも敬愛する主、王太子ジェラルド。
(違う。あの方はもう私の主じゃない。忘れなきゃ。もともとあそこは、私がいていい場所じゃなかったんだから……)
何度そう言い聞かせても、喪失感は拭いようがなかった。
途中で投げ出すことになってしまった仕事の行方も気になっていた。
王太子殿下の婚約者選び。
国王陛下から定められた期限まで、残り一ヵ月を切っている。予定どおりであれば、すでに候補者全員とのお茶会を終えているはずだ。ジェラルドはすでに候補者を絞り込んだのだろうか……。
食事時にポロリと漏らしたことを父が気に留め、王宮で情報を仕入れてきてくれた。
「どうやら王太子殿下は御心を決められたようだよ」
そう父から聞かされたとき、クリスティーナは息が止まりそうになった。
そして気づいてしまった。
尊敬や敬愛という言葉では言い表せない気持ちに。
(私……あの方に恋していたんだ。きっと、初めてお会いしたときから……)
叶うはずのないクリスティーナの初恋は、自覚すると同時に、ひっそりと終わった。
補佐官の仕事を失い、恋も失った。
これから先のことに思いを馳せたとき、クリスティーナの中で、ある一つの思いが大きくなっていった。
(私、やっぱり文官になりたい。女性で初めての文官に)
幼い頃の夢を叶えたい。
それがあれば、希望のないドミニクとの結婚生活もどうにか耐えていける気がする。
そして何より、どんな形でもいいからジェラルドの役に立ちたかった。
(文官になりたいって、ドミニク様に伝えよう。きっと反対されるだろうけど、簡単にあきらめたりしない!)
クリスティーナはドミニクに宛てて、会って話したいことがあると手紙を書いた。
数日後、ドミニクから返事が届き、屋敷の外で会うことになった。