ep18.ミッドナイトゲーム
目標:虎についていけ
ぎっ、ぎっと床板を軋ませて廊下を進み、とある部屋の前で立ち止まった虎は木製のドアを遠慮なく押し開けた。
中は可も不可もない、ツインの部屋という様子だった。
二台のベッドが置いてあって、切り株に足をつけたたような丸テーブルと背もたれのない小さな角椅子まで置かれているのがなんとも宿泊施設っぽい。
机の上には鉄でできた水差しとさっき下の酒場で使っていたのと同じくらいの大きさの木のコップが置いてあった。
壁には衣服や荷物を掛けるためらしいフックが突き出ていて、そこに備えられた金属の台座を伴ったろうそくが燃えて室内に立ち入る俺達を穏やかに照らし出していた。
重厚そうなブーツを履いたまま部屋に踏み込んだ虎が汚れた外套を脱いでそこに掛けるので、俺も土足のまま部屋に上がり込むといい加減暑く感じる学ランのボタンに手を掛けた。
「スーヤ、~~、~~~~。オルド、~~~~」
ステッチの目立つ襟のないシャツと後から大きなポケットを継ぎ接ぎされたようなズボンのみのラフな姿になった虎が、俺に振り返って剣を壁に立てかけながらまた何事かを宣った。
相変わらず何を言っているのかはさっぱりわからなかったが、虎は口を動かすのと同じく身振り手振りに俺と片方のベッドを、そして自分ともう片方のベッドを交互に指差しているので俺にこのベッドを使っていいということだろう。
今日知り合ったばかりの人と同じ部屋で寝るなんて、と思ったがそれも一瞬のことで、そういえば病気が進行して個室に移る前はこういう一般室で寝てたなぁとむしろ懐かしい気持ちになった。
むしろ獣人と、それもネコ科の野郎の隣のベッドで寝るなんてという生理的とも言える嫌悪感から来る懸念を抱いたが、身勝手すぎる差別思想から来るものだと理解していたので無視することにした。
「えーと……こっちで、俺が寝る……ってこと? オーケーオーケー」
学ランを脱いでシャツと学生ズボン姿になった俺は、自分とベッドを示して、それから睡眠するような素振りを返す。そのまま示されたベッドに腰掛ける俺に、虎男が満足そうに頷いた。
なんとかコミュニケーションが取れていることに俺が喜んだのもつかの間、「アー……」と少し考えるような素振りを見せたあとで、虎がまた口を開いた。
「~~~~、~~。~~、~~。~~?」
「え、えーと……?」
口で言ってもわからないと理解しているはずなのに、虎は律義にジェスチャーを織り交ぜつつ言葉を重ねてくるのがなんとも申し訳なかった。
もっとも向こうも言葉で言って理解してもらおうとは思っていないはずなので、大人しくその手に注目する。
それで、虎の大きな手は人と同じような五本指で、単に毛に覆われているだけじゃなく手のひらや指先に毛の生えていない、黒々とした肉球を備えているのがわかった。
いやそういうことではなくて。
虎の手は俺、それから地面を指して、ピースサインを作る。
窓の外を指差して、もう一度ピース。最後にもう一度俺を示して、念を押すように床を指した。
その指は、勝利のブイサイン、というわけではないはずだから数字の二と解釈するのが自然だろう。
そして俺と床……宿屋をしつこく示している辺り、俺にここに居て欲しいということだろうか。
反応を見せない俺に、虎は困ったように狭い額に皺を寄せて更に別のジェスチャーを取る。
「~~~~、スーヤ、~~。オルド、~~~~、~~」
俺とベッドを指差したあと、俺の頭など片手で潰せそうな手を合わせて小首を傾げる睡眠のポーズを筋骨隆々の大男が取るさまは、なんとも見てはいけないものを見ているような気持ちになる。
かと思いきや今度は自分を指差して、両手と両脚を軽く動かして走るような仕草をしてみせた。続いて手を人に見立てて、二本指を足にしてチョコチョコと走らせるジェスチャーをしながら窓の外、あるいは更に遠くを目指すように手を動かした虎はもう一度ピースサインを作って数字の二を強調する。
