ep22.殺意と暇つぶしはディナーの前で
目標:虎の帰りを待て
宿屋まで戻った俺は、今度は食事の心配をした。
朝のことを思えば虎が何かしらを用意してくれているのかもしれないが、それを勘定に入れるのは厚かましいかなと思いつつもまだそんなに腹が減っていないことが問題だった。
食事を用意してくれることがありがたいことに変わりはないが、同時に何から何まで世話されて申し訳ない気持ちもある。
それこそ俺が病人やけが人であるならそれも受け入れやすいのだろうが、体も元気な状態で他人の気遣いを受けるのは初めてのことで少しばかり戸惑ってしまうのだった。
ならばどうするかと考えるものの、俺にできることなんてもともとそんなにあるわけではない。
先程振り切った望郷の念に追いつかれないように、体でも動かすかとどこか人目に付きにくい場所を探し、子供たちと最初に会った原っぱを思い出した。
向かってみると、多少暗いが一番近くの民家が焚いている松明の明かりがぎりぎり届くようで、なるべく不審に思われないよう背中を向けてワイシャツを脱いだ。
本当なら肌着も脱ぎたかったが、さすがに暗がりの中で上半身裸のまま体を動かしているのはどうなんだと思ってやめておいた。
こんな狭い村なのだから噂くらいすぐに広まるだろう、ただでさえ目立つ外部の人間なのにこれ以上無駄に注目を集めるのは避けたかった。
じゃあ何をするか、と考えたところで今自分の体がどれくらい動くのかを確かめてなかったなと思い出す。
疲労もすぐには回復しない、傷を負えば治るまで時間のかかる生きた体ではあの頃のように頻繁に死ぬことはできない。そのためにも、今後の身の振り方をどうするにしろ運動能力の把握をしておいて損はないだろう。
そう考えて、俺はその場にしゃがみ込んで床に手をつき腕立て伏せを始めた。今自分が何回腕立てできるのか、数えながら回数をこなしていく。
回数が五十を超えたあたりで肌にまとわりつく汗と衣服をうっとうしく感じた。筋力的にも体力的にもまだまだいけそうな気がして、体の軽さが楽しい。
百を超えた。さすがに少ししんどくなってきたがまだまだこんなものではない。息が苦しくなってきたので大きく呼吸をしてごまかす。
二百を数えた。汗がぼたぼたと零れ落ちて鬱陶しい。頭から水をかぶったと思うほどの激しい発汗で、汗が目に入って痛かった。
三百を超えたあたりで、じわじわと肩が痛みを訴えてきた。四百に届くくらいでその痛みが限界を迎えて、腕立てをやめた。二の腕にはまだ力が入るが、肩を動かそうとすると背中、肩甲骨にまでびきりと痛みが走ったので、どこか関節を痛めてしまったかと不安になった。
ぜえはあと荒く息を繰り返しながら、肌着で汗を拭う。ぐっしょりと濡れたそれを着ていたくはなかったが、まだ終わる気はなかったので当座の運動着として着用したままにしておく。
続いて下半身についても測りたかったのでとりあえず走ってみるかと思ったのだが、長距離を走れるようなコースがないことに気づく。
まさか勝手に村の外に出るわけにもいかないだろうし、これなら明るいうちに走っておくべきだったなと思って後悔した。
とりあえず脚力、とりわけスタミナについては明日明るい内に測ってみよう。その後もだるくなった腕を抱えたままスクワットをこなしたり、猫が降りられなくなっていた樹のどこまで届くか跳躍してみたりして俺は自分の体について調べていった。
そして今は。
目を閉じて脳内で思い描く、万を超すほど俺を殺し続けた憎い白獅子の姿を。
最初に受けて、目に焼きつくまで見続けた、あの忌々しい槍さばきを。
数多ある死の経験を再生する。そして体は、記憶の中で迫る槍を回避し続ける。
リーチを存分に使った薙ぎ払いを、雷のような速度の突きを、穂先を翻す柄の一撃を。
退がって躱す、腰から上だけを傾けて躱す、顎を引いて紙一重で躱す。
武器はないが拳はある。存在しない殺意を、焼きついて離れない攻撃を捌き続ける。
