ep30.無神経と闘争の果てに
目標更新:エルフと虎と話せ→虎を認めさせろ
なんでこんなことに。
村の外れの原っぱに虎と相対しながら、俺は渡された木剣を握りしめた。堅い木を削り出して柄や鍔、刀身を象って作られた木剣は不格好な十字架のようで、そこそこの重量を持っていたので思い切り殴打すればそれなりのダメージにはなりそうだった。
相対する虎は、太い首に合わせたのか鎖骨が見える襟ぐりの広い綿服にポケットを継ぎ接ぎしたようなズボンとブーツといういつもの格好で立っている。
手には同じようなサイズのはずなのにやたら小さく見える木剣を持って、こちらを見据えていた。
「あのー、オルドさん。ほんとにやるんですか?」
「なんだァ? 今更やめるってのはナシだぜ」
「いや、そういうわけじゃないんですけど……」
ちらりと横目で周りを窺う。
原っぱにいた子供達に事情を説明して場所を明け渡してもらったので、元々同席していたエルフのユールラクスに加えて村の子供達……ナタリアやエルマ、ラウルらがいるのは理解ができる。
だが、門番の若い男に声を掛けた虎が訓練用らしい武器を拝借したせいで、俺達が何か面白いことをしようとしているというのはすっかり噂になってしまったらしく、老若男女の村人達がこぞって観戦に来ているのは理解できなかった。お前ら仕事しろよ。
改めてざっと見回してみると、点々と存在する切り株以外にこの一帯に障害物は存在しなくて、それなりに体を動かしやすそうではある。
視線を虎に戻すと、にやり、と木剣で俺を示しながら肉食獣らしい笑みを浮かべて言う。
「森で見た時から気になってたんだが、お前相当ヤれるだろ? この俺についてくるって言うなら、どれくらい戦えるか正確に把握しておくのは先輩としての務めだと思ってなァ」
虎は嬉しそうにそれが道理だとでも言うように自信満々に語るが、なんとなくそれは嘘で、こうして手合わせすること自体に意味を見出していることは間違いないと直感した。
戦いたくてうずうずしているのが隠しきれていないなと思ったことを含め俺がそう感じたのは、似たような状況を経験したことがあるからなのか、それともこの虎がわかりやすいだけなのかはちょっと判別できそうになかった。
獣人ってのは好戦的なやつしかいないのか。
いや、まだ二人しか会ったことないしそのうちの片方は人とも言えない胡乱な存在だけど、ともかく。
「……終わったと思ったらもう一回とか、満足するまで続行とかそういうのは無しですからね」
「? どんな風に鍛えられたか知らねェが、普通の訓練だと思っていいぜ。決着ついたらそれで終いだ」
それならば一撃入れて終わったと思ったらもう一本、なんて無茶なことも言われないだろう。
もっとも、こんな剣なら死ぬこともないだろうけど。こくりと頷いて、握る剣に力を込める。
「危ないと思ったら僕が止めますからねぇ、二人ともがんばって~」
ユールラクスが村人に紛れながらこっちに力の抜ける檄を飛ばしてくる。
そう思うんなら最初からさせないでくれよ……と思ったが、早くも戦いに意識を向けた俺はむしろ他のことに関心を持ち始めていた。
森の中で見た時から気になっていたと言っていたが、それは俺も同じことだった。
あの身のこなし、重そうな大剣を軽々振るう膂力、剣に頼らぬ多彩な体術。この虎が相当な手練れというのはわかっている。
本来なら、わざわざ歯向かうべき相手ではないことも理解している。
それでも。
今までに抱いたことのない感情に俺は戸惑った。
死に続けた研鑽の日々の中で、ひたすらあの白獅子相手に振るい続けてきた俺の剣はひとえにあの白獅子に抗うためのもので、その全ては殺意のために振るわれてきたのだが。
