ep19.異世界農村滞在記、一日目
目標更新:虎についていけ→虎の帰りを待て
予想外に疲れが溜まっていたらしくて、俺が目を覚ました時には虎の姿はもうなかった。
俺の学ランはそのままに、虎の荷物だけそっくりそのままなくなっている。
隣のベッドは確かに虎が寝て、起き出した痕跡を残しているが、いつの間に発ったのかとそれすらも気づかずに熟睡していたことを少し恥ずかしく思いつつ、ベッドから抜け出した。
少し腫れぼったい目をこすって、運動靴を履きながら陽の光が差し込む窓に近寄って外を眺める。
のどかな田舎町、という印象だった。
広大な畑が一面に広がっていて、まだ青みがかっている麦畑やトウモロコシ畑の切れ間に農作業している村人が見えた。
その光景が俺達が出てきた森の反対方向であると気が付いて、昨日の暮れに到着した時にはわからなかったが意外と広い農村なのだなと思った。
しばらく畑の様子と、作物を積んで行き交う荷車や駆け回る子供の様子を見ていたが、何とはなしに踵を返してテーブルに目を向けた。
水差しとコップしか置かれていなかった丸テーブルの上に、布を被った皿が一つ置いてあることに気がついて手を伸ばす。掛けてある綿布を払うと、その下には木の皿に乗ったパンが一つ置いてあった。
昨日食べたのと同じようなごつごつとした見た目の硬そうなパンを手に取ると、間に切れ込みを入れられて緑の葉野菜と乳白色の塊が挟んであることに気づく。
長い間眠っていたらしい俺の胃はとっくに昨夜の晩餐を消化しきって空っぽになっていたようで、急激に湧き上がる食欲のままに俺はそれにかぶりついた。
においの強いチーズの臭みを葉野菜の瑞々しさが緩和していて、程よい塩気と旨味で硬いパンをぼりぼりと咀嚼する。
怪しむ間もなく口にしてしまったが、恐らくあの虎が用意してくれたものだろう。生前の俺ならまず噛むことすらできなかっただろう食べ物を健康な顎で噛み砕く。
立ったまま片手で水分を奪うパンを齧りながら、空いている手で水を注いだ。表面が硬く焼き上げられたパンは齧るたびにぼろぼろとパンくずが落ちるので、木の皿でそれを受け止めるのに苦労した。
全部を口に放り込んで水をごくごくと飲み干して、ほう、と一息ついた。
それから、今は何時なんだろうと思った。部屋を見回したところ、時計らしいものは見当たらない。
この村に存在しないだけなのか、それとも文明レベル的に時計が存在しないのかは気になるところだった。
俺がどのくらい寝ていつの間に虎が出て行ったのかはわからないが、寝ている間に帰ってきていないところを見るに昨晩のジェスチャーのピースサインが意味するところは二時間ではなくて二日というのが正解だろう。
まさか二か月、二年なんてことはないはずだが、二日経っても戻ってこなかった場合覚悟する必要があるかもしれない。
まあなんにせよ、これからどうするかというアテもない俺に二日間目的を与えてくれるのはありがたいことだった。
当座の行動指針をこの村で虎を待つということにして、その後のことはひとまず棚上げした。
今日明日はどうするかと考えたところで、とりあえずの生理的欲求のためにトイレを探すことから始めようと思い至る。それからゆっくり村の中を見回ればいいか。
皿に残ったパンくずをざーっと口に流し込んで、菓子のようにぼりぼりと咀嚼しながら俺は部屋のドアに手をかけた。
流石にトイレはどこかと聞くためのジェスチャーは恥ずかしかったが、何事も成せばなるようだった。
言葉がわからずとも思いは伝わるものだなと正しく意図を理解してくれた宿屋の女将に感謝するとともに、あんなジェスチャーをした自分を誇らしく思った。
それからこの世界では風呂などの衛生事情はどうしているんだと思ったところで、宿屋の敷地内の庭に井戸があるのを見つけた。
