表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

164/175

Exep7.美の毒婦-1


 江本芽美えのもと めぐみは指先が震えるような憔悴を抱えながら、懸命に足を動かし続けていた。


 飼い犬を庇って道路に飛び出たと思ったら、セーラー服のまま豊穣神デメテルの遣いとしてアパシガイアの世に転生した芽美にとって、異世界転生なんてネットやツイッターで見慣れた設定だった。

 そうか、自分は異世界に来てしまったのかと理解した芽美は、比較的素早くこの世界に順応した。

 言語体系も文化も違うこの世界で芽美が森の中の川沿いに小さな拠点を構え、その畑で作った野菜を町に出荷し小金を稼げるようになったのは元の世界に帰りたいと泣きじゃくる芽美に気を使ったデメテルにより授けられたスキルのためである。

 言語の壁を取り払われ、念じれば岩をも砕く羽のような鍬にも水の満ちた如雨露にもなる不思議なスコップを授けられた。ほかにも過去にプレイした牧場経営ゲーム、サンドボックスクラフトゲーム、そして園芸部だった頃の知識なんかも芽美の助けとなった。

 飼い犬のことだけが心配だったが、自分のおかげで一命を取り留めたと女神デメテルに言われたことでそれも踏ん切りがついた。それでも、死んでしまったものは仕方がないと割り切るまでしばらく時間はかかったが、ともかく。


 今では、自分はこちらで精いっぱい生きていこうと前向きに考えている。そして当然ながら殺し合いなどに関与する気さらさらない。

 ひっそりと人目につかないところで生き続けて、それからのことはその時考えよう。

 マイペースで少し気の弱いところのある芽美は、努めて楽観的に異世界生活に挑んでいた。


 しかし、今。

 芽美は走りながらどんどんひと気の少ないところに向かっていることに気が付いて冷や汗を流す。

 大きな湖を囲むように広がっている町は淡水魚や貝類が名産で、町の中心部から離れれば離れるほど漁師小屋が並んでいた。

 まだ日も高いはずなのに周囲にひと気がないのは、もう今日の漁が終わったためだろう。市場のおじさんにこれくらいの時間、昼過ぎにはもう漁を終えてみんな飲みに繰り出すのだと聞いたことがあった。


 最初はただの予感だった。

 誰かに後を尾けられている、と思ったのは視界の端で同じローブがチラついていたからだ。

 振り返るたびに見かけるその姿に、あの人さっきも見たような、というのが数度も続けばいやでも記憶に残る。

 まさか自分を追っているのかと思った芽美が弾かれたように走り出したのは、そのローブの下から妖艶な女の微笑みと……美しい黒髪がひと房こぼれ落ちたからだ。


 ヨーロッパ人に似た見た目の人物に加えて、ファンタジーものらしく動物が二足歩行しているような獣人が多いこの世界でも完全なる黒髪が希少であることは芽美も散々身をもって知ったことだ。

 鼻の高い西洋人達に黒髪を珍しく、あるいは気味悪がられるのはもはや挨拶のようなものだと芽美は割り切っている。

 とはいえ、顔の造りなどがアジア人そのものである芽美は、コンプレックスである団子鼻と低身長のせいもあって何度子供と間違われたことかわからない。日本では今年から十八歳が成人だというのに、芽美は未だに初対面の人にはしばしば幼児扱いを受けていた。

 そんな芽美だからこそ、人ごみの中から自分を見据えている黒い髪をした女性の顔立ちにはすぐにピンときた。


 あれは、間違いなく日本人だ。

 この世界に日本という地名は存在せず、黒髪の人種が稀であることは確認済みだ。

 であれば、遠巻きからはっきりとこちらを認識し、それどころか人混みの中で長いこと付け回してきていた彼女は自分と同じ日本から来た神の遣いと見ていいのかもしれない。

 だが、何のために?


 確たる証拠があるわけではないが、自分たちが何のためにこの世界に送られたのかを考えれば、答えは一つを置いて他にないだろう。

 駆け出した芽美は、自分がろくに帽子も被らず出歩いていた迂闊さを後悔しながら、最初はどこかで見失ってくれればと思って何度か訪れたことのあるこの町を歩き続けた。

 しかしどれだけ逃げても、追跡者はぴったり芽美を追ってきた。

 神の遣いとしてそこにいる以上、何か特別な力を与えられているのかもしれない。芽美がそうであるように、人知の及ばぬ能力があると考えて然るべきだ。

 女は、それで自分を付け回し、追いつき、最後には殺すのだろう。


 今まで呑気に構えていた芽美は、そこに来てようやく自分の命が狙われていることの恐怖を覚えた。

 追跡者に攻撃してくる素振りはない。ただどこへ行こうと、どこに身を潜めようともぴったり追跡者は現れる。こんなことなら市場に戻って誰かに匿ってもらえばよかったと後悔した。


