ep51.不潔な冒険者は存在しない
目標:鉱山の町へ向かえ
ところで、二日三日と野宿を繰り返す俺達の睡眠や衛生事情について軽く話しておきたい。
野営する時のポイントとしては、寝心地が良さそうな地面かどうかということらしく、あからさまに硬そうな木の根が露出してたり岩がごろごろしている場所は避けていた。
低木や細い木が生えているのも適していない。整えたように芝が茂っていたり、むき出しだがふかふかした土の上なんかが狙い目立った。
森の中ならその上に自分の外套か、かき集めた枯れ葉だったり刈り取った枝葉や剥いだ樹皮だったりを敷いて、荷物入れの麻袋を枕に寝るのが日常だった。
それから暗くなる前に火を起こして旅程を確認したり食事を摂ったりする。この世界について教えてもらったり、魔力の瞑想をしたりするのもこの時間だ。
トイレは少し離れたところで用を足せばいいが、風呂はそうもいかない。
何しろ水は貴重なものなので、飲み水は極力節約するようにと口酸っぱく言われている俺がまさか水袋の飲料水を頭から浴びれるわけもない。
道中の沢で軽くうがいしたり、顔や頭を洗ったりはできたが、それ以外は大体そのままである。
森の中を歩き通してあちこちを草や枝で引っかかれた服と、日中足を動かし続けて汗ばんだ体でそのまま寝る生活だ。
しかも俺に至っては昨日ちょっと魔物とやりあったこともあって、外套や髪の毛なんかも腐葉土で汚れてしまっていて体のどこかからか耐え難い土のにおいが漂っているのが感じられる。
つまり何が言いたいかというと。
今、俺はものすごく風呂に入りたい。
四日目、開かれた腹から見える内臓が少し乾き始めている猪を軽々と担いで前を歩くオルドによれば、この草原を突っ切れば町に着くとのことだった。
それだけを希望に足を動かす俺は、正直出発した時より意気消沈しているのを隠せずにいた。
わかってはいたことだが、現代日本で清潔な生活を送ってきた俺にとってこの時代のサバイバル生活に近い旅はそれなりに精神的に来るものがある。
もちろん覚悟はしていた、しかし実際に体験してみるとなると話は別だ。
とはいえ泣き言を口にするわけにもいかず、俺は無言でひたすら足を動かし続けた。
「こんくらいでへばってんじゃねェぞ」
「誰が……! まだまだ、余裕に……決まってんだろっての」
虎が足取り同様軽い調子で後ろの俺に投げかけてくる。
俺が空元気で強気な声を返したのは、人間の俺もそうだが全身に毛を蓄えた獣人はもっと大変そうだという思いもあった。
いや、ネコ科のことなんか知ったこっちゃないのだが、実際毛皮に包まれているその体をいくら外套に隠しながら森の中を進んだとしても、体を引っかく草の汁や寝た時の土なんかで毛皮のあちこちが汚れてしまっているようで、風に靡くこともなく汚れが詰まって固まった束になっているのがわかった。
聞いたところによると、獣人も人と同様に汗をかくらしいので、後ろを歩く俺の鼻が時折生乾きの洗濯物のような饐えたにおいを感じるのはそのためだろう。
俺はなんとなく、隣の病室でひどい骨折のために入院していた患者のギプスがこんな感じだったなぁと思い出した。
もしかして俺も同じような清潔度なのだろうかと危ぶむと余計に風呂が恋しくなるので、冒険者なんて汚くてなんぼだと自分に言い聞かせながら、うっとうしそうに毛皮に潜り込んだ虫を払う虎を追って足を動かし続けた。
ちなみに、死骸を担いでいるとはいえ魔物の血は虫が嫌うらしく、一晩置いても猪の肉は大量の虫に集られている……なんてことはなかったが、垂れない程度に乾いた今となってはどこかからか嗅ぎつけたハエが寄ってきているようである。
俺ではとてもじゃないが担げないそれを、虫が寄ってくるのも承知で運んでくれているオルドには正直感謝しかなかった。
それからまたしばらく歩き続けた。
足を動かす体力にはあふれているものの、無駄口を叩く気力がない。
自分からあれこれ話しかけてこなくなった俺を茶化すこともなく、時折生存確認よろしくオルドが声をかけてくるのが唯一の気分転換になるようで、今はありがたかった。
