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ep90.切れてないですよ

目標:錫食い鉱を王都に納品しろ

「……えっ?」


 鋭い針で刺されたような痛みを発した指先には、確かに血が浮いていた。ぷるんと赤い玉になって浮いている血は、間違いなく指の切り傷から滲んだものだろう。

 だというのに、肝心の切り傷がどこにも見当たらなかった。ナイフを握った手で自分の指先を触って確かめるが、赤い血が伸ばされたあとにはつるりとした指の皮膚が残るだけで、どこにも切れた様子などなかった。

 確かに今切ったと思ったんだけどな、と俺はその後も手首を返したりして自分の人差し指を眺めるが、ついぞ傷らしい傷は認められなかった。

 血は出ていたのにどうしてだろう。まさか一瞬だけ切れて、そのまま傷が塞がったとでも言うのだろうか?


「……あ、あの……大丈夫、です、か……?」

「えっ、あ、すいません。大丈夫です、切ったと思ったんですけど、勘違いだったみたいで」


 がさついた低い男の声に俺は慌ててかぶりを振る。というか、そもそも売り物のナイフで指を切るなんて不注意すぎる。美しい銀色の刃には俺の指紋がくっきりと残っていて、軽率に指で触れないほうがよかったと反省した。

 そのまま机の上に戻すのも、なんだか冷やかしているようで気まずい。

 それに、あれだけ態度の悪かった店主が手を切ったと思った俺を心配してくれるとは思わなかった。客商売か苦手なのか、はたまた俺をしっかり客と認めてくれたのかというのはわからなかったが、ともかく。

 せっかくだし、と思って俺は見栄を張って聞いてみた。


「あの、これ幾らですか?」

「……!」


 俯いているフードの頭が、軽く揺らいだ気がした。

 むしろ顔を背けているのかと思うほど顔を上げない店主が、紙袋を擦り合わせるような聞き取りにくい声で呟く。


「……ディジオ銀貨、三十五枚、です」


 ディジオ銀貨って言うと、国内よりちょっと相場の高い外貨のことだったな。

 ケーニッテ銀貨が千円から二千円だとして、それより二割ほど高価なのがディジオ銀貨のはずだ。


 それを三十五枚ってなると……咄嗟の掛け算ができなくて、俺は「なるほど……」なんて意味深に呟いて時間を稼ぐ。

 もしかしてぼったくられてるのか、なんて思いつつ頭の中で四桁と二桁の掛け算を行う俺に、店主が何事かをしわがれた声で低く紡ぐ。


「……やっぱり……高い、ですよね」

「えっ……い、いや、そんな言うほどではないと思いますけど……」


 しょぼくれるようなトーンだったので思わずフォローしてしまったが、どうして客がそんなことを言わないといけないんだという思いもあった。


 高く設定しすぎたというなら下げればいいだろうに、同情を誘っているのかなんなのかいまいち真意が読めなくて不気味だった俺は、ちらりと他の商品も見る。

 そこで、刃物とヤスリともつかぬ見慣れぬものを見つけた。迷いなく手に取って、聞いてみる。


「すいません、こっちは……これは何に使うんですか?」


 手に取ったのは、短めのナイフと鎖でひとつながりにされた十五センチほどの鉄棒だった。俺の小指ほどのサイズのナイフと、まるでアイスキャンディーのような円柱形をした金属の棒が木製の柄の尻に空いた穴からチェーンを通されてセットになっていた。

 呼ばれて反射的に顔を上げた店主は、ちらりと俺の手元を見るのが分かった。俺がぎょっとしたのは、その顔が明らかになったからではない。


 依然として頭部は深く被ったフードで陰になって見えなかったが、にゅっと突き出たマズルを見咎めた俺は店主がなんらかの獣人であることを察した。

 しかもそれが、見知ったネコ科のそれと違うぼこぼことした鱗の肌となれば、俺が驚くのも仕方のないことだった。

 哺乳類というよりは明らかに爬虫類じみた顔のパーツはとてもじゃないが同じ知的生命体の持つ口とは思えなくて、咄嗟に湧き出した差別的な嫌悪を押し殺すのに苦労する。


 店を構えているというのに陰気そうに俯いているのは顔を隠しているからなのだろうか。自分の差別意識を肯定するわけではないが、そう考えるとその佇まいには説明がつくようであった。