そして腕を開いて遠くに伸ばした片手を、再び人の足のように二本指を動かして自分の胸の前まで走らせて、最後に床、それから俺を示した。
傍から見たら屈強な男が一生懸命ジェスチャーゲームに興じているようで、失笑を買うだろう。
多分俺も当事者じゃなかったら笑ってた。
というか実際、トラウマを想起させられる恐ろしいネコ科の獣人が……それでなくとも俺のような現代人からしたら立派な虎頭の化物が、懸命に二本指だけチョコチョコ動かしたりして何かを必死に訴えかけてくるさまには不覚にもちょっと笑いそうになった。
一宿一飯の恩人相手に失礼な、と俺の理性が叱るのに従って緩みかけた口元を隠すように手を当てる。それで、卑怯にも「う~ん」と唸る振りで笑いそうになったのを誤魔化した。
虎が言っていることを自分の中でまとめて、逆に聞き返してみる。
ジェスチャーで答え合わせをする俺は、しかし黙ってジェスチャーをする難しさに気づいた。
「え~と……俺が、宿屋とか村の中で二時間? 二日? 寝てる、というか過ごす。で、オルド……さんがその間に帰ってきて、また俺と落ち合う……ってことでいいのか?」
確かにこれ、無言でやってたら馬鹿みたいだな。
誰に見られるわけでもないが話しながらじゃないとジェスチャーをするにも照れ臭さが増すようだったが、ともかく。
俺は座っているベッドと自分、そしてこの周辺や村を示すように立てた指をぐるぐると回して、同じようにピースサインを作って眠るジェスチャーを返す。
その後で、虎を指差してもう一度ピースサインを作って念を押す。
自分の腕を伸ばして離れたところから足元までの二点を指で示して、最後にもう一度俺と虎、そして宿屋の床を交互に指した。
「ジャ」
虎は安心したようにコクコクと頷く。ジャ、はイエスの意だろうか。
ともかく、それで理解した。
どうやら虎がどこかに行って戻ってくるまで、この宿屋に俺に居て欲しいということらしかった。
それから虎は、食べるものは宿屋に用意させておくというようなジェスチャーをするので、どうしてそこまでしてくれるのかという遠慮はあれど特に否定する理由もなくて素直に頷くことにした。
そこまでして世話を焼く俺をここに残してどこに行くのだろうという疑問はあったが、言葉が通じないのでそれ以上の説明を求めるのは難しそうだった。
もっともこの虎はネコ科にしてはそれなりに誠実なようなので、戻ったらちゃんと説明してくれるはずだと自分に言い聞かせて心を落ち着かせる。
意図が伝わったと見ると、虎はひと仕事終えたような面持ちで踵を返して丸テーブルの上の水差しからコップに水を注いだ。
「あっ、オルドさん。俺にも水ください」
水差しを持ったままの虎に声を掛けながら、自分のコップにも水を次いでほしいと指で示した。
呼ばれた虎は俺の指が差すものを理解すると嫌な顔ひとつせず、もう一つのコップを水で満たしてベッドに座っている俺に手渡してくれた。
でっかい手は全体を覆う山吹色の毛並みと手のひらの白い毛並みのために焼いたクリームパンみたいだな、と思った。
「ありがとう、あー、さんきゅー。てんきゅー、シェイシェイ……って言ってもわかんないんだよなぁ」
「~~~」
せめて礼くらいは伝わって欲しいと思って、ダメもとで知ってる限りの言語を試す。
まあ言葉はわからずとも、ぺこりと頭を下げたことで謝意は伝わったはずだ。
口にした水は、思いのほかひんやりと冷たくて夕食を消化する体を優しく冷やしてくれるようだった。
一口飲んでひと息ついた俺は、腰掛けているベッドに目を向ける。掛けられている毛布は思ったより厚手のしっかりしたもので、手触りも柔らかい。
マットレスも、縫って繋げた革を袋状にした中に藁を敷き詰めたものを木の寝台の上に用意しているようで、身じろぐ度に藁がわさわさと音を立てるのがわかった。
相当な量を詰め込んで押し固めているのか、俺程度の体重ではそう簡単に潰れてへたれるようなことはなさそうだった。
何の生き物かはわからないが動物の皮を素材にしている点も、中の藁が突き破って出てこなくて非常に快適だった。