 半狂乱になりながら、芽美は扉の空いていた小屋の中に飛び込んだ。

 まるきり不法侵入だが、無人なのが幸いした。立ち並ぶ樽の脇にしゃがみ込んで息を潜める。

 入ってくるな、行ってしまえ。

 そう思いながら荒くなった呼吸を必死で抑える芽美は、祈る心地で小屋の入り口を見つめていた。


 そのうち、ドアにスッと影が差した。鍵なんてない木製の扉は、追跡者によってギィイと開いて暗い小屋の中に光で照らす。

 来るな、来るな来るな来るな。


 芽美の祈りは届かず、追跡者はローブを靡かせてぎしりと小屋に立ち入る。頭から布を被ったその人物はきょろきょろと小屋の中を見回していた。

 生臭い樽と樽の隙間から逆光の中にいるその人を見つめながら立ち去ってくれるのを祈っていた芽美は、黒髪の束が額にかかっている美しい女の目がはっきりと自分を捉えるのがわかった。

 それと同時に、見間違いでもなんでもなく、日本人であると確信した。

 ばっ、と勢いよく立ち上がった。

 人違いであれば、今の自分は他人の小屋の樽から飛び出してきた変質者のように見えるだろう。そうであってくれればどれだけ救われることか。


「うッ、動かないでください!! わたしに何の用ですか?!」


 ついに追跡者と対面した芽美は、手に金色に光るスコップを構えていた。

 スコップは淡く発光して、水面に映る月のように芽美の思い描く形に変わる。草刈りや収穫に使う鎌の切っ先を向けられた女が、目を見開いてびくりと一歩後ずさった。


「あ……」


 追跡者の口から息が声になって漏れる。殺意に満ちているわけでも、慌てているわけでもない、怯えて震えた声のように聞こえた。

 しかし芽美は見せびらかすように鎌の切っ先を突き付けて、強い口調で言う。


「その顔、日本人でしょ。あなたも神の遣いなんですよね? わたしを……殺す気?」


 自分が凶器を持っているからか、あるいは追われていた精神的恐怖の復讐のためか自然と語気が強まる。

 自分より背の低い芽美に脅された追跡者は……自然な手つきで自分のフードを下す。

 ばさ、と濡れたような美しい黒髪が女の背中にかかる。髪は毛先に向かうほど茶色くなっていたが、芽美にはほとんど黒にしか見えなかった。


 切れ長の目に細い眉、スッと通った鼻筋の下では色艶の良い唇がわなないていて、全てのパーツが整っている。

 冷静になって観察してみれば、まるでモデルか何かのように美人だった。自分と同じくらいだろうが、大人とも少女とも言い切れぬ不思議な魅力がある。

 芽美は女の顔を見て、妙な感覚を覚えた。自分はこの女に命を脅かされたというのに、この女性を守らなくてはいけないと本能が叫んでいる。そんなことをする義理はないのに、どうしたことか。

 しかしその感情は、女がその場にウゥッと蹲ると余計に強くなった。何のつもりだと驚いた芽美は、その顔を見て更に驚いた。


「ごっ、ごめっなさい……あ、あたしっ……そんな、つもりじゃ……」


 膝から頽れながら謝罪を口にする女は、許しを請うように両手を胸の前で握りしめてぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。

