2 替え玉の理由
ことの起こりは今から四ヵ月前のこと。王宮から王太子補佐官に任命されていた双子の弟クリストファーが失踪した。
『ごめんなさい。探さないで』という書き置きを残して。
初出勤日の、わずか三日前のことだった。
クリストファーは学問は抜群にできるけれど、気が弱く極度の人見知りだ。
野心や野望もない。将来は、父であるエイベル子爵が副館長を勤める王宮図書館の付属の研究室で、ひっそりと数学の研究に携わることを志望していた。
そこに降って湧いた王太子補佐官の打診である。
双子の家庭教師を勤めたベケット先生が、クリストファーの能力を高く評価し、持てる伝手を駆使して王宮に売り込んでくれたらしい。
子爵家から王太子補佐官。大抜擢と言える。だが、王宮から打診の知らせを受けたクリストファーは、喜ぶどころかショックで倒れ、三日三晩寝込む羽目になった。
エイベル子爵家は、代々の当主に受け継がれてきた「事なかれ主義」ゆえに歴史だけは長いが、領地もなければ特別の地位も持たない。そんな弱小子爵家の立場で、王宮からの打診を断れるはずもない。
家族会議を重ねた結果、ひとまず出仕し、「なんか思ってたのと違う」とクビになるのを待つしかあるまい、という話になった。
その矢先の家出だった。
クリストファーのことは密かに人を雇って探すことにし、さて王宮にどう説明しようかとなったとき、双子の父エイベル子爵がとんでもないことを言い出した。
『ティナちゃん、パパの一生のお願い!! クリスのふりをして王宮に出仕してくれない!?』
『お……お父様、なに馬鹿なこと仰ってるんですか!? 無理に決まってるでしょう!』
『でもほら、二人はよく似てるし、昔はクリスと服の取り替えっことかしてたじゃない!』
『いつの話をしてるんですか!? 私もう十七歳ですよ!』
『大丈夫だよ! 幸いクリスは引きこもりだったからほとんど顔を知られてないし! ティナちゃんも王太子殿下にはお目にかかったことないよね? それにティナちゃんはクリスと同じくらい勉強できるし、女の子にしては背が高くて体型もそのぅ……スレンダーだし! いざという時の責任は全部パパが取るからお願い! だって、三日前になってやっぱ辞めますなんて言えないもんー!』
『む、無茶言わないで下さいー!!』
クリスティーナは抵抗したが、涙目で土下座を続ける父に根負けした。
この父といい、土壇場で家出を決行した弟といい、気が小さいくせに妙なところで大胆すぎて意味がわからない。
こうして大慌てで替え玉の準備が始まった。
ささやかな胸のふくらみにさらしを巻きつけ、男物の衣装に身を包む。蜂蜜色の長い髪は同じ色のウィッグの中に隠し、女顔をごまかすために黒縁の伊達眼鏡をかければ、姿見の中にはクリストファーによく似た青い瞳の華奢な美少年が現れた。
それから四ヵ月、クリスティーナは双子の弟クリストファーを名乗り、男の姿で王太子補佐官を務めてきた。
最初はいつ正体がバレるかと生きた心地がしなかったが、幸いにも女性と疑われている様子はない(それはそれで少々複雑だが)。
慣れてくると、補佐官の仕事が楽しくなってきた。
クリスティーナは幼い頃から、双子の弟クリストファーと同じ家庭教師に師事し、一緒に勉強に励んできた。別にエイベル子爵が先進的だったわけではない。単に姉弟に別々の家庭教師をつけるより、費用がほんのわずか安かったからである。
クリスティーナは、将来は自分も父と同じように文官になるのだと信じて疑わなかった。
家族の前ではもちろん、父について行った図書館でたまたま出会った男の子相手にまで、無邪気に夢を語っていた。
だから十歳の頃、父から申し訳なさそうに、
『あのね、ティナちゃん。女の子は文官になれないんだよ……』
と聞かされた時はとてもショックだった。
それでもクリスティーナは勉強することをやめなかった。
学ぶことは純粋に楽しかったし、いつかきっと何かの役に立つと信じていたから。
だから、たとえ弟の替え玉としてであっても、これまで学んできたことを活かす場を得られたことが、クリスティーナはたまらなく嬉しかったのだ。
四ヵ月経ってもクリストファーの行方は掴めなかったが、本人から定期的に生存報告の手紙が届くようになり、家族はホッと胸を撫でおろした。
クリスティーナも替え玉の役目に集中することができていた。
そして目下、クリスティーナの最重要任務は、主である王太子ジェラルドの婚約者選びの補佐である。
この日までに、大本命と言える公爵令嬢二人と侯爵令嬢三人とのお茶会を終えたが、ジェラルドの心はいずれにも傾いてはいないようだった。
「陛下からは貴族階級であれば問題ないと言われているが……自由と言われるとかえって悩ましくてな。次期王妃にふさわしい気品と教養……他にどのような資質を持つ女性を選べばいいのだろう。クリス、お前はどう思う?」
「えっ、僕ですか?」
意見を求められると思っていなかったクリスは目を瞬く。
「そこから先は殿下のお好み次第だと思うのですが……」
「まぁそうなんだが、補佐官は俺の妃となる女性とも必然的に関わることになるだろうからな。皆の考えも聞いておきたい」
「なるほど」
そう言われては、補佐官として真剣に答えないわけにはいかない。クリスは慌てて思考を廻らせた。
「そうですね……部下の立場からすると、公務でお忙しい殿下を支えて下さるような方に妃になって頂きたいと思います」
「なるほど、そうすると実務能力の高い才女が望ましいということになるか」
「もしくは、公務で多忙な殿下を癒やして下さるような方とか……」
するとジェラルドは顎に指を当てて首を傾げた。
「癒やし、か。あまり考えたことがなかったが……本音を言うと俺は、ご令嬢方と話すより、こうしてクリスと一緒にいる方が心地好いな」
「……へ?」