ep20.ネコと和解せよ
目標:虎の帰りを待て
女中の親切もあって、思いがけず良いリフレッシュができたことは俺にこの世界で生きる勇気を与えてくれるようだった。
こっちの世界に来てからもう二十四時間は経過しただろうが、言葉も通じぬ異世界でこうして命あることを俺は素直に喜んだ。
しかし、これからの身の振り方を考える上で言葉の壁はいつまでも避けてはいられない。俺は村の中をぶらつきながら、まずは何としても言葉を覚える必要があるなと考えた。
それで、村の中を見物しつつ誰か話し相手になってくれそうな、暇そうにしている相手がいないものかと探してみる。
ざっと見回った限り、この世界の文明レベルは俺が想像する程度と大して差がないようだった。
電気やガス、水道は当然ない。時計などの機械も見当たらない。薪と井戸、そして馬車で生活する由緒正しきファンタジー世界らしい。
俺の滞在している村は典型的な農村らしく、宿屋の窓から眺めた広大な畑もそうだが、少し離れたところで牧畜も営んでいるようで、平野の向こうに羊やら馬が放牧されていたり村の中ではニワトリが飼われているのも見かけた。
また、村の出入口ではちょうど荷馬車が出発するところらしく、複数の馬車が樽や、剝き出しのまま荷台に括り付けた動物の毛皮やら作物やらを載せて村を離れていくのが見えた。
昨晩俺達が抜けてきた森とは反対側にある、むき出しの土を踏み固められた道路へと続く簡易な門の前に立って、なだらかな起伏のためにうまく道の先が見えない街道をぼんやりと眺める。
他の町や村とも交易を行っているなら、この村だけ特別文明が遅れていることもないだろう、であれば時計が無かったり井戸から水を汲むこの生活をこの世界の基準と考えてよさそうだ。
木の柵で囲われた村の中を出ようとは思わなかったが、一面の麦畑と平原の間を切り拓いたような道の先に何があるかという抗しがたい好奇心を抑えるのに苦労した。
それからようやく、踵を返して土の道に残る轍を辿るように村の中に戻った。
村の中の大人は畑仕事や牧畜、あるいは裁縫や洗濯などの仕事で忙しそうにしていて、とてもじゃないが言葉を教えて欲しいなどと頼める様子ではなかった。
では虎が戻るまでの間何をするかと考えながら、ところどころに切り株の残る村のはずれの空き地まで出てきた俺は騒ぐ幼い声に顔を上げた。
「~~~! ~~~!」
「~~~~!」
三人くらいの子供たちが、広葉樹を見上げて何かを叫んだり、拾い上げた小さな木の棒を懸命に樹上に差し出していた。
何だどうしたんだと思って見上げると、かなり高い位置にある枝の上で右往左往して震えている猫の姿を認めた。
それで、この世界にも猫がいるのか、とわけもなく驚いた。
いや、そりゃあ羊や馬、ニワトリがいるんだから猫だっているだろう。別に何も不自然ではないはずだが、どういうわけか俺は自分か幼いころ飼っていたような愛らしい小動物に対して理不尽な苦手意識を覚えて、顔が引きつるのがわかった。
猫は子供達を三人縦に並べても届かない高さの枝にいて、四つ足で立ったままきょろきょろと下を見回して落ち着かない様子だった。
どうにかして降りようと片脚を浮かせると、途端にバランスを崩して慌てたようにその場に座り込むのがどうも危なっかしい。子供達も猫が落ちそうになると悲鳴に近い声を上げていて、見ているこっちが気を揉んでしまう。
誰か手の空いている大人は、助けてくれそうな男手を、と思ったがそんな人が都合よくいるわけもないことは俺にもわかった。
それで、ここに手の空いている人が一人いるな、と思った。残念ながら成人もしていないので頼りになるような大人ではないし、言葉すら通じないけど。
梯子でも借りて来れれば、と思ったけど言葉の壁から断念する。それから、どうせやることもないしなと子供達に近寄った。
すると、振り返った顔にその内の一人が昨日出会った栗毛の女の子であることに気がつく。
「~~、~~!」
「~~~~?」
「~~~~!」
女の子が俺に気が付いて、脇の男の子が近寄ってきた俺と女の子を見比べて不思議そうに尋ねる。もう一人は猫が落ちそうなのを見て、指を差して大声を張り上げている。
なんとなく、大人相手より子供相手の方がやりやすい気はした。