すべてはその、憎い顔面を一発ぶん殴るために。
イメージ上の槍を掻い潜り、姿勢を低くしたまま懐に飛び込む。あの時は確か、剣で喉を狙ったんだったな。
ボクサーさながらに拳を握りしめアッパーを放たんとする俺の脳裏に、死の記憶が蘇った。
そうだ、懐に飛び込んで剣で突き上げようとした結果、鳩尾を膝蹴りされて吹っ飛んだんだったな。
振り上げようとした前腕で自分の体を守りながら、横に体をスライドさせる。頭の中で繰り出された膝での一撃をいなし、相手の脇腹を抉るような左の正拳を放つ。
ぶわっ、と風が吹いた気がして、目を開ける。すっかり暗くなった夜の闇が目の前にあった。
「……はぁ」
それから溜息を吐いた。こんなんじゃダメだ。
過去に挑戦して死んだ記憶をもとに、今の体でどう戦うかをイメージして動いてみたがそもそもあの膂力の一撃を俺が簡単にいなせるわけがない。
散々死んで成長した今ならば槍を搔い潜るまではうまく行くかもしれないが、結局どのようにイメージしたところでいかにそれが具体的だろうとイメージはイメージでしかない。
けして戦いたいわけではないが、憎たらしいことに身についた技術を衰えさせるわけにもいかないと思ってしまう。
そうだ、これは何もあの白獅子の教えを大事にしているわけではない、ただあのネコ面をぶっ飛ばすまで腕を錆びさせるわけにはいかないというだけだ。
しかし、そうは言っても……繰り返すことにはけして争いを望むわけではないが、あの鬼畜ライオン以外に自分がどの程度戦えるのかというのが少し気になっているのは事実だった。
あのゴブリンにしろ、魔物が当然のように存在しているこの世界でなら、それこそ様々な魔物相手と戦う機会はすぐにやってくるだろう。それでなくとも、もしかしたらファンタジー作品にありがちな山賊とかにも襲われるかもしれない。
そうなったとき、おとなしくやられてやるつもりはない俺の剣はどこまで通用するのか。
俺ってこんなに血の気多かったかな。自分で自分を疑わしく思いながら、俺は宿屋に戻った。
辺りはすっかり暗くなっていたがもともと村自体がそこまで広くないこともあり、宿屋の前に灯されていた松明のおかげで無事に戻ることができた。
一階部分の酒場兼食堂はそれなりの人で賑わっていて、料理のにおいで満ちているようだった。
簡素な村なのにな、とその賑わいを不思議に思いつつ、喉も乾いていた俺は、カウンターで皿を拭いている女将に言葉が通じないなりに食事の旨を告げる。
女将は顔を上げて、俺が何かもぞもぞと動いているのを見るとニカッと笑って天井の二階部分を指差して、食べ物は部屋に持っていくというようなジェスチャーを返してくれた。
そのまま部屋に戻ってしばらくしてから響いたノックの音に戸を開けると、昼間見かけたブロンドの女中が皿を持ったままそこに立っていた。
「あっ……昼間はどうも」
「~~、~~~!」
にこにこと愛想よく笑いながら、女中は布を被せた木の皿を丸テーブルの上に並べていく。献立は昨晩と大して差が無いようだったが、もう一度食べたいと思っていたものでもあったので都合がよく、ふわっと肉の焼けた香りが漂ったことでなおのこと食欲をそそった。
女中はそれだけでなく、皿をテーブルに並べ終わると一旦外に出て、水が入った木の桶を持ってきてくれた。飲み水だろうかと思ったが、その水がどことなく湯気が出ているのと、続いてごろごろと縦に転がしながら持ち込んだ木の盥を玄関付近にごとりと置いたので体を洗う用だと理解した。
「あ……えっと、『ありがとう』!」
一緒に手渡されたタオルを受け取りながら、俺が覚えたての単語を口にするとブロンドを揺らして少し驚いたように目を丸くした女性はその後でくすりと笑って何事かを一言返すと、ぺこりと頭を下げて扉を閉めていった。
はたしてうまく伝わっただろうか。
発音は合っていたはずだが、もしかして何かと言い間違えたりしたんじゃないかと不安になるが、悔やんでも仕方ないと供された食事に手を付けるのだった。