果たしてこちらの世界では、俺の実力はどの程度のものなのかと気になっている自分がいた。
戦いなんて、殺し合いなんて懲り懲りだと思っていたはずなのに、俺は俺の力を試してみたくってしょうがない。そう思うのは、まるであの理不尽な日々を何か価値のあるものとして感じている証拠のようで苛立ってしまうが、何か意味があったと思わないことにはやりきれないのもまた事実だった。
入院していた時とは違う自分の体が、どの程度動くのかを確かめる時のような高揚を感じながら俺は足に力を込めた。
「行きます」
「来い」
十メートルほどの距離を挟んで剣を構える。虎は担ぐように剣を肩の上で構えていて、空いている手でちょいちょいと挑発してくるのがなんとも様になっていた。
手の動きはともかく、その構え方は本来扱っている剣の重量ゆえのスタイルだろうと推理できたのは森で見かけた大振りの剣を思い出したからだった。
両手で握った剣先と重心を下げて姿勢を低くすると、そのまま地面を勢いよく蹴る。
観衆がざわめくのが聞こえて、芝と土を蹴り上げて疾走した俺は自分でも驚くほどの速度が出ていることに気がつく。
踏み込む足は初速にして最高速を叩き出して、走る勢いを乗せて下から剣を振り抜こうとした。
が、剣を肩に乗せた大男の間合いに入る刹那にぴくりと猫髭が動くのが見えた。
厳密には、それ以外のものも見えていた。筋肉の動きや、剣を握る手指の強張り、一歩踏み込むための重心の揺らぎ。
それらの情報を脳で処理するよりも前に、俺は下げていた剣を急いで持ち上げて、自分の体を刀身に隠した。
虎の右腕が閃いて、目にも止まらぬ速さで剣が振り下ろされる。
予想より速く、鋭い一閃だった。袈裟に大きく斬りつける一撃が、俺の体をガードの上から強かに叩く。
「ぐッ……!」
がぁん、と轟音が鳴り響いた。一種、バットでボールを強く振りぬいたような音にも聞こえた。折れたのではという衝撃が腕に走って、俺の体は軽々吹っ飛んでいく。
後方に飛ばされた俺の体が草を巻き上げながら転がり、尻もちをついた姿勢のまま地面を擦って後方に滑ったとこでようやく止まった。
「武器に救われたなぁ、得物が違えば腕ごとパァだったぜ?」
意地の悪そうな虎の声にぐうの音も出ない。
武器が軽くて救われたのは事実だったからだ、虎の言う通りもしこれが本来使っているような大剣だったなら俺の防御など意味を成さなかっただろう。
びりびりと痺れる手と腕は、辛うじてまだ動くようだったが鈍い痛みが尾を引いて残っていた。
握力を苛む痺れと痛みを誤魔化すために強く柄を握りしめる。
甘かった。俺はいつの間にこんなに驕っていたのか。
膂力で敵わない相手の攻撃をみすみす受け止めるなんて、無敵の体を手に入れたとでも思っていたのか。
ここはあの世界とは違う、今の俺は死んだら終わりなんだぞ。
手ぬるい攻撃はするな、相手を殺すつもりで戦え。
鼓動が逸る。手足が燃えるように熱を発していて、反対に頭だけはスーッと冷えていく。
視界が急にクリアになっていく感覚を、俺は忌々しくも懐かしく思った。
「当然、今ので決着ってわけじゃあ……ねぇよなァ?」
ゆらりと立ち上がる俺の足取りがまだしっかりしてるのを見て、虎はゴムめいた唇をぺろりと舐める。それからもう一度剣を担ぐように構えて、さっきよりも低く構えて俺を見据える。
一度味わったからか、虎の剣の範囲がはっきりと円形になって目に見えるようだった。攻撃するにはあの間合いに入らなくてはいけない。
だが、中途半端な仕掛けではあの一撃の餌食だ。
