ep79.虎の尾を踏まないように
目標:???
「えー、っと……いや、それほどでは……」
言葉を濁す俺は、視線を逃がすように部屋の入口に目を向ける。窓際のベッドに寝る俺からは、扉の様子がよく見えた。
それから、ドアを隔てた先から床板が重々しく軋むのに気づく。
もしかしたら、知覚できていなかったがその気配を感じ取ったから入り口に目を向けたのかもしれなかった。
部屋の扉が、あちこちが汚れたブーツを履いた大きな足に押し開かれる。
「何言ってやがる、身の程知らずのバカを不安に思うのは当然だろォが」
俺の代わりにイレイネに反論しながら、巨漢の虎獣人が見慣れぬ綿服とポケット付きのズボンを召した姿でのしのしと部屋に入ってきた。
ベッドの脇に立っていたイレイネはその言葉に反応するでもなく軽く頭を下げる。侍女さながらに窓際に立って脇の椅子を虎に差し出すと、オルドはまるで当然のようにそこに腰かけて「悪ィな」とだけ言った。
何か歩き方に違和感があるな、と思う俺を無視して、窓側の壁を背もたれにふんぞり返って座りながらだらんとした両腕を脚の間からぶら下げる虎にイレイネが尋ねる。
「オルド様、ギルドの方との話し合いはいかがでしたか?」
「概ね予想通りだな。大百足の使い道によっちゃ更に実入りが増えるだろうが、魔石の含有確率と含めて計算にもう少し掛かりそう、だと。……それより、起きたのか。お前」
立ったままのイレイネに淡々と報告を上げたオルドが、起き上がっている俺をじろりと一瞥する。
話には聞いていたが、衣服以外は変わりなさそうな虎の姿に俺が安心する暇もなく、責めるような、あるいは睨むような視線を向けられて言葉を詰まらせた。頭と胸に巻かれた包帯をやけにきつく感じる。
「あー、うん……お、おはよう……」
曖昧に返事をすると、そのまま重い沈黙が流れて、オルドがはぁっと溜め息を吐いた。
それから「イレイネ、いいか?」とだけ言うと、仕事のできそうな女性はそれだけで察したらしくまるでメイドのように頭を下げて部屋を後にした。
「私は第三鉱山におりますので、何かあればお訪ねください。それでは」
それだけ言い残して、ばたん、と扉が閉まる。
ベッドに座る俺を、虎はふんぞり返ったままじっと見下ろしていた。
太い眉を寄せたその表情は怒っているのか、あるいは機嫌が悪いのかという具合で、勝つためとはいえ勝手なことをした俺を許していないのだろうなとなんとなく想像がついた。
このまま黙ってると本当に叱られそうで気まずくて、俺は気になっていたことを聞いて時間稼ぎを図る。
「えっと、服、新しくしたんだな」
「……おう」
オルドはいつも見慣れていた首の広い綿服から、前開きのシャツを胡桃か何かの木の実の殻を使ったボタンで留めた襟の無いワイシャツのようなものを着ていた。
濃い灰色のそれはこれまでに着ているところを見たことがないもので、腰に結んだ帯でウエストを締めるズボンも土埃のようなカーキ色のこれまでとは違うものを穿いていて、外に張り出したつぎはぎのポケットは見当たらなかった。
記憶にある限り、坑道内で戦っていた虎の服はそこまで汚れていなかったはずだが、洗濯するにしろ新しい服に着替えていても何も不思議なことではないだろう。
あるいは、俺が意識を失っている間に崩落に巻き込まれて汚れたのかもしれないが、さておき。
不機嫌そうな虎はそれでも返事はしてくれるようだった。
よかった、そこまで怒ってはないみたいだ。俺は引き続きコミュニケーションを計る。
「俺も、せっかく買ったのにボロボロになっちゃったんだよな。あとで新調しに行かないと」
「おう」
虎の座る反対側、ベッドに挟まれるように設置されたサイドテーブルに脇腹に繕い痕が目立つ深緑のシャツが置いてあって、それが俺の着ていた服だというのはすぐにわかった。
どうやら洗濯されて繕われたようだが、血の沁みが落ち切っていないそれは面積の半分を汚らしく濁らせていて、脇からすっぱりと裂かれたスリットを無理やりつなぎ合わせたために全体的なシルエットが片寄っているのも気になった。
替えのシャツが荷物の中にあるにはあるが、今の俺はあの化学繊維の純白のシャツがどれほどこの世界で異質なのかはよくわかる。
洗ってあるなら、それを着てマントでも羽織っておけばいいか……と俺は視線を移す。
壁に凭れて座る虎の返事は依然変わらなくて、恐る恐る目を向けた。
だらんと垂れた両腕を包む真新しいシャツ、その先の手を覆う穴開きの手袋。
心臓の拍動と同じ間隔で痛みを発する包帯の下の両手に、今後は同じような手袋を装備しておけばこんなふうに擦って生皮が剥けることもないかなぁなんて考えていた俺は、ようやくそれに気づいた。
部屋に入ってきた時といい、股の間にだらんと垂らした両腕がほとんど動いていないことを。
「腕、動かないのか?」
「……おう」
「そっ……それ、戻るんだよな……?!」
「おう」
魔法の代償、その反動で虎は腕が動かなくなるかもしれないと言っていたことを思い出す。
ただそれは、数時間程度と聞いていたのに丸二日ほど経ったという今なお動かないのはどういうことなのだろうか。
もしかして一生そのままなのかと思って慌てて尋ねた俺に戻ってきた短い返事が本当のことを言っているかどうかは怪しかったが、一生モノにしてはこの虎からはまだ余裕を感じられたので、おそらく嘘ではないのだろう。
それならよかった、とばかりに息を漏らす俺を、虎がちらりと見た……気がした。