しかし血を抜いたとはいえ、あれだけ重たい猪を担いでよく平然と歩けるなと思う。
確かに俺だって鍛え上げたので、それなりの重量に耐える筋肉もあるはずだがあのサイズの猪を同じように担いで同じ速度で歩けるかというのはちょっと自信がない。
自転車というより、ちょっとした二輪の単車ほどもある質量を持ち上げるだけならまだ可能性がある……と思いたいが、少なくとも一歩も動けないだろう。
やはり筋肉か……筋肉は全てを解決するのかとあのご都合白ライオン世界でもっと筋トレに打ち込まなかったことを後悔した。
外套の靡く虎の背中に俺が朦朧とした恨みをぶつけているところで、振り返りもせずに虎が言う。
「おい」
「えっ、な、なんだよ」
変な目を向けていたのがバレたか、とひやりとしたがどうやらそうではなかった。
「見えたぞ」
虎が道を空けるように、一歩横にスライドする。
すると、虎の背中と猪の巨体で遮られていた視界が開けて、俺は視界の向こうに見える町並みを認めて声が漏れた。
「っ、やった、ついに……!」
俯いたり、虎の背中を見て歩いていたためか、平原の向こうにある山々に俺は今頃になって気づいた。
盛り上がった大地は表面をびっしりと緑に覆われているが、その麓は禿げたように切り拓かれているのが見える。
そしてその山を背負って、町の門が俺たちに向かってぽっかりと開かれているのがわかった。
「あぁ。お前さんがぶっ倒れる前に着いてよかったぜ」
「たッ、倒れはしねえって! ちょっと疲れただけだ!」
くつくつと笑いながら虎は、涼しい顔で歩いている。
その様子からは疲れの色が見えなくて、さすが冒険者として生きているだけあって旅慣れしてるんだなぁと少しだけ羨ましく思った。
それから、視界の先の景色に向き直って、ぽつりと呟く。
「鉱山の町……っぽくないな、あんまり」
まだ遠いだけかもしれないが、鉱山の町という響きだけでもっと荷馬車や台車が頻繁に出入りしていたり、町全体が煙を上げているような幼稚なイメージを持っていた俺はそんな感想を口にした。
「そりゃァ入口はな。奥はそれこそ宿場や製錬所なんかでごちゃついてるからな、お前の想像通りのもんが見れると思うぜ」
「へぇ……! じゃあ結構デカい町なんだな!」
「王国騎士どもの鋼やら都で使う教会のガラスなンかも作ってるからな。職人街とかも露店だらけでそれなりに見るものも多いが……観光に来たわけじゃねェぞ」
浮かれ調子の俺に虎が釘を刺す。
オルドから見ても、俺が異国の知らない町に浮かれているのは明らかだったようで、恥ずかしくなってしまった俺は「わかってるよ!」と言って少しだけ居住まいを正す。
しかしそうは言っても心が浮き足立つのを止められない。
歩くペースが速くならないようそわそわしながら努めて普段通り振る舞う俺を、虎はまたもや意地悪そうに笑いながら「とはいえ」と続ける。
「コトが済みゃあちょっとくらい見物しても構わねェよ」
「いいのか?」
「あぁ。どうせ、お前ともこれが終わればおさらばだしな」
「あ……そう、か」
虎が無機質な声でそう言うので、俺は今更になって思い出した。
町に着いて、鉱山から例の鉱物を受け取って、そのまま王都を目指せばこの旅は終わりだ。永遠に続くように感じていた憧れの冒険は、しかしこの耳と首元に光る便利なアイテムを試す期間限定のトライアルでしかないのだ。
にっくきネコ科から離れられるというのに、俺の心は不思議と晴れなかった。
俺がそれを完全に失念していたのは、どうにも慣れないサバイバル生活に適応するために必死で余裕がなかったからというだけではないように思える。
しかしそれでも、ネコ科のくせにこの虎が予想以上に誠実で、前を歩く姿を心強く感じていたのは間違いないだろう。
俺はまだこの世界に迷い込んだ訪問客でしかないのに、知らず知らずのうちに憧れの冒険者になれたような気持ちでいた。
浮かれていたところに現実という冷や水を浴びたような気分になった俺は、ひと際強く外套をはためかせる風の中でもう一度「そうだよな」と呟いたのだった。