僥倖にも、そこで上着を脱いだ男衆が汲み上げた水を飲んだり頭から浴びているのを見かけたので俺もそれにあやかることにした。
ひと気がまばらになったのを見計らって、誰も使ってなさそうな木の桶と柄杓の前を陣取る。
周りに倣ってシャツと肌着を脱いで、少し悩んだあとで濡れていない芝生の上に放り投げた。
古き良き滑車式の井戸の脇には手作りの石鹸らしい灰色の塊と歯ブラシ代わりらしい使い捨ての木の枝が添えられていて、傍にある木の籠には噛んだり折られたりして使い終わった木の枝が捨てられている。
下半身を脱がずにうまく上半身だけを石鹸で洗える自信がなかったので、俺は歯ブラシを借りるだけにしておいた。
こんな木の枝を口に突っ込むのは抵抗があったが、表面をすすげば大丈夫だろうと自分に言い聞かせる。
これから労働に戻るらしい男衆の中には、穿いているズボンがそのまま濡れるのも構わずに上半身もろとも頭に水を被って仲間と笑いあう者もいたが、俺にそこまでする勇気はなかった。
ロープを引っ張って汲み上げた水を桶に開けて、柄杓に取るとそのまま洗髪よろしく前掲したまま頭に掛けた。加熱も何もされていない井戸水はそこまで暑くもない今日の気温では少し冷たく感じるが、背に腹は代えられない。
こちらに転生したときの俺の体の清潔度合いがどうだったかはわからないが、一日でそこまで汚れることはないだろうというのはわかっている。
しかし昨日森の中を駆けずり回ってからずっとそのままでいるというのも、現代人として耐え難く感じた。
陽は出ているが風もあって、春の陽気という感じだった。涼しい風に体温を奪われる俺が暖かい風呂に入りたいと一瞬だけ思ったのは自然なことで、体が冷えた上に入院生活から数えるともう随分長いこと湯舟に浸かっていないなと気づいたからだ。
元々潔癖というわけではないが、入院してた時もせめて体だけは毎日拭いてもらってたな……としみじみ考えたところで、そう言えば髪を乾かす方法を何も考えてなかったと思い至る。
まあこの天気だし髪の毛も長いほうではない、陽に当たってればすぐ乾くだろうかと思いつつ、ほかの人はどうしているんだろうと濡れた髪からぽたぽたと水を垂らしながら周りを見渡したところで、こちらに近づいてくる人影に気が付いた。
「シグーラ・スーヤ。~~、~~~~」
「えッ。あ……ありがとうございます」
少し汚れた前掛けをしたブロンドヘアの女性が、にっこりと微笑みながら上裸のままの俺に布切れを一枚差し出してきた。そうか、スーヤって俺のことだったな。
名乗っていないのにどうして名前を知っているんだと思ったが、宿屋で働いてるならその宿泊客のことくらいは知ってて当然だろう。あるいは、虎が事前に伝えたかのどちらかか。
言葉は伝わっていないだろうが、会釈しつつ礼を言って受け取ると女中はまた穏やかに微笑んで、同じように頭から水を被って上半身どころか下の衣服まで水で濡らしている男連中にも布を勧める。
この宿屋で働いているのだろうか、井戸を利用している男衆に慣れた手つきでタオルを配り、時にそのまま談笑しているところを見るにどうやらこの女性の日課のようであった。
渡された一枚布は俺が知っているようなふわふわのタオルとは程遠い、糸を縦横に編んだだけのものだったがこの時代にこのレベルのものを作ろうと思ったらそれなりの労力がかかることくらい俺にもわかった。
ありがたく使わせてもらおうと思い、吸水性は見劣りしてしまう布タオルで髪の毛の水分をわしゃわしゃと念入りに吸い取っていく。
それで、思いがけずくしゃみが出た。
「っは……ぶしゅんッ!」
冷たい水で濡れた肌が風で冷やされたのか、髪の毛をタオルドライしながらくしゃみをした俺に、男衆と話していた女中が金髪を揺らして振り返る。