どうにかして見極めて回避しなくてはならない、どれだけ素早い一撃でも、空振ってしまえば無意味だ。
「……もう一回、だ」
無謀な突進を繰り返すと見せかけて、空振りを誘う。俺がもう一度駆け出すのを見て、虎は「そう来なくっちゃな」と喜んだ。
俺の体が虎の剣の間合いに迫る。あと一歩入れば俺の体に剣が届くだろう。
その軌道を見極めて、仰け反るか、後退するかを瞬時に判断して空振りを誘う。
つもりだったのに、虎の手がいつまで経っても脱力したままなことに気がついた俺は、反射的に横っ飛びしていた。
ボッ、と丸太のような虎の脚が俺の胴体のあった場所を振りぬいて、そこにある空気を蹴飛ばした。
「はッ、正解!」
これ見よがしに構えた剣を囮にして突き飛ばすような前蹴りを放った虎は、避けられたにもかかわらず楽しそうに吠える。
出し抜かれたと理解して一層苛立つ俺は、目を離さず見ていた虎の腕に嫌な予感を覚える。横にステップした足が着地すると同時にそのまま地面に片手を付けて屈み込む。遠くで他人事のような女の悲鳴が上がるのが聞こえた。
「あッ、ぶね……!」
「ほぉ、こいつも躱すか!」
頭を下げるのとほとんど同時に俺の髪スレスレを剣が通るので思わず肝を冷やした。その大柄な図体と鈍重そうな剣の構え方からは想像し難い鋭さで繰り出される連撃は、あの白獅子にも勝るとも劣らぬように思えた。
比較対象がアレであることがどうにも腹立たしくて、片膝を突いていた足でもう一度強く前に踏み出しながら立ち上がりざまに構えた剣で突きを放つ。
しかしこれを読んでいたらしい虎は、詰まった間合いに拘泥せずひらりと後ろに下がって避ける。俺も深追いせずに立ち上がって体勢を整える。
「まだまだ、こんなもんじゃねェよなァ!!」
俺に息をつかせる間もなく、今度は虎が剣を肩に構えたまま仕掛けてくる。
反撃するために間合いから逃れるのではなくその中で迎え撃とうとする俺より、腕のリーチによる間合いの違いで勝る虎は剣での一撃を警戒させながら易々と俺を射程圏内に捉える。
俺は剣だけに注視するのでなく、その全身をフラットに視界に収める。死に続けた経験の中で身につけた、相手の動きを察知するためのコツだった。
一点に焦点を定めるのではなく、全体を眺める。
剣を担ぐ腕は動く素振りがない。むしろその片方の空いている手が拳を作っていることに気づく。そのどれもがフェイントで、俺に接近して踏み込んだ足を軸に蹴りを繰り出してくる可能性もある。
それから、肉薄する虎の剛腕が駆けた勢いを乗せて唸り脇腹を抉ろうとするのを後ろに躱し、押し出すような前蹴りを横に避け、その足が地を踏みしめると同時に振り下ろされる剣を仰け反って空振らせた。
おぉっ、と村人達から歓声が上がった。
「ッちぃ……!」
舌を打つ虎から距離を取って考える。
相手の仕掛けもいなすことはできるが、避けてばかりではだめだ。どうにかして攻撃に転じないと。
どうする、リーチでもパワーでも負けている俺に残っているのはなんだ。ベットするに値するカードは、残っている手札は。
それから、思いついた。
リーチで負けている武器を構えた白獅子と戦う時に試したことがある手だった。
あの頃はまだ闇雲に体を動かしていただけだし、けっして習熟しきっているわけではないのでしくじって一撃でもクリーンヒットを取られれば負けは必至だ。
それでも、今の俺の体なら試してみる価値はありそうだった。
距離を取られた虎は、もう一度剣を構えたまま低く重心を保つ。まるで居合の達人のような迫力があったが、何もその正面から飛び込む必要なんてないのだ。
「行くぞッ……!」
