深夜、ドライブ
運転中の彼が聞いているのは、いつもラジオだった。
彼と付き合い始めてから、もう三年ほどになるけれど、彼が車でCDやスマホのプレイリストを流したことは、ほとんど数えるほどしかない。
理由を聞くと、彼はこう答えた。
「ラジオって新しい曲も古い曲も、おかまいなしに流れてくるよね。時々、その中に、すごくいいなって思える曲があったりすると、なんだか嬉しくならない?」
私は、お気に入りの曲だけをずっと聞いているほうが好みだったが、今では彼と同じく、ラジオを聞いている方が好きになっていた。
もちろん今も、車内に流れているのはラジオの曲だ。
夜のドライブに出てから、かれこれ一時間あまり。知ってる曲、知らない曲、ポップスもクラシックも、みんなごちゃまぜにして、ラジオは素敵な音楽を届けてくれている。私たちは、ただ黙ってラジオの声に耳を傾ける。
もちろん、「ねえ。これって、あのお店で聞いた曲だよね?」なんて話しかければ、きっと彼は応えてくれるだろう。でも私は、今の沈黙の方がずっと好きだ。街の灯が流れる中を、二人っきりで過ごす車内の時間は、なにものにもかえられない。
ところが、遠くに検問の灯火が見えた。たぶん、飲酒運転の取り締まりだろう。
もちろん、私たちに後ろめたいところは一つもない。それでも、いや、それだからこそ、私と彼の時間を邪魔されるのは、理不尽だと思えてしまうのだ。
「次の信号を右ね」
私が言うと、彼はハンドルを切った。一方通行で、車一台がギリギリ通れるくらいの細い路地だ。
しばらく進むと川沿いの少し広い道路に出て、それは片側二車線の大きな道に繋がった。赤信号を一つ待ってから、丁字路を右折して合流する。すぐに青い逆三角の標識があって、これが国道であるとわかった。
知っている道に出られて安心したのか、彼は小さくため息をついた。
私は彼に気付かれないよう、こっそり笑う。彼には、ちょっとだけ臆病なところがあるのだ。もちろん、私はそれを欠点だとは思っていない。むしろ度胸があるところを見せびらかす男よりも、ずっと好ましく感じる。
ふと、エンジンの音が変わった。どうやら私たちは、すこし急な坂を昇っているようだ。前方に目をやると、坂のてっぺんまで続くギラギラした道路灯の列が見えた。さらに進むと傾斜は緩やかになって、彼は車を右車線に乗せた。まもなく車線は直進と右折専用レーンに分かれ、私たちは交差点を右折して対向二車線のやや狭い道路に入る。
右手は山が迫っており、古びた住宅が傾斜が比較的ゆるい場所へ、ぎゅうぎゅうに押し詰められて建っていた。左手は谷になっているせいで、建物は少ない。
ラジオからは、MCの陽気な声が流れていた。若いアーティストが、ハガキやSNSの投稿で届けられた悩み事などに、薄っぺらいアドバイスやコメントを付けてから、時々リクエスト曲を流す。そんな番組だ。
右手の集落はいつの間にか途切れ、今は真っ暗な山腹に変わっている。道は大きくカーブを描き、それが終わると先にトンネルの入り口が見えた。中はオレンジ色の光がいっぱいで、なんとなく巨大な生き物の口のように見える。
トンネルの手前にはわき道があって、連なる道路灯を目で追い掛けると、それはトンネルの上をつづら折りに登っていた。たぶん、トンネルが作られる前に使われていた、山越えの道なのだろう。
「左にも道があるみたい。行ってみる?」
ラジオの電波が途切れるのも嫌だったので、私はそう提案した。彼はすぐにハンドルを切って、私が示した道に車を乗り入れた。
車は坂をどんどん登る。峠を越えると道路灯はいつの間にか途切れ、外の灯りはヘッドライトだけになった。その光源が照らす狭い範囲を見る限り、道の左右には大きな杉の木が立ち並ぶばかりで、人の生活の気配はない。
しばらく進んだところで、彼は車を停めた。そうして、エンジンをかけっぱなしにしたまま、運転席を降りる。
なにか、トラブルだろうか。