意外と質の良いベッドだなと思いながら寝具を検めつつもう一口水を飲むと、立ったままの虎がことりと自分のコップをテーブルに置いた。
「~~~~」
「えっ、何……あぁ、もう寝る? わかりました」
虎は水で濡れた猫っぽい口元を手の甲で拭いながら、壁の燭台に手を伸ばしていた。
なんとなく灯りを消そうとしていると理解した俺は、今が何時かもわからないがどうせやることもないし、と頷きながらコップをテーブルの上に戻す。
「おやすみなさい」
「~~、~~~~」
虎の顔が、窄めた口からフゥッと息を吹く。ろうそくに灯る火が消されて、室内を夜の闇が覆う。
ごちっ、ごちっと闇の中を虎のブーツが床を踏む音がして、続いてぎしりとベッドを軋ませると早々に布団の中に潜り込む巨体の陰が蠢いているようだった。
起きていても特にやることがない俺もそれに倣って、今日一日でだいぶ泥に汚れた運動靴を脱いでベッドに入る。
細かい豆や砂のようなものが詰められた麻布の枕に頭を預けて仰向けになると、肩まで毛布を羽織った。
ドアの外から階下のどんちゃん騒ぎが微かに聞こえてくるのと、客室内の窓から色々な生き物の鳴き声がして少し落ち着かない。
ワイシャツと学生ズボンのままベッドに仰向けになって、水分を吸った食べ物でどっしりと重たくなった腹が消化に動いているのを感じると途端に自分が生きているという実感が湧くようだった。
ああ、俺本当に異世界にいるんだな。
異世界で、生きているんだな。
フィクションだと思っていたものを実際に目の当たりにして、微かな高揚が俺の心を包む。
現実離れした状況にはあのご都合的な世界で散々慣れたはずだが、あの時は本当に異世界に行けるのかと半信半疑だったのでこうして実地での生活を体験すると環境の変化をしみじみと実感させられるようだった。
しかし、この先どうするかという不安もある。
虎の厚意でなんとか一宿一飯にはありつけたが、今後はどうするというのか。
言葉も通じず、何の知識もない土地で生きていけるのか。
どうにかなるさ、と楽観的にはなれなかった。不安が胸をよぎると、今度はわけもなく寂しくなった。
本当に、俺はもう日本には帰れないのだ、と思ったからだ。
戻りたいと願うわけではない、何せ自分は死んだ身だから。
病に侵され世界を去り、たまたま別世界で生き返っただけの存在だ。
でも、今こうして五体満足で生きていると、死ぬ前の両親の顔を思い出してしまって郷愁にも似たどうしようもない悲壮感が俺を包む。
その感情に戸惑ったのは、死後の世界で殺され続けていた状況ではそんなこと全く思わなかったからだ。
俺を挫き続ける猫野郎に対する怒りと復讐心のためもあるだろうが、睡眠も食事も必要とせず死ねば生き返るあの状況があまりに現実味を欠いていたからこそだろう。
ところがこうして一日中歩いて、食事をして、眠りにつく今。
本当に生きていることを実感すると、どうして俺はこんなところにいるんだろうという理不尽で幼稚なホームシックが途端に俺に牙を剥いてくるようであった。
両親にもう会えないのは死んだ瞬間に覚悟したはずだった。こうして異なる地で第二の人生を歩むと決めたのは自分だった。
だのに、自分で選んだこととはいえこうして実際に異世界で第二の人生を得ると覚悟が揺らいでしまう。どうしてこんな生活を向こうでできなかったのかと怒りすら湧き上がる。
会いたいと思ってももう会えないのは死ぬ前にもわかっていたはずだった。だけど死んでなお、こうして会いたいと思って苦しむとは思ってもいなかった。
俺の知っている異世界転生では、こんな感情になると描いてなかった。理想と現実の差異を今はただつらく感じる。
理屈の通じない感情に、惜別に目の奥が熱くなって、喪失感に胸がじんじん痛んだ。なるべく音を殺して鼻をすすりながら、俺は目を瞑り続けた。
光のない宵闇が俺を臆病にする。
微かに聞こえる他人事のように盛り上がる宴会の音が徐々に遠のいていって、俺は眠りに落ちた。