「ッ……ほう、なるほどな」
自らを鼓舞するように低くつぶやく。それから、息を深く吸って横に飛び出した。
しかしそれは走るようなものではなく、足先に力を込め母指球で地面を小さく蹴って低く跳ぶ足運びだった。
細かく、鋭くステップを刻んで虎を中心に円を描いて動く俺に、背後を取らせまいと虎も動く。
背中に回り込もうとする俺に対応せざるを得ない虎を相手に、視界の外を目指して足を動かし続けた。
虎が右を向こうとすれば更に右へ、振り返ろうとするなら今度は逆へ、その足が即座に反応できない視界の外側へ体を運ぶ。
しかしそれだけでは決定打になり得ない、故にここに揺さぶりを加える。
「ッそこ!」
「ぐッ……! 甘ぇ!」
虎の脚が浮いた瞬間を狙い、鬨の声を上げて飛び掛かる。横に跳んでいた足で地面を強く蹴って、正面に跳んで真一文字に斬りつけるが、虎はそれを体を逸らして回避する。
反撃に肩に担いだ剣をコンパクトに振りぬくが、その頃には俺の体はもう一度距離を取っていた。
攻撃は避けられたが、しかし狙い通りだった。
万全な体勢でない瞬間ならばそのままの体勢で無理に防御、あるいは回避せざるを得ない。
これならば反撃も間に合わないし、反撃に転じる間に更に間合いの外へ逃げることができる。
虎も剣を構え直しながら、顔は上げたまま動き回る俺から目を離さずにいたが首を巡らせるのにも限界がある。
足を摺るように体の向きを直すのを見て、更に素早く横に跳ぶ。
「くそッ、ちょこまかと……!」
現代日本で生まれて戦いや格闘技とは無縁だった俺が、バトル漫画でよく聞くセリフを実際に耳にするとは思わなかった。
少しばかり感動しながら、振り向きざまの虎に突きを放つ。
「おらぁッ!」
懐に飛び込もうとする俺に合わせて、ぶん、と虎が強引に剣を振るうが一拍遅かった。このまま突きを敢行すれば直撃してしまう反撃は、しかし回避に転じるには十分なタイミングだった。
俺は下に沈み込んで潜るように回避すると、そのまま相手の軸足を払う水面蹴りを見舞う。
がん、と衝撃に足の甲が痺れた。
「~~ッ! 痛っでぇ……!」
「痛てェな、ゴラァッ!」
返す刃で低い姿勢の俺を薙ぐ剣を慌てて避ける。
完全に軸足を払ったのにビクともしないどころか、蹴りを見舞った俺の足も多大なダメージを受けるようだった。
電柱か何かを蹴ったような痺れに、逆に頭が冴えるのがわかる。
どうする、次はどう仕掛ける。考えろ、考え続けろ。
体勢を崩したところをこちらも威力重視の大振りで斬りこむか、攻撃を躱したところを急所狙いで突くか、それとも同じように剣を囮に体術で仕掛けて崩すか。
一撃まともに受ければ終わりというのはわかっている。
この虎の膂力の前では、木剣だろうと当たりどころによってはただでは済まないだろう。
だが、生憎そんなの慣れっこだった。
一手しくじれば即ゲームオーバーなんて、何千何万回とこなしてきたのだ。今更そんなことで尻込むほど素人じゃない。
「まだまだッ……行くぞオルド!」
「はッはァ、上ォ等だ!」
脳内であの白獅子がしたり顔で笑った気がして、俺は苛立ちを抑えながら虎の剣を避け続けた。
大衆は呑気なもので、最初はワァワァ言って俺達の様子を見守っていたのも束の間、長期戦になったと見るや否や次第に興味をなくしていき、つまらなさそうに欠伸をしてまばらに立ち去っていった。
陽も暮れ始めた今、切り株の残る原っぱで勢いを無くし始めている剣を振るう俺達をそれでも取り囲んでいるのは三人の子供と、ユールラクスのみとなっていた。
「っぜぇ、オルドっ、しつこすぎ……! もう、いい加減、当たれよッ……!」