不思議に思っていると、彼は後部座席の左側ドアを開き、折りたたんだシートの上に置いてあった大きなスーツケースを、引っ張り出そうと格闘を始める。私は手伝おうかと声を掛けるが、彼は何も答えてくれなかった。
一分ほど経って、彼はようやくスーツケースを車から降ろし、それを道路の端に置いた。そこはガードレールの切れ目になっていて、先は下りの急な斜面だった。
「それ、どうするの?」
私が聞くと、彼はスーツケースを両手でぐいと押した。スーツケースは斜面を転げ、真っ暗闇の向こうに消えて行った。スーツケースが転げて行った方角から、パキパキ、ザザザー、ドスンと音が聞こえ、あとはラジオの声ばかりになった。
彼はきょろきょろと辺りを見回し、慌てた様子で運転席に乗り込んだ。
もちろん、彼がやったのは不法投棄と言う明らかな犯罪行為だ。しかし、それをとがめようとしたところで、彼はシフトレバーを乱暴に動かしDへ入れた。
私は急いで言った。
「シートベルト」
彼は、はっと息を飲んで、わたわたとシートベルトを装着した。
まあ、この件については、帰宅してから相談することにしよう。彼が反省して、あのスーツケースを回収することになったとしても、こんな真っ暗闇の中では探し出すことなどほとんど不可能だ。
彼は再びハンドルを握り、アクセルを踏み込む。しかし、エンジンがうなるばかりで、車はちっとも動かない。
私はちょっとあきれながら、彼の間違いを指摘した。
「サイドブレーキ、忘れてる」
彼は足元のペダルを操作して、サイドブレーキを外した。途端に車は急発進する。正面は急カーブで、ガードレールが迫って来た。衝撃があって、エアバッグが開く。ガードレールに弾かれた車は道路の反対側まで飛ばされ、法面に突っ込んでからようやく止まった。
こんな山奥で事故だなんて、本当についてない。とにかく救急車を呼ばなきゃ――と思ったところで、私は自分のスマホが、あのスーツケースの中にあることを思い出す。
仕方がない。こうなったら、誰かが通りかかるのを待つばかりだ。幸い、ラジオはまだ生きていたから、たぶん退屈はしないだろう。
*
通報者は、現場近くに住む無職の男性だった。明け方に、日課である犬の散歩をしていると、道を塞ぐようにして止まった乗用車を発見したのだ。すぐに消防と警察が駆け付け、車内から男性一名を救助する。彼は重傷を負っていたが、幸い命に別状はなかった。
しかし、警察は現場からほど近い場所に、真新しいスーツケースを発見する。中にあったのは、死亡して間もない女性の死体だった。警察は死体遺棄事件として捜査を始め、まもなくスーツケースから採取された指紋が、救助された男性のものと一致することが判明する。
一転して、死体遺棄の容疑者となった男性は、警察の取り調べに対して奇妙なことを語った。
「ラジオから声が聞こえたんです。右だとか、左だとか。まるでナビするみたいに。今ならそれがバカなことだとわかりますが、その時はとにかく死体をどうにかしたい一心で、言われる通り車を走らせました。けど、あの場所にたどり着いて、急に気付いてしまったんです。ラジオの声は、あの女の声でした。ひょっとしたら、彼女はまだ生きていて、スーツケースの中から話しかけてきてるんじゃないかと疑いました。だからと言って、開けて中身を確かめるのも恐ろしくて、俺は急いでスーツケースを崖下に投げ落としました。それなのに、声はやっぱり聞こえるんです。だから、あの女はスーツケースの中からじゃなく、ラジオから話しかけているんだとわかりました。でも、そうだとしたら、まったく変な話なんです。だって、そうでしょ。彼女はずっと、自分の死体を棄てる手伝いをしていたことになるんですよ?」
容疑者が信じるように、ラジオから聞こえた声が被害者の女性のものだったとして、もはや彼女が何を考えていたかなど、知る由もない。しかし、もう一度ラジオをつけたなら、あるいはその理由も語ってくれるのだろうか。