12 元替え玉男装令嬢の新たなお仕事
「久しいな、クリス」
瞬きも忘れて立ち尽くしていたクリスティーナは、ジェラルドの声で我に返った。
かつて彼の補佐官であったときのような気安い口調。その一言で、クリスティーナは替え玉が露見していたことを悟った。すぅっと全身から血の気が引いていく。
「……気づいておられたのですね……」
「ああ。あの夜会であなたと会ったときに」
クリスティーナは小さく息をのむ。そんなに前から気づかれていたのかという驚き。
と同時に、納得する気持ちもあった。あれほど間近で顔を合わせておいて、聡明なジェラルドを欺き続けられるはずがなかったのだ。
「……申し訳ございませんでした。どのような罰もお受け致します」
震える唇で言葉を絞り出し、クリスティーナは深く頭を垂れた。
かくなる上はせめて潔くありたい。これ以上ジェラルドに軽蔑されたくなかった。
顔をうつむけたまま息を詰め、ジェラルドの次の言葉を待つ。
ジェラルドが無言のまま、ゆっくりと歩を進めてくる。クリスティーナの目の前で立ち止まると、左手をのばし、そっとクリスティーナの右頬に触れた。ドキリと心臓が跳ねる。
「顔を上げてくれないか、クリス。お前を罰するつもりはないんだ」
弾かれたように顔を上げると、エメラルドの瞳がまっすぐにクリスティーナを見つめていた。そこに宿るのは侮蔑や非難の色ではなく、不思議な温かさ。
「エイベル家からはちゃんと『クリス』が出仕し、十分な働きをしてくれた。わずか半年で辞職してしまったのは非常に残念だったが……体調不良ということであれば責められまい」
「ですが……」
「それに、俺も替え玉に気づいていながら知らぬふりをした。いわば同罪だ。もしクリスやエイベル家の者達を罰するというなら、俺もまた罰せられなければならないことになる」
「そんな! 私達のせいで殿下が罰せられるだなんて……!」
クリスティーナが青褪めると、ジェラルドは親指の先で、宥めるようにクリスティーナの頬を撫でた。
「だからこのことは、俺達の秘密ということにしよう。俺の共犯者になってくれ、クリス」
ジェラルドがニヤリと口の端を上げる。
その微笑みはあまりに魅惑的で。至近距離で見つめられたまま、耳元で囁くように言われて。
クリスティーナはそんな場合ではないというのに頬に熱が集まるのを自覚してしまう。
(ああ、やっぱり好き。好き……いいえ違う、私は――)
クリスティーナは顔を伏せ、一歩身を引いた。頬に触れていたジェラルドの温もりが遠ざかる。
寂しさに胸が締め付けられた。だけどきっと、こうするのが正しい――。
「殿下のご厚情に心より感謝申し上げます。……この上何かを望める立場でないことは重々承知しておりますが、殿下に折り入ってお願いしたいことがございます。図々しいとお思いでしょうが」
「聞こう」
クリスティーナは再び顔を上げ、まっすぐにジェラルドを見上げた。ジェラルドもまた、真剣な表情で見つめ返してくる。
「殿下が採用を検討しておられる、女性の文官。その候補者の一人に、どうか私を加えて頂きたく存じます」
するとジェラルドは、嬉しそうに目を細めた。
「……やはりずっと諦めずにいてくれたんだな、あの夢を」
「一度は見失っていました。取り戻すことができたのは殿下のおかげです。……でも、図書館で殿下とお会いしたことは、その、つい先日まで忘れていて……」
申し訳ありませんと正直に謝ると、ジェラルドは気にするなと首を振った。
「当時のお前はわずか七歳。それもたった一度会ったきりだったんだ。覚えていなかったのも無理はない」
「忘れていたくせに虫のいい話ですが……私、あのときの約束を果たしたいのです。文官として、殿下のお側で働かせて下さい……!」
胸の前で手を組み見上げると、ジェラルドは困ったように眉を下げた。
「その、約束のことなんだが……どうしても文官でなければ駄目だろうか?」
「?」
ジェラルドの言葉の意味が分からず、クリスティーナは小さく首を傾げた。
「お父上から、クリスは文官志望だから結婚する気はない、と言われたのだが……」
あれ、とクリスティーナは今さらながら思い出す。
(殿下にお会いした衝撃で忘れていたけど、私、婚約をお断りするためにここへ来たんじゃなかったっけ……?)
諦めの悪い男に引導を渡すために応接室に来たはずなのだが。
応接室の中を見回しても、ジェラルドの他には誰もいない。そしてエイベル子爵家の応接室はこの一部屋のみだ。
(あれ? えっと? それってつまりどういう……?)
小首を傾げたまま混乱している間に、ジェラルドが一歩間合いを詰めてきた。その整った顔はわずかに強張っている。
「俺としては、クリスには文官ではなく別の仕事を頼みたいと考えているのだが……。クリスにしか頼めない仕事なんだ」
「別の仕事、といいますと……?」
ジェラルドの目元がほんのり赤に染まった。
「王太子妃、なんだが」
「へ……?」
クリスティーナはぽかんと口を開けた。




