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ep4.ノスタルジック白昼夢

目標:???

 魂だけの体といえど、疲労感はあるらしい。

 走り出した俺に当然満足な体力なんてあるわけもない。

 すぐに息が上がってしまって、息が整うまで歩いて、それからまた走ってを繰り返した。


 腕を落とされ、どうやら頭を潰されたらしい俺は目が覚めた後、自分の体を確かめる暇もなくその場から走って逃げ出した。

 とてもじゃないが対話する余裕なんてない、やっぱり辞めますと言っても結局殺されるのがオチだと思った。

 それでもどこかに逃げるアテがあるわけではない。ただ、恐ろしかった。

 理不尽に意識を奪われる死の瞬間が、体を苛む激痛が、溢れ出す血の赤が何もかもが。

 こんなことなら遣いなんて、神なんてどうでもいい。命すらいらない。

 軽々しく引き受けなければよかった。神様なんていない。異世界転生なんてクソだ。


 突きつけられた現実から逃げ出したくて、俺は恐慌状態のまま何もない平野をただ走り続けた。どこまで行っても変わらない景色が続く、まるでそういう悪夢であるかのような平原を延々と駆ける。

 どうやらここには時間の概念すらもないらしく、そもそも太陽すら出てないのに明るいこの現実味のない地平線上では今が朝なのか夜なのかも、何時間、あるいは何日走り続けたのかもわからない。


 汗はかくのに喉は乾かない。息は切れて足も重いのに腹は減らない。

 何もかもが理解に及ばない神の国で、俺はそれでも足を止めればすぐ後ろに恐ろしいものが迫っているような気がして、ただ足を動かし続けた。

 何歩歩いたかを数えようとして、三百とちょっとを過ぎたところでそれも諦めた。というより、酸欠と疲労で意識が朦朧としたために数える余裕がなくなった。

 この全てが夢で、目を覚ました俺は病室にいて一命を取り留めていて、奇跡的に病気の治療法が見つかってとか。

 実はこれら全ては俺を試すための嘘で、戻った俺はチートスキル満載で異世界暮らしを謳歌するとか。

 都合の良い空想に縋り付いて、足を動かす。

 今自分が走っているのか、歩いているのか、それとも倒れているのかすらわからない。

 誰でもいいから、助けてほしかった。


 声が聞こえる。

 聞き覚えのある、馴染み深い女性の声だった。


『ずっと、申し訳ない気持ちだったんです』


 嗚咽交じりの声に目を開けた俺は、暗闇の中でぼんやりと浮かぶ姿を認めた。それから、顔を手で覆ったまま話す母の姿を見てぼんやりと懐かしいなぁとだけ思った。

 自分の体がよくわからない薄い靄に包まれていてはっきりと知覚できなかったが、今はもうそれに驚くような気力もなかった。

 今見ているこれが夢なのか思い出なのか、それともただの空想なのかも判別がつかない。テレビでも見ているような気分で、俺は白衣の男と母さんが、そして父さんが三人で診察室のような部屋の中で話している姿を眺めていた。


『強い体に産んであげられなくて、ごめんねって。あの子が私を恨むのも、仕方ないと思います』

『それは、そんなことは……愁也くんはむしろ、お母様に感謝していたと思いますよ』

『そうだよ、母さん。愁也は人のこと恨むような子じゃなかった、そうだろ?」


 母さんも父さんも何の話をしているんだろう。

 俺はここにいるというのに、どうして死んだように話すんだろう。


『でも……私、あの子にお母さんらしいこと、何もしてあげられなかった。あの子、きっと恨んでるに違いないんです』


 思いつめたような声に、平坦な無感動状態であった俺の心がさざ波立つ。

 そんなことない、と俺が言うのと、白衣の男が口を開くのは同時だった。


『そんなことありませんよ。愁也くんは病室でも泣いている子を自分から気にかけたり、一緒に漫画を読んだりする思いやりに溢れた子でした。いつも傍で励ましてくれたお母様に、そんなこと思わないはずですよ』

