1 王太子補佐官クリス
王宮内の応接室で、小さなお茶会が開かれていた。
円卓を囲むのは二人の若い男女。
流行りのデイドレスで着飾った侯爵家の令嬢が、うふふと上品な、けれどどこか浮き足立った笑い声を上げる。
その熱っぽい視線の先の青年を、クリスもまた、給仕の女官と並んで壁際に控えながら、熱心に見つめていた。
クリスの主である王太子ジェラルド。
黒鉄色のさらりとした髪に、エメラルドのように煌めく緑色の瞳。芸術品のように整った顔には、これまた整った笑みが浮かんでいる。
それが社交用のものであると令嬢に気づかせないほどに柔らかな笑みは、そうと知っているクリスから見ても、ドキリとするほど魅力的だった。
(あぁ、殿下は今日も素敵でいらっしゃるなぁ。好き……)
思わずうっとりと漏れ出そうになった吐息を、慌ててむぐっと飲み込む。
(違う違う-! いや違わないけど好きだけど!)
ジタバタとした内心のやり取りは、クリスが王太子ジェラルドの補佐官になった四ヵ月前から幾度となく繰り返されてきた。
そう。登城初日、初めてジェラルドにお目見えし、
『君がクリストファー・エイベルか。会えるのを楽しみにしていた。今日からよろしく頼む』
と、眩しい笑顔で手を差し出されたときから、それはもう飽きるほどに。
(でもこれは、あくまでも尊敬の『好き』だから!)
飽きもせずいつものように締めくくり、クリスは意識を目の前の仕事に集中させる。
王太子ジェラルドと婚約者候補の令嬢達とのお見合いを恙無く運営し、婚約者選びを補佐すること。
それが王太子補佐官クリストファー・エイベルの仕事なのだ。
*
「殿下、お疲れさまでした」
「ああ、ありがとう」
淹れたてのコーヒーをジェラルドの前に置くと、お茶会のときとは違う、寛いだ笑みが返ってきた。
(あっ好き。……じゃなくて!)
お決まりの葛藤を心の奥底にぐっと押し込め、クリスは澄ました顔でジェラルドの向かいのソファに腰をおろした。
二人はお茶会を終えて王太子の執務室に引き上げてきたところである。これから休憩を兼ねた打合せなのだ。
ジェラルドはコーヒーカップに口をつけ、一口飲んでから「うん、美味い」と満足げに息を吐いた。
「クリスの淹れてくれるコーヒーは、日に日に美味くなるな」
「光栄です」
(よしっ! お父様相手に練習しまくった甲斐があった!)
心の中で拳を握る。『パパ、もうお腹たぷんたぷんだよぉ……』などと泣き言を言う父親を『まだまだいけます! さあもう一杯!』と叱咤激励しながら毎日何杯も家でコーヒーを淹れ続けたのが報われたようだ。
にんまりしそうになる口元を、コーヒーを飲んで誤魔化す。美味しい。
元々家では紅茶ばかりだったから、王太子殿下の執務室に通うようになって初めてコーヒーを口にしたときは苦さに面食らったものだ。けれどその香りと味が癖になるのに時間はかからなかった。甘いお菓子に合うのも良い。
「ああ、そうだ。お茶会用のお菓子の余りを貰ってきたぞ。クリスが好きそうだと思ってな」
タイミング良く差し出された包みを開き、クリスは顔を輝かせた。
「わぁ、カヌレですね! 僕、これ大好きなんです!」
「たくさんあるから、姉君にもお土産に持ち帰るといい」
「ありがとうございます! 姉も――クリスティーナも喜びます」
甘いお菓子はクリストファーと双子の姉クリスティーナ、二人の大好物なのだ。
それをジェラルドの前で口にしたことは一度しかないはずなのに、ちゃんと覚えていて時折こうして気遣ってくれるのが嬉しい。
「クリス、見合いお茶会はあと何回だ?」
「先ほどのイライザ様で五人目ですから、残り二十一回ですね」
「そうか、先は長いな……」
ふぅ、とジェラルドが遠い目になった。
『半年以内に婚約者を選定せよ』
王太子ジェラルドに父親である国王陛下から厳命が下ったのは、二ヵ月ほど前のことだった。
眉目秀麗、文武両道、おまけに性格良し。高位貴族から庶民まで、老若男女に大人気の王太子ジェラルドには、御年二十歳でありながら婚約者がいなかった。
これといった格別の事情があったわけではない。国が安定しているがゆえに、早急に婚約者を定める必要がなかったというだけのことではあったのだが、それにしても王族としては遅すぎる。
本人曰く、『仕事にかまけてつい』後回しになっていたのだそうだが、父王や年頃の娘を持つ上位貴族達がしびれを切らしたのも無理はないと、クリスは思う。
婚約者選びのサポート業務は、新人補佐官のクリスが担当することになった。
『貴族階級に属する未婚の令嬢で、婚約者のいない者をリストアップしてほしい。年齢は、そうだな、十五歳から二十五歳までとしよう』
主の指示でリストアップした令嬢は、公爵家から男爵家まで総勢二十六名。
ジェラルドはその二十六名全員と、一対一のお茶会を開くことを決めた。
候補となる令嬢の家の当主にお茶会参加の意志を確認し、日程を調整する。お茶会会場の設営を指示し、当日は立ち会ってその様子を記録に残す。
それがクリスの役割だ。
すでに五回、ジェラルドと令嬢達とのお茶会に立ち会ってきた。
美しく着飾り、熱のこもった眼差しをジェラルドに向ける令嬢達を間近に見てきた。
羨ましい。
その気持ちだけは、心の中ですらはっきりとした言葉にしないよう、クリスは細心の注意を払っている。
(だって、ありえない。今の私は……いや僕は、エイベル子爵家長男にして王太子補佐官、クリストファー・エイベルなんだから)
実はそれが偽りの姿で、双子の姉クリスティーナ・エイベルが男装した姿だということは、決して気づかれてはならないのだから――。