「っはぁ、テメェこそ……! そう思うんならッ、チョロチョロ動くんじゃ……ねえッ!」
骨に守られていない脇腹を狙う俺の剣を難なく剣で受け止めて、虎はそのまま突き飛ばすように蹴りを放つ。
当たれば容易く内臓が潰れるだろう質量の蹴りに怯むことなく、間合いを保ち続けるためにも俺は横に躱しながら出足に手を添えて横にいなす。
一歩後ろに下がってから袈裟に振るった俺の剣を、今度は虎が身を捻って躱しそのまま回転するように裏拳を放ってくるので、こちらも仰け反って避けた。
お互いに肩で息をして、相手に打ち込む力は僅かに衰えているものの変わらず必殺の一撃を放ち続けている。
がつんがつんと響く剣戟に、猫を抱える子供たちと何やら談笑していたエルフが飽きたように言う。
「あの~、もういいんじゃないんですかね~。二人とも~」
「いいワケ、ねェだろッ!」
「まだ終わってねえ、です!」
呑気なエルフの声に虎と俺が叫び返す。酸欠と疲労で細かいことを考える余裕がなくて、何のために戦っていたのかも咄嗟に思い出せない。
今はそんなことどうでもよくて、なんでもいいからこの虎に勝ちたい。一撃入れて、どうだ俺の方が強いと言ってやりたい。
めらめらと燃え盛って俺の体を動かす闘志が命じるままに、空振った剣を構え直す虎の隙を突いて鞭のような蹴りを放つ。
「んなッ……!」
「捕まえたぜェ、ガキが!!」
しかし。
弧を描くように振るわれた俺の中段蹴りは虎の胴をしっかりと捉えたが、その手応えのなさに俺は焦りの色を浮かべる。
虎は俺が狙う場所を事前に予測していたのか、アウトロー感丸出しの荒っぽいセリフで怒鳴りながらも冷静に一歩前に踏み込んで、自ら当たりに行くように蹴りに力が乗る手前で俺の足を受け止めていた。
格闘家さながらに前腕と膝で自分の胴を守りながら敢えて接近し、蹴りの内側に入り込み至近距離で受けることで威力を最小限に抑えた虎は自身のダメージを省みずに攻勢に転じる。
「もらったぁ!」
俺がまだ蹴り足も下ろしきっていないのに、虎が肩に担いだままの剣を振り下ろそうと腕に力を込める。
まずい、これは入る。木剣とはいえモロに入れば痛そうだ。
袈裟に振るわれた一撃は、俺の肩口を狙っていた。刃がついていなくても、その勢いと虎の膂力なら俺の鎖骨や腕くらいは易々と砕くことだろう。
負けるのか、俺は。
あれほど苦しい思いをしてきたというのに、その一切は何の価値もない無駄な努力だったのか。
でも、それは当然なのではないか。
明らかに自分より体格で勝り、戦いの経験を積み続けてきただろう一流の冒険者であるこの虎を相手にたかだか数年分死に続けただけの自分が敵うわけないじゃないか。
そもそも自分は戦いたくて異世界に来たわけじゃないはず、痛い思いなら散々してきたはずだ。
平凡でのんびりとした暮らしが目標なのだから、こんな訓練にすらならない模擬戦闘なんてどうでもいいだろう。
否。
それでも、負けは負けだ。どうでもいいわけがない。
怪我をしたり、殺されたり、好き勝手暴力を受けるのはいつだって敗者と弱者だ。
そんなのは、あんなことは二度とごめんだ。
相手が誰だろうと、負けてたまるか。
毛並みも声もしゃべり方も何もかも違うのに、ネコ科の顔に身勝手な怨讐を重ねる。積み重なった苛立ちが胸の内で、頭の奥で、至る所で爆発して思考が真っ赤に染まる。
理屈の外からやってきた闘争心が全身に漲って、俺の脳みその普段使っていない部分から運動ニューロンに指令が走る。
つま先から指先に至るまで、自分の筋肉が意のままに動くような全能感。体に馴染みのないそれはどこか懐かしく、煮え滾るような意地に限界まで張り詰めた肉体が応えた。