全身ずぶ濡れの村男が平気で振る舞っている中、これしきのことで寒さを感じている自分がちょっと恥ずかしくて鼻を啜りながら視線を逸らすが……俺の気のせいでなければ女中が近づいてきている。
「~~~、~~~~?」
「へ……?」
それから、足元の水汲み桶を指差して何事かを言ってくるが当然俺には伝わらない。
何かを問いかけているようだが、俺の反応が色良くないのを認めた金髪の女はちょっと考え込んだのちに俺に何かを言い残して宿屋に向かって早足で駆けて行った。
なんだったんだ? と思う間もなく小走りで戻ってくる。めちゃくちゃ早かった。
手には錆びたトングを持っていて、何かを挟んで掴んでいるのが見える。女性は息一つ乱さずに、手に持っていたトングと井戸水の残る桶を交互に差してまた何かを尋ねてきた。
「~~~~?」
「え、あ~……う、うん……?」
曖昧な俺の反応を見て、女中はそれでもそばかすのある顔に笑みを浮かべてゆっくりと頷くと、そのトングを水面に近づけ持っていた大ぶりの塊を水の中へ落とした。
じゅわっ、と音がして水面が僅かに沸き立つ。ごとりと桶の底を叩く重たい音に、焼いた石か、と俺は理解した。
「おぉ……! あっためてくれたんですね、ありがとうございます!」
「~~!」
熱した石を入れられた桶の中にしゃがんで指を浸けた俺が、程よく温まった湯に感激して礼を言うと女中は意図が伝わったことを喜ぶように歯を見せて笑う。
はにかんだような笑顔が素敵だった。そう思ったのと同時に、その無償の気遣いに不思議と向こうの看護婦を思い出してまた少しだけホームシックが顔を覗かせた。
「~~、~~~~!」
木桶の中の石を指差して、今度は自分、そして宿屋の方を示す女中は恐らくもっと欲しかったら言ってください、的なことを言っているのだろう。
「ありがとうございます! サンキュー!」
俺も笑顔で礼を言って、柄杓を手に取る。
湯の中をざっとかき混ぜると俺の拳大ほどもある焼き石の温度が均一に伝わってちょっと熱いくらいだったので、井戸のロープを引っ張って水を足し湯温を調節した。
髪の毛をちょっと乾かしてしまったにもかかわらず、せっかくだからともう一度頭からお湯を堪能する。
水では洗い流せなかった汚れが溶け出ていくようで気持ちいい。ばしゃばしゃと手で湯を掬って顔まで洗ってから、半分濡れたタオルで髪を乾かした俺は今度はまだ温かいお湯で濡らして絞ったタオルで上半身を念入りに拭くことにした。
それでも十分に清潔になったとは言い難いのだろうが、寝たきり生活だった時は毎日こんな感じだったので十分な入浴時間となった。
燦燦と輝く太陽に照らされて、穏やかな風に髪を撫でられながら、さっぱりとした気持ちで固く絞ったタオルでもう一度背中や腕、腋を拭き上げる。そのあとで、残った水でタオルを軽くすすいだ。
水を全部使い切ってから、少量の井戸水を足すと少しすすいだ木の枝を手に持って歯を磨いた。最初は土っぽい枝の味と硬い感触に苦戦したが、細い枝を少し嚙み砕くと繊維状にばらけて広がるので、力を入れすぎると痛いが優しく扱えば歯間までしっかり磨けるようでなかなか快適だった。
うがいをして地面の芝にそのまま水を吐き捨てて歯磨きを終わらせると、後ろの方に放り投げていた肌着とシャツを拾い上げてくっついた草を払う。
乾いた地面に置いてたので濡れてるようなことはないし、袖を通す前に軽くにおいを嗅いでも別に臭くはなさそうだった。まだ大丈夫だなと自分を納得させてから、もう一度身に着けた。
まだ髪は若干湿ったままだったが、俺の髪の短さなら陽に当たっていればすぐに乾くだろう。
歯ブラシを捨てて、絞ったタオルとまだ懐炉のように穏やかな熱を持っている石を手に持つとさっきの女中に返却するために宿屋へ向かったのだった。




