11 クリスティーナの決意
事件から二週間ほど経った、ある昼下がり。
クリスティーナは子爵家の自室で書き物机に向かっていた。机の上には父が王宮図書館から借りてきてくれた本が山積みになっている。
あの事件があった日、クリスティーナが目覚めると、かつて職場の先輩だったエドウィン・バークリーの姿があった。たまたまバークリー家の手の者が誘拐現場に遭遇し、クリスティーナを助け出してバークリー侯爵家の別邸に保護したのだという。
(……そんな偶然ってある?)
黒装束の人の説明とも食い違っているように思えてならない。
そんな疑問をやんわりとエドウィンにぶつけてみたが、にこりと笑ってはぐらかされてしまった。
その後、エドウィンに馬車で送り届けてもらい、クリスティーナは無事にエイベル子爵家の屋敷に帰り着くことができた。
エドウィンが事件のことについて両親と話をするというので、クリスティーナも同席を願った。両親からは「休んでいた方がいいのでは」と心配されたが、「私自身のことだから」と譲らなかった。
確かに、知らないままでいた方が良かったと思うようなことも聞くはめになるのだろう。けれど、何も知らずにぬくぬくと守られるだけの存在にはなりたくなかった。そう言うと、なぜかエドウィンは満足そうに口の端を上げた。
エドウィンの口から、事件の黒幕が婚約者のドミニクであったことが知らされた。攫われたときの状況から、そうではないかと予想してはいたものの、改めて聞かされるとやはり衝撃は大きかった。
ドミニクをはじめ、関係者はすでに全員捕えてあるという。
エドウィンから、公式に裁判にかけるのではなく秘密裏に処理することとしたい、という提案を受け、クリスティーナも両親も同意した。
ならず者による誘拐、監禁。もしこのことが公になれば、クリスティーナの貴族令嬢としての未来は閉ざされてしまう。暴行は未遂に終わったとはいえ、世間の人達がどう思うかは別の話だ。
当然ながら、ドミニクとの婚約は解消されることになった。
気弱な父もさすがに憤り、「絶対に婚約を解消してみせるからね!」と息巻いていたが、父がフィーラー伯爵家に乗り込む前に、フィーラー伯爵の方から訪問があった。
真っ青な顔で訪れた伯爵は、深く頭を下げて謝罪し、婚約の白紙撤回とともに多額の慰謝料を申し出た。
従前の伯爵は、表向きは紳士的ながら、エイベル子爵家を格下と侮っているのがその言動から滲み出ていた。
そんなフィーラー伯爵が平身低頭して許しを乞うてきたことに、クリスティーナも両親も驚いた。どうやらエドウィンが裏でよほど圧力をかけてくれたらしい。
伯爵はドミニクについて、病気療養の名目で隣国の親戚に身柄を預け、二度とこの地を踏ませないことを誓約した。事実上の国外追放である。もちろん、ドミニクがフィーラー伯爵家を継ぐこともない。
二度と顔を合わせることがないのならと、クリスティーナも両親もそれで納得することにした。
こうしてドミニクとの婚約は無事に解消となった。
ドミニク側の落ち度による婚約解消とはいえ、解消となったこと自体を瑕疵とみなす貴族家も少なくないだろう。今後、クリスティーナが新たな婚約を結ぶことは難しくなるかもしれない。
だがそれで構わないと、クリスティーナは思っていた。次の婚約を考える気持ちになどなれない。というよりも、結婚への希望そのものを失っていた。
男性に対する失望というのも少しはあったが、もっと大きな理由はジェラルドの存在だった。
自覚してしまったジェラルドへの恋心。
決して叶うことはないと分かっているのに、どうしても消し去ることができない。ジェラルドを想いながら他の人と結婚するなんて、とても耐えられそうになかった。
(やっぱり私は文官の道を目指そう。結婚なんてしなくていい……)
そう思っていたのに、ドミニクとの婚約が解消されたわずか一週間後、どこで噂を聞きつけたのか、クリスティーナに新たな婚約の申し入れがあった。
だがクリスティーナは相手の名前も聞かずに断った。
「誰なのかくらい、聞いておかなくていいのかい……?」
父におずおずと尋ねられたが、クリスティーナは首を横に振った。相手が誰であろうと、婚約を結ぶつもりはなかった。
結婚よりも文官を目指したいのだと告げると、父はクリスティーナの気持ちを尊重してくれた。
そして、
「実を言うとパパも、この方はとてもじゃないけどエイベル家の家風には合わないなぁと思ってたんだよね! 前の時は断り切れずにティナちゃんに辛い思いをさせちゃったけど、今度はパパ、命に代えてもお断りしてくるから!」