『それに、逝く前だってあの子も俺たちを不安にさせまいとしてたじゃないか。逝ってしまったのは悲しいけど、でもあの子に限ってはそんなことないはずだよ』


 涙声の母が盲目的に抱いている不安を否定する心と、主治医と父の言葉に少しだけ照れ臭くなる心で、俺の輪郭が少しだけ形を取り戻す。

 母は、その言葉に思い出したように言葉を続けた。


『そう、ですかね……私があんな漫画見せたから……死んだ後に、別の世界に行くなんて漫画読ませたから生きるのを諦めちゃったんじゃないかって、不安で……』


 その言葉にドキッとしたのは何も図星だったからというわけではない。

 間違っても死を切望していたわけではないが、図らずも今まさに俺がそのような状況にあったからだ。


『あの漫画を楽しそうに読んでたのはそうだけどさ、きっと治療法が見つかるはずって生きようとしてたのは見てただろ? あの愁也が死にたがってたワケないだろ』

『ええ、愁也くんほど治療やリハビリに熱心な子はほかにいませんでしたよ。ですがそれだけに……今回はわたくしどもも力及ばず、大変申し訳ありません』

『あ……いえ。先生は良くしてくれました、私こそすいません……まだちょっと受け入れられなくて。……もう、四十九日も過ぎたっていうのに』


 四十九日? 俺が死んだのはついさっきのことじゃないのか。

 現実世界じゃそんなに時間が経ったというのか。いや、そもそも今俺が見ているこれは、なんなのだろうか。


『まだどこかで生きてるはずって思っちゃって……先生、こんなこと考えるのはおかしいんでしょうか』

『いえ、お気持ちはわかります。お子さんの死と向き合うのは非常に難しいと思いますし、こうしてお話しすることで何かのきっかけになるかもしれません』

『ゆっくり考えていこう、母さん。それに……もう会えないかもしれないけどまだ生きてるかも、って思うのは必ずしも間違いじゃないと俺は思うよ。ほら、それこそあの漫画みたいにどっか俺たちの知らないところで元気に生きてるかも……なんて。先生、そういう向き合い方ってどうですか?』


 思い詰めがちな母と違って、父はこういう明るい物言いをする人だった。

 俺が根拠もなく生きることを最後まで諦めなかったのは、この二人のおかげだった。自分を責めてしまう母を心配させないようにと、前向きな父に引っ張られてのことだったんだなとしみじみと思った。


『ふふ、私は無宗教ですが……ここではないどこかに旅立った、という意味では天国も異世界も同じようなものかもしれませんね。ええ、きっと向こうで元気にされてますよ』

『だってさ、母さん! きっと愁也も、今頃あっちで元気にしてるって!』

『そう……なのかな。ここじゃないどこかで元気に、健康に生きてる……そう願っても、いいのかな……』

『きっとそうだよ。だから俺たちも、笑顔で見送ってやらないと……な、母さん。もう泣くなよ……』


 それで、声が急速に遠のいていって、辺りは暗闇に戻った。


 目を開けて、生気のない芝にうつ伏せに倒れていることに気がつく。

 今見たものはなんだったのか。

 都合の良い空想にしては、あのライオン頭の見せる幻覚にしては随分現実味があった。

 誰かが現実世界の様子を俺に伝えてくれたのか、となるとここに俺以外の誰かがいるというのか。

 よろよろと立ち上がって周囲を見渡しても、どこまでも広がる地平線に変わりはなく答えにはつながらなさそうだった。


 どこかで元気に、健康に、か。

 母の言葉を胸の内で繰り返して、もう聞くことのできない声の響きに少しの寂しさが胸をよぎる。

 それから、今自分に何ができるかを考えた。


 獅子が言うことを信じるなら、こうしてこの地を彷徨い続ければそのうち成仏して俺という存在は完全に消えるのだろう。

 そしてそのまま消えてしまえば、母と父の願いは嘘になってしまう。死を受け入れられない夫婦の妄言になってしまう。

 たとえ俺が本当に異世界で生きていることを伝えられないとしても、世間一般から見たら十分ただの現実逃避であるとしても。

 俺はそれを嘘にしたくない。

 俺だけは、それを嘘にしてはならないような気がする。

 父さんと母さんが泣かずに笑って、俺が異世界で生きていると信じられるために生きなくてはならない。


 すっかり萎れた胸の奥で、ぱちりと炎が爆ぜた。

 決意は火勢を増して、鉛のように重かった俺の手足を動かす原動力となった。


 痛い思いをしたくない気持ちも、誰かと殺し合いたくない気持ちにも変わりはない。それでもそれ以上に、俺は今ここにいる俺を手放し難く思った。

 死の恐怖が、痛みの記憶が俺の心を折ろうとしてくる。自分の命惜しさに他人と殺し合うのかとエゴを訴えてくる。

 しかしその度に、父の言葉が思い出させる。

 俺はどんな時だって、生きようとしていたのだ。

 死の恐怖が、痛みの記憶が、病がどれほど俺の体に絡みつこうと生きることを諦めるな。

 そう決めたのは、他ならぬ自分だったじゃないか。それならば。


 一歩進む。

 やってやる、どうせ死んでも生き返るんだ。だったら、もう一度だけ戦ってやる。


 もう一歩。

 異世界がなんだ、神の遣いがなんだ。殺し合いなんてごめんだ、俺は俺の人生をやり直す。


 更に一歩。

 ここではないどこかで、元気に、健康に。生きたいように暮らしてやる、奴らの思い通りになんてなるものか。


 顔を上げた。いつの間に現れたのか、あるいは俺が戻ってきたのか。

 目の前に、毛むくじゃらの白い壁が立っていた。傍若無人で、傲岸不遜な立ち居振る舞いのそれは、俺が越えるべき壁のように見えた。


「ゆくぞ」


 壁が槍を構える。俺はまだ迷っている心を振り切るように、目の前に突き刺さっている剣を引き抜いて構える。


 オーケー、今度は乗ってやる。

 このクソゲーをこっちが勝つまで、続けてやる。

 相変わらず重い剣を不格好に振りかぶって突進する俺を、獅子の槍が無慈悲に貫いた。


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