蹴り足を浮かせたまま、軸足で地を蹴った。同時にギリギリまで引きつけた剣を、身を捻って回避する。
宙に浮いたまま一回転して袈裟の一刀を辛うじて躱した俺は、対空したまま軸足を入れ替えつつ回る勢いを乗せた後ろ蹴りを放った。
「なッ……!?」
身を翻すその瞬間だけ加速したような俺の動きに、剣を振り下ろしたままの体勢で固まる虎が目を見開く。
五感が限界まで研ぎ澄まされているからか、回転する途中に遠くの方でしゃがんで猫を撫でているエルフが「やりますねぇ」と唇を動かすのすら見えた。
薙ぐような足刀が、踵が弧を描いて無防備な虎の側頭に吸い込まれていく。
入った、と俺は無防備なこめかみを見てクリーンヒットを確信する。
「……えっ」
間抜けな声が喉から溢れた。
俺の足に届いたのは、まるでマットレスか何かを思い切り蹴ったような場違いな感触で。
ばふっ、と反動すら返さない柔らかい蹴り心地に、今度は俺が驚く番だった。
俺の蹴りは、踵は虎の頭から数センチ離れたところで手も触れずに止められていた。
まるでそこに、目に見えない緩衝材でも存在するかのように。
信じ難い光景に俺が狼狽える間もなく、無防備な背中目掛けて虎が振り下ろしていた剣で返す刀で斬りつける。
俺の体を打ち据えると思った剣は、布一枚の隙間を残してピタリと寸止めされて、互いの動きが止まった。
負けた。
実戦なら、それが刃物なら俺の体はとっくに両断されていた。決定的な隙をさらしたことは、認めるほかないだろう。
だが何故、あれだけ手ごたえのあった攻撃が当たらなかった?
虎が剣を俺にあてがったまま、ハァハァと荒く息を繰り返して、告げる。
「俺の……負けだな」
そう言って、前傾していた姿勢を正して剣を下ろす。
なんだ、何を言っているんだ? 聞き間違いだろうか、どう見ても今負けたのは俺のほうじゃないのか。
「参ったな、適当にボコしてやろうと思ったンだが……つい本気になっちまった。自信なくしそうだ」
「あの……えぇと、負け? オルドさんが? なんで……えっ、なんでだよ?」
「魔法を使ったんですよ、オルドくんは」
陽の光を受けてきらきら輝くような長い髪を揺らして、エルフが俺達に歩み寄る。
魔法、と言ったのか。このいかにもそれっぽい出で立ちのエルフじゃなくて、脳みそまで筋肉でできてそうなこの虎が?
「木剣での格闘訓練、それも格下だと思ってた相手に中位冒険者様が銅魔法とはいえ身を守るために使わされては……負けを認めざるを得ませんよね」
「はぁ……わァってるよ。ムキになった俺が悪いっつうの」
息を整えながら、虎が観念したようにがしがしと後頭部を掻く。まだ肩で息をしている俺は、その言葉の意味を考えるより直前の不思議な現象を思い返していた。
確実に入ると思った後ろ回し蹴りが、何かに阻まれて決まらなかった。あれが魔法の仕業だというのか。
剣を下したままの虎が手のひらを差し出す。それからバツが悪そうに「試すようなことして悪かったな」と言った。
「ちょっと動けるだけのガキだと思ったが、なかなかヤるじゃねェか。いいぜ、短い間だが仕事仲間としてお前に背中を預けよう。よろしく頼むぜ」
「えっ……は、はい。よ、よろしく」
俺は少し躊躇ってから、その手を握り返した。
大きく分厚い手は固く節くれだった肉球が備わっていて、毛皮のない手のひらは運動の熱で懐炉のように熱かった。
「……いや、剣預かろうと思ったンだが」
「あっ……すいません」
それから、虎は……オルドは、「まあ、いい」と言って少し照れ臭そうにしながら暖かい手で俺の手を握り返したのだった。