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古い夢の名残

作者: 小野遠里

 雨は降ってなかった。

 なのに、びしょ濡れだ。降ってる。いつから降ってるのだろう? 意識が飛んでいたようで、何も思い出せない。歩いている。いつからだろう、思い出せない。

 故郷の国に帰る。桃の種を持って。桃源郷の桃だ。

 また方向がわからなくなってきた。

 再び意識が飛んだ。


 身体から自由になって、やっと考えられるようになった。また故郷を探して、方向を見定め、身体に戻らねばならない

 前世の記憶が蘇る。

 前世で鳥だった所為か、空を行くのは得意だ。輪廻世界に於いて、鳥に生まれるというのはご褒美なのかも知れない。前々世で頑張ったから鳥になれた。気楽に飛び回っていたら、今世はこの有様だ。休暇がおわって勤めに復帰するようなものか。今世で苦労したから、来世は楽だ。来世では装身具を作る職人になっている。家業で、しかも腕がいいから、気儘に仕事をしていても、結構優雅に暮らしていけてる。しかし何故来世のことまで思い出せるのか。途中までだが、思い出せるのは、そうだ、死んだからだ。桃源郷から桃を盗んで逃げ出して、一歩一歩、歩く毎に衰えて、とうとう死んでしまった。そして来世に生まれかわり、次の時代を生きている。

 では自分はなんなのだろう。生まれ変わった来世から取り残され、死んだ身体にこだわっている。


 始まりは姫君の婿選びだった。

 姫が十六歳の誕生日に国の内外に婿を求めたのだ。求婚者には課題が与えられ、それを成し遂げた者に初めて権利が与えられる方式だった。抽選であればよかったが、課題は王の意で決められたから、結果は予め決まっているようなものだった。

 自分もまた求婚者のひとりで、与えられた課題は不可能としかいえないものになった。桃源郷に行って、桃の種を持って帰れと云うのである。

 桃源郷なんて何処にあるかわからない。そもそも、あるかもどうかもわからない。もし万が一見つかったとしても、何しろ桃源郷である。帰る気になれるかどうか。

 旅立つ意味を見つけられないが、それでも、旅立たないわけにもいかなかった。

 こんな田舎で暮らすより世界をさすらう方が面白いかもしれないし、桃源郷を探すと云う一応の目的もある、いっそ旅立ってしまえと考えることにした。

 しかし、心の片隅には、桃源郷から桃の種を取って帰ってきてやるぞと、不可能とわかっている夢を抱えてもいた。


 六年ほどが経って、桃源郷に辿り着いた。

 それほど必死に探していたわけではなかった。噂を頼りにうろうろと歩き回った果てに、雪の山道で滑落して、滑り落ちた先にあったのが桃源郷の入り口だった

 こんなに簡単に見つかっていいものかと呆れたが、桃源郷とはそういうもので、探さなければ見つからないが、必死で探したから見つかるものでもなく、運命に導かれるものであるらしい。

 早速に桃を求めたが、ここの桃の木は二十九年に一度しか実をつけないそうである。しかし運よく五年後に実がなるから、それまでのんびり待てば良いという。

 なに、ここは桃源郷である、十年でも百年でも、時を過ごすのに苦労はない。楽しいことしかない場所なのだ。

 食べ物は美味いものばかりで、住人は若い美男美女ばかり。子供はいない。ここでは誰も歳を取らないので、子供は生まれないし、子供はこの国に入れないのだ。

 この世の者とは思えないほどに美しい娘と五年暮らした。故国の姫様もこの娘と比べれば不細工な田舎娘に過ぎない。国を出て十年になる。桃源郷を出て故国に帰らねばならない理由など何も思い浮かばなかった。


 しかし、ある時、故郷の街に帰ることになった。

 この世界にここより住みやすい郷はなく、この娘より美しく優しい娘はいない。

 国の姫様はもう何処かの馬の骨と結婚しているに違いない。家族も親戚も友人たちも、もう自分のことは忘れているだろう。なのになぜ帰るのか、娘は不思議がった。もう会えないのに。一度、ここを出ると二度と戻れないのに。

 わかっていた。

 古い夢が忘れられないのだ。

 若かった頃の、故郷を出る時の、あの不可能を成し遂げてやろう、と思った夢を。

 忘れられるものならば、ここで暮らしていける。

 しかし、あの古い夢を心に残したまま、ここでずっと平穏に生きることは出来ないとわかっていた。心が、古傷のような古い夢に徐々に蝕まれていく、そんな恐怖に囚われるのだ。


 桃と種は持ち出していけないと言われていたから、桃をふたつ、桃の種をいくつか隠し持って、桃源郷を抜け出した。

 季節は春、時は夜であった。

 何昼夜か歩くうちに、桃源郷から離れるにつれて、体が徐々に弱ってきた。持ってきた桃を食べると、暫くの間回復するが、また徐々に弱っていく。二つの桃を食べ尽くすと、後は衰える一方で、動くことさえままならない。それでも、何とか歩き続けた。

 その間に、ついに死んでしまったに違いない。それでも歩き続けた。もう食べることも寝ることもない。歩き続けるばかりだった。


 死んだ身体に鞭打っているのは自分である。時に身体に戻って方向を教え、歩く事を強要し、時に空を飛んで故郷を探しにいった。

 魂はもう次の世に旅立ってしまった。ここには死んだ身体と自分しかいない。

 自分とは何なのか?

 多分、古い夢なのだろう。

 もう、全てが終わってしまったと云うのに、忘れられずに足掻き続けている古い夢なのだろう。


 ようやく城壁の入り口に辿り着いた。

 開かれた城の門をくぐる前に、手に、王からの課題の命令書を持たせる。世界のほとんどの場所の関所を通ることのできる資格書であった。自分が何者であるかを知らしめねばならない。そして、もう一方の手には、桃の種を手にしっかりと握らせる。桃の種こそが夢の象徴的なものであるから、人々にその存在を気付いて貰わねばならないのだ。遺骸と共に焼かれたりすれば何のための苦労だったかわからなくなる。


 城門を抜ける。

 周りで人々が集まって騒いでいる。

 見るからに死体とわかる男がよろよろと歩いているのだから、人々が恐ろしげに遠巻きに見ているのも無理はない。

 やがて、役人が十人ほども走ってくる。

 それを待って倒れた。

 これでいい。これ以上は意味のないパフォーマンスと云うものだろう。

 遺骸は王宮の前に運ばれ、遠くから王の検分を受け、英雄のように、国を挙げての葬儀が行われ、墓地に大層立派な碑文とともに葬られた。


 桃の種は王宮の庭の一番良い場所に植えられた。

 桃源郷の桃であるから、それはそれは大事に育てられ、芽が出て、育ち、やがて立派な木になったが、花は咲かず、実はならなかった。桃源郷の桃が実をつけるのには時間がかかるのである。

 二十八年が経ち、ついに来年には花が咲き、実がなるであろうというその時になって、待てど暮らせど、花も咲かず実もならない木に飽きて、人々は桃の木を切ってしまった。

 同時に、あれは桃源郷の桃ではなかったと決めつけられて、碑文も撤去されてしまった。


 古い夢は、結局実を結ばないままに、消え去った。


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