 俺が持つものを確認した鱗の店主が、再び足元に視線を落としてぼそぼそと答える。


「……ひ、火打ち棒、です」

「ひうち……棒? 火を起こす道具なんですか?」


 はて、これまでの野営でこんな道具を見たことがあったかと記憶を探るが、虎が火を起こす際に手にしていたのは石ころのような火打石だけで、こういったものは使っていなかった気がする。

 やけに握りやすいすべやかな木のグリップを手に、もう片方の手でぶら下がるナイフを持つ。円柱型の鉄の棒は表面がヤスリのようにざらつきつつ、タイヤのゴムを思わせる色味をしていた。

 火打ち石なら聞いたことがあるが、火打ち棒となると初耳である。はたしてこの翻訳は正しいのだろうかと耳と首にぶら下がる黒石の機能を心配しつつ、火打ちというからにはこれで火打ち石代わりにするということなのだろうかと両手に持ったそれをしげしげと眺める。


「……ひょ、表面を……擦ってみてくださ、い」


 ぼそぼそと言われるがままに、俺は輪になった鎖で連結しているナイフと金棒を両手に持って、金棒を削ぐようにこすり合わせた。

 ジャッ、と思いのほか重厚な音がすると、手元で一瞬だけばちばちっと日中でもわかるほどに火花が弾けて驚いてしまう。


「う、うわッ……?!」


 まったく力を入れていないし、硬い金属の棒は何も削れた様子がない。

 しかし、こすり合わせた瞬間は目に見えるほど火花が散っていて、今の火花を火口に移せれば簡単に火起こしができそうだった。

 素人でもこんなに簡単に火打ちができるとは思えなくて、この道具がどれほど優れてるのかが窺い知れるようで思わず感心する。


「……燃えやすい、特性の合金、を……使って、ます。鉄にするには……柔らかくて、使えないっていうセル石から……抽出した、銀白の鋼は、すぐに酸化しちゃうので……それ、を防ぐ……ために、硬度と……あと発火性を……両立させて……地金と混ぜ合わせた、自慢の、一本、です」


 マズルを動かしてかすれた声を発する店主は、どうやら商品の説明をしているようだった。

 大半は聞き取りづらく、何と言っているのかわからないほどの声量だったし、金属に燃えやすいも燃えにくいもあるのかといまいちイメージが湧かなかったが、しかし今手元で起きた現象は現実だ。

 火起こしは傍で見ているばかりだったが、これがあれば火を起こすのが自分にもできそうな気がする。

 それに、苦労して石を打ち付けていた虎もこの利便性には驚くはずだ。


「この……火打ち棒でしたっけ、いくらですか?」


 聞かれた店主は、しかしびくりと肩を跳ねさせると露骨にそっぽを向いた。それで、気まずそうに口にする。


「…………でぃ、ディジオ銀貨、九十枚、です」

「きゅうじゅッ……?!」


 そんな高いのか、と目の前で驚くのはなんとなく申し訳ない気がして、俺は店主から目を逸らし商品に目を向けて平静を取り繕った。

 これ、やっぱりぼったくられてるんだよな? と疑念が首をもたげるのと同じくして、こんな金属の棒にそんな価値があるとは思えないとひねくれた心が騒ぎ出す。


 それに、いくら便利そうな道具とはいえただ火花を散らすだけの鉄の棒なんてほかにいくらでもあるはずだ。ナイフだって同じだ、何もこんな店で買わずともいいじゃないか。

 そう思うのは山々だった。本当にこんなものが必要だろうか。死ぬ思いをして稼いだ金を、こんなぼったくりにくれてやる必要はない。


 その理屈は理解できる、正当なものだ。しかし、それを欲しいと思う欲望は理屈では納得させられない。

 それに、オルドはこう言っていた。買い物の基本は、相手の言い値から値引くべし、と。

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