4 予期せぬ遭遇
「お会いできて嬉しいですよ、クリスティーナ嬢」
数日後、クリスティーナはきらびやかに微笑むジェラルドを前に冷や汗をかいていた。
この日、クリスティーナは婚約者のドミニクに連れられ、とある侯爵家の夜会に参加していた。
婚約した当初こそまめまめしく愛を囁いてきたドミニクだったが、クリスティーナの真面目で堅い態度にすっかり興醒めしてしまったらしい。
近頃では月に一度、義務的に子爵家を訪問するだけで、積極的にクリスティーナを誘うことはなくなっていた。
最近はとある男爵家の令嬢と懇意にしているらしいと、社交界でもっぱらの噂である。
いっそのことすっぱり婚約を解消してほしいとクリスティーナは思うのだが、五回目の婚約とあってドミニクの父親であるフィーラー伯爵が承知しないらしい。
『君に瑕疵でもあれば婚約を破棄できるのに』
と、ドミニクが被害者ヅラしてこぼしたときには、さすがの品行方正なクリスティーナも、拳を握りしめ、持てる限りの語彙を総動員してドミニクを罵倒したものだ。
もちろん心の中だけで、だが。
そんなドミニクも、父伯爵の名代として侯爵家の夜会に参加するのに、堂々と浮気相手をエスコートするほど恥知らずではなかったらしい。
もはや形ばかりの婚約者とはいえ、正式に誘われれば断るのは角が立つ。
渋々といった様子のドミニクにエスコートされ、こちらも渋々夜会にしてみれば、なんとそこに王太子ジェラルドの姿があったのである。
(ど、どうして殿下がここに!? スケジュールには入ってなかったはずなのに……!)
おそらく何らかの理由で急遽参加することになったのだろう。そういうことがたまにある。運が悪いとしか言いようがない。
思わず婚約者のドミニクを恨みがましい目で見上げると、ドミニクは不機嫌そうに鼻を鳴らし、クリスティーナを放置してさっさと友人達の輪に加わってしまった。
それならそれで、むしろ一人の方が動きやすくていいわ、などと思いながら、クリスティーナはそっと壁際に移動した。
ドミニクのことなど、もはやどうでもいい。とにもかくにもジェラルドの視界に入らないことが大事だ。
幸い、ジェラルドは常に多くの人に囲まれている。こちらから近寄りさえしなければ目に留まることはないだろう。
そう判断し、ジェラルドから距離を取ったまま会場内を適当にうろうろし、休憩がてらデザートをつまんでいたとき、背後から声がかかった。
「エイベル子爵家のクリスティーナ嬢とお見受けします」
聞き慣れた声に、クリスティーナの肩がビクリと跳ねた。
(あああ、何かの間違いであってほしい……)
ギギギ、と錆びかけたブリキの人形のような動きで振り返ると、目の前には思ったとおりの人物が立っていた。
(……ですよね! 私が殿下の声を聞き間違えるなんてありえないもの……!)
夜会用のフロックコートに身を包んだジェラルドは、いつにも増して凜々しくて眩しい。
そのエメラルドの瞳はほんのわずかに見開かれたあと、見たこともないほどにやわらかく細められた。
(ああ、こういうお姿も素敵……って、いやいや!)
うっかり見惚れそうになり、クリスティーナは慌てて顔を伏せ、深く腰を落とした。
極力、顔は見られない方がいい。声も普段より高めを意識した。
「お、お目にかかれて光栄に存じます、王太子殿下。エイベル子爵家が長女、クリスティーナでございます。いつも弟クリストファーがお世話になっております……」
「どうぞ顔を上げて下さい。あなたのお話はクリスから常々。ずっとお会いしてみたいと思っていたのですよ。よろしければ一曲お相手頂いても?」
目の前に大きな手が差し出され、クリスティーナはウッと言葉に詰まる。
これ以上ジェラルドと関わるべきではない。
だが、断る言い訳を口にしようとして、周囲のざわめきに気付いてしまった。
麗しの王太子殿下が、しがない子爵家の娘に自ら声をかけ、ファーストダンスに誘ったのだ。
皆が興味津々でなりゆきを見守っている。
ダラダラと嫌な汗が背中を伝う。
この状況で王太子殿下のお誘いを突っぱねられるほどの度胸を、エイベル家の人間は持ち合わせていない。断るという選択肢はなかった。
「ダンスがお上手ですね。お母上のお仕込みとか」
「お、褒めにあずかり、光栄、です……」
楽団が軽やかにワルツを奏でる。
ジェラルドのリードに身を委ねながら、クリスティーナは危うく昇天しかけていた。
(ちかっ、近すぎるっ! ……もう駄目、尊すぎてむり……)
顔を伏せたまま息も絶え絶えに答えると、頭上からクスリと小さな笑みが降ってきた。
「そんなに畏まらないでほしい。俺はあなたに、初めて会ったとは思えないほどの気安さを感じているのだが……もしや、以前どこかでお会いしたことが?」
すうっと背筋が冷たくなる。
(ま、まずい、疑われてる!? 全力で否定しなきゃ!!)
「なななないでしゅ!」
噛んだ。
「で、殿下にお目にかかるのは正真正銘今日が初めてです!」
「ふむ。ああ、そうか。あなたがクリスによく似ているから、そう感じるのかな?」
「そう、きっとそうです! わたくしと弟はとてもよく似ておりますので! 子どものときは服を交換して大人達をからかって遊んだものでして!」
それは嘘ではないが、見分けがつかないほど似ていたのはせいぜい十歳くらいまでのこと。
十七歳となった今、さすがに見分けがつかないなどということはないのだが、今はそう言って乗り切るしかなかった。
必死に言い募ると、またも頭上で、ふっと笑みがこぼれた。
「そうか、あなたがそう言うならそうなのだろう」
長いようで短い一曲が終わる。
「もう終わりか……」
ジェラルドの声が残念そうに聞こえるのは、きっとクリスティーナ自身がそう思っているからに違いない。
向かい合っておじぎを交わし、名残惜しさを振り切って離れようとしたクリスティーナの手を、ジェラルドがそっと握った。
「クリスティーナ嬢、またお会いできますか? あなたとはもっと色々な話をしたい」
エメラルドの瞳に見つめられ、クリスティーナは目をぐるぐるさせて硬直した。
(ひ、ひぇ……。女性文官登用の話だと分かっているけど、それでも破壊力がすごい……)
「あの、機会がありましたら……」
ようやくそれだけ答え、クリスティーナはそっと手を引いた。
これ以上はまずい。色々、まずい。
そそくさと御前を下がり、ジェラルドの視線が追いかけてくるのを感じながら人混みに紛れた。
(機会、か。きっとないだろうな。むしろあっては困る……)
クリスティーナが本来の姿を晒せば晒すほど、替え玉がバレる危険が増す。
もしも替え玉がバレたら、クリスティーナも家族もただでは済まないだろう。
だからもう二度とクリスティーナとして会うべきではないと分かっている。それなのに、それがたまらなく寂しく思えた。
(殿下とダンスなんて、夢みたいだったな。一生の思い出にしよう……)
あとは許される限り、「クリストファー」として全力で殿下をお支えするのだ。
そう自分に言い聞かせ、クリスティーナはそっと会場を後にした。