と、大袈裟すぎるほどに気合いを入れていた。
文官になりたい。
そしてジェラルドとの約束を果たしたい。
今やその気持ちだけがクリスティーナを支えていた。
その目標のために、事件から数日後には勉強を再開した。
それでも、ふとした拍子にジェラルドのことを思っては、本をめくる手が止まってしまう。
思い出すのはあの事件の日のこと。黒装束の人に助け出された後、一度意識が戻ったときに、ジェラルドが側にいてくれたような気がするのだ。
(……そんなことあるわけない、よね。お忙しい殿下が、一度夜会で踊っただけの私を心配して駆けつけて下さるなんて……)
きっと、願望が見せた夢に違いない。
ああでも、とクリスティーナは目を伏せる。
(本当はあの夜会が初めてじゃなかったんだ。殿下とはずっと昔にお会いしていたのに、私、すっかり忘れていて……)
なのに、ジェラルドはずっとあの約束を覚えていてくれたのだ。そして約束を果たすため、女性に文官への道を開こうとしている。
それを思うたび、クリスティーナの胸はじんと熱くなり、そして切なさでいっぱいになる。
(あの約束を果たしたい。隣に立つことは叶わなくても、せめて遠くから殿下を――)
そこまで考えて、クリスティーナは首を振った。
そんな気持ちでは駄目だと、自分に言い聞かせる。もしクリスティーナが文官になれるとしても、その時ジェラルドの隣には婚約者が寄り添っているはずだ。恋心を抱えたままではきっと辛すぎるし、仕事にも支障が出るに違いない。
(殿下への想いを消すことができないなら、せめて心の奥深くに隠すのよ。私自身を騙してでも。きっと、できる。替え玉をしていたときだって、ちゃんとできていたんだから――)
その時、忙しないノックの音が響き、クリスティーナの思考は中断された。
「てぃ、ティナちゃん大変だよぉ……!」
青褪めてプルプルと震えながら転がり込んできた父に、クリスティーナは目を瞬いた。父が顔を青くしているのは珍しくもなんともないが、取り乱し方がいつもより酷い気がする。
「お父様、何かあったのですか?」
「おおおお客様、ティナちゃんにお客様が……」
「落ち着いて下さい、お父様。お客様って?」
「この前、婚約の申し入れをして来られた方が」
「あの話はお断りして下さったのでしょう?」
「そうなんだけど、パパ、勇気を出してきっぱりはっきり断ったんだけど、どうしてもティナちゃん本人と話をしたいって、そうじゃなきゃ諦めがつかないって……。ど、どうしよう〜!」
「まぁ」
父は涙目で、情けなく眉を下げている。反対に、クリスティーナはきゅっと眉を釣り上げた。
(正式にお断りしたのに強引に押しかけて来るなんて、なんて諦めの悪い方なのかしら)
それにクリスティーナは今、人生最初で最後の恋の弔いに浸っている真っ最中。他の男性が割り込む隙間なんかないのだ。邪魔しないでほしい。
目に力を込め、クリスティーナは父に向き直った。
「お父様。その方は、もし私がお断りしたら怒りに任せて無体を働く可能性があるような方ですか?」
「いや、それは絶対にないと断言できるけど……」
「でしたら私、その方とお会いします。お会いして、はっきりとお断りして参ります!」
「ティナちゃん……! 不甲斐ないパパを許して〜……」
縋りつくような父の声を背に、クリスティーナは自室を出た。ピンと背筋を伸ばし、廊下を早足に進む。
父の口ぶりや狼狽えようから察するに、どうやらかなり格上で、断りづらい相手らしい。だが、誰が来ようとも怯むつもりはなかった。直に断れば諦めると言うなら、そうするまでだ。
わずかな期間ではあったけれど、王太子補佐官として、国の上層部や上位貴族の面々とも接する機会があった。その経験のおかげで、クリスティーナは少しばかり度胸を身につけることができたのだ。
応接室の前で一度深呼吸してから、扉をノックする。
「失礼致します」
部屋に入るとすぐさま、非の打ち所がないほどに美しい淑女の礼を披露した。
「エイベル家が長女、クリスティーナでございます」
隙を見せないよう慎重な動きで顔を上げたクリスティーナは、その途端、目を見開いて固まった。
(これは、夢……?)
想像もしていなかった人の姿がそこにあった。
小さな庭園を臨む窓際に佇む、背の高い青年。
窓から差し込む光を浴びて、黒鉄色の髪がきらきらと輝く。
振り返ったエメラルドの瞳が、クリスティーナを捉えてやわらかく細められた。
「久しいな、クリス」
そこにいたのはクリスティーナの元主、王太子ジェラルドその人であった。