しゃがみ込んで子供たちと目線を合わせながら、すっかり体に馴染んだ身振り手振りと一緒に口を開いた。
「えーと……あの猫、俺が、助けてみるよ。オーケー?」
自分と樹上の猫を指差して意思表明する。
最初はぽかんとしていた子供達も俺が立ち上がって木に近づくと、コクコクと頷いて応援するような声のトーンで拳を振り上げ声を張り上げた。
「~~~!」
「~~~、~~~!」
「~~!」
木の幹に触れながら背中に幼い声を受けつつ、樹上の猫を見上げる。
鼻の周りと腹が白い毛で覆われて、耳や背中などは黒とも茶色とも言えない色の毛並みをしていて、不安そうにしている瞳と目が合う。
感情が読み取れないネコ科らしい瞳孔に、少しだけ尻ごむ。それから、自分に向かってあれはただの小動物だと言い聞かせながら、木の幹の表面を掴む。
木登りなんてまだ病気に罹る前に遊びで経験したっきりだが、何をどうすればいいのかと迷うことはなかった。
それは偏に、向上した膂力のためだろう。
軽く地を蹴りつつ僅かな木の出っ張りに片手を掛けて、ぐっと体を持ち上げる。
自分の体が浮いている間に伸ばしたもう片方の手で幹の表面を探り、体重を掛けられそうな出っ張りに指を掛ける。
そのまま腕に力を入れて体を持ち上げると今度は手近で丈夫そうな枝に片手を掛けて、殆ど飛びつくように両手で枝を保持した。
懸垂さながらにグイッと腕だけで自分の体を持ち上げて、枝の上に体を乗り出すと一気に枝の上に立ち上がった。
「~~~!」
「~~~~~!」
歓声が下から聞こえるが、一番驚いているのは自分だった。
あの世界で死に続けて、筋トレをし続けてきたがまさかここまで育っているとは。
自分の体がまるで綿か何かのように軽く感じられて、無理な体勢から体を持ち上げても全く苦しくなかった。
こりゃあ一回自分の体がどこまでやれるか把握しておいた方がいいな……と自分の身体能力の把握を今後のやるべきことに加えて、俺は立ち上がった先の枝の上にいる猫に向かって手を伸ばした。
「ほら、こっちおいで。降りるぞー、こっちおいでー」
幼い頃かわいがっていた飼い猫のことを思い出しながら、チッチッと音を鳴らしつつ話しかける。
どこぞの白いクソ野郎や黄色く厳めしい大型ネコ科と違って人の言葉が通じるとは思っていないが、敵意がないことをアピールするためだった。
しかし俺の手の伸ばした先の毛皮の塊は、俺の姿をまじまじと見つめたあとで、意を決したように枝を踏み切る。
下からキャァッと悲鳴が上がった。
視界が暗くなって、顔にもふもふとした毛皮を感じる俺は、それなりに質量のある猫が俺の顔に飛び込んできたのだと理解した。
そして、細い枝の上に立っていた俺は数キロはあるだろう小動物の質量に押されてそのまま後ろに倒れるところだった。
「なッ……!」
いくら鍛えているとはいえ、この高さから頭を打てば無事では済まないだろう。打ち所が悪ければ、それこそ下手すれば即死だ。
死ぬ、こんなところで。
ぞわ、と全身が粟立つ。しかし俺が感じたのは、恐怖による寒気ではなくむしろ熱だった。
一瞬で体内の血が沸騰したような熱さが全身を駆け巡って、心臓が爆発しそうになる。
ぐらりとバランスを崩し、完全に後ろに倒れようとしていた俺の体が別物になったように自在に動く。それまでばらばらになっていたものが、一つになったような全能感で胸が満たされた。
枝から離れる俺の両脚が、逆さに落ちながら空中で枝を探す。
脚の関節で枝を噛むように引っかけて、俺は木の上でコウモリよろしく逆さにぶら下がった。ばさっ、と枝がしなって俺と小動物の体重に葉音を立てる。
「~~……~~~~!」
「~~~~!」
「~~~……」
驚いた顔をして目を覆ったり、口を開けて硬直していた子供達も、一転して安心したように声を上げる。
特に栗毛の女の子は、逆さにぶら下がる俺に向かって手を伸ばすと俺の顔に取りついたままの猫が飛び降りるのをその腕に受け止めた。
「は、はは……あっぶねぇ……」
まだドクドクと心臓が跳ねている。
体がたまたま動いてくれたからよかったが、死を実感したことで肝をつぶした俺は胸の中で改めて思った。
やっぱネコ科はクソだ、と。