 それで気が付いたが、女は簡素な布服とズボン、それとローブ以外に何も身に着けていないし何も持っていなかった。

 手ぶらで、凶器の類は持っていないことを認めると途端に芽美の中から闘争心が失われていく。

 女は続ける、聞いているだけでも気の毒に思える声で。


「あ、あたしっ……ずっと、この町で働かされてて、言葉も通じないし、怖くて……それで、同じ日本人がいるって思って、つい追いかけちゃっただけなんですっ……」


 毒気を抜かれた芽美は、殆ど無意識に武器を下げていた。この目の前の気の毒な女からは、こちらを害そうという敵意は一切認められなかった。

 それから考えたのは、確かに自分は農具を与えられ言葉も通じるようにしてもらったが、他の遣いがそうであるとは限らない。

 如何にも現代慣れした弱々しそうな目の前の女の子が、急に中世ファンタジー世界で生きていけと言われても普通は無理だ。

 なんだか自分が悪いことをしているように思えて、芽美は口を開く。


「そ……うだったんだ、ごめん、わたし、てっきり命を狙われているのかと思って……」

「ぐすっ……い、いえ……あたしが、悪いんですっ、ごめんなさい……ごめんなさいっ……」


 鎌を下した芽美はその場に膝をついている女と目線を合わせるようにしゃがみ込む。

 真っ赤に腫れた目は痛々しく、頬がこけている彼女がけして楽な生活を送ってきたわけではないことはすぐにわかった。

 芽美は目の前の女の子を守ってやりたいという衝動にも似た思いに突き動かされて、口を動かす。


「あの、わたし江本芽美って言います、あなたは……?」


 女は泣きながら、しかしはっきりと芽美の目を見て答えた。


「ミツハ……有馬光羽です」

「有馬さんは、いつからこの町に?」

「あの……あたし、ずっとここにいました……」


 えっ、と驚く芽美からは光羽に対する警戒心など微塵もなくなっていた。

 光羽はまだ潤んでいる瞳をぱちぱちと瞬きさせて続ける。


「その、あたし言葉も通じなくて……よくわかんないうちに、お店で働かされて……今まで、ずっとそこにいたんです」

「お店、って……」


 芽美にはその店がどのようなものなのか予想できた。

 それから、予想するのは簡単だったのに、それでも尋ねた自分のデリカシーのなさを悔いた。


「……その、男の人と……」

「ごめん、変なこと聞いた今のなし。そっか、そうだったんだね」


 この湖は西国の運河に続いていると市場のおじさん達から聞いたことがある。

 そのため漁師以外にも船乗りや、西国に向かおうとする冒険者などの荒くれも集う町だ。

 そんな働き手の男連中から金を搾り上げるために、あるいは彼らの娯楽のために、所謂風俗店の数も少なくない。

 この世界に勝手に送り込まれ、身寄りのない美しい女の子に言葉も通じないまま客を取らせる店や男どものことを考えると腸が煮えくり返るようである。

 光羽を、女をなんだと思っているのかと憤る芽美の空気を察したのか、光羽はずっと堪えていた弱音をこぼすように呟く。


「……い、市場で芽美さんを見かけてっ、殺し合えなんてカミサマは言ってたけど、あたしこのまま一生ここで働いてるのかなって考えたら追いかけずにいられなくって……それで……ごめんなさい、あたしのせいで、芽美さんにイヤな思いをっ……」


 そこまで聞いて、芽美は思わず光羽のことを抱きしめていた。

 弱々しく吐露を続ける女の子の心情が痛いほど伝わって、何か力になりたいと無条件の庇護欲に突き動かされて、芽美はその華奢な体に腕を回す。


「ううん、いいよ。そりゃあちょっとは驚いたけど、そういうことならいいよ。全然大丈夫」

「あっ……りがとうございますっ……」


 光羽は抱き返すこともせず、またはらはらと涙をこぼす。

 元は活発な女の子だったろうに、こんなに擦り切れてしまうまで男どもに搾取され続けてきたことを考えるとやり場のない怒りが芽美の腕に力を入れる。

 安心して泣き出してしまう気持ちは痛いくらいわかるが、痛くならないようにぎゅっと力強く抱きしめて、芽美は続けた。


「それならさ、よかったら……ウチに来ない?」

「えっ……?」


 少し体を離した芽美と密着したまま、光羽は泣き腫らした目を丸くする。


「わたしもなんで殺し合いなんかする必要があるんだって思っててさ……有馬さんさえよければ、わたしここからちょっと行ったところに……北東くらいかな? そこに畑作っててさ。狭いけど家も作ったんだ、川の水だけどシャワーもあるよ!」

「えっ……す、すごい……!」


 ほとんど神様のスキルのおかげだけど、と芽美は照れ隠しして、続ける。


「それに、カミサマのこともそうだけど……事情も言葉も知らない有馬さんをずっとそんなところで働かせてるのってすっごく許せない、女をなんだと思ってるんだーって感じ! そんなの逃げちゃってさ、二人でのんびり暮らそうよ!」

「でも……い、いいんですか……? あたしなんか……め、迷惑じゃ……」

「ううん、全然そんなことないよ! 一人じゃ心細かったのはわたしも一緒だし、二人でそんなのそっちのけでスローライフしようよ! ど、どうかな?」


 問われた光羽は目を丸くして、それからくしゃくしゃに笑って遠慮がちに芽美に抱き着いた。

 それだけで芽美の心は充足感に満たされ、緊張していた体の芯が解きほぐされていくような安らぎを感じた。


「うれしいっ……うれしいです、是非ご一緒させてください……!」

「うんうん、もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」


 先のことはあまり考えないようにしていたが、芽美とて不安を感じていないわけではなかった。

 友人と言える友人もいなくて、寂しさを感じていたのも事実だ。定期的に町に野菜を売りに来るのも、誰か話し相手を求めてのことに他ならなかった。

 人間は社会的生物で、一人では生きていけない。そのことを痛感した芽美は、腕の中で泣いて震えている弱々しい女の子を何としても守り抜くつもりだった。

 自分を頼ってSOSを出してくれたこの子を食い物にしようとする全てから守る、運命を信じるわけではないが、それが自分がこの世界に来た理由なのかもしれない。

 そう思った芽美は、ふと思いついてばつが悪そうに言う。


「その……それとさ、わたしこそごめんね。わたし、有馬さんがわたしのこと殺そうとしてるって思って……殺されるくらいならやり返してやれって思ってさ……最低な勘違いだったよね、ごめんね」

「えっ……?」


 驚いたような声を上げる光羽は、しかし芽美と抱き合ったままふるふると首を振るとその体をぎゅうっと抱きしめ返す。


「ううん、いいんです。今こうして、あたしのことも許してくれたじゃないですか、だから、いいんです」


 芽美は心の中に温かいものが満たされて、あぁ、と息を漏らした。

 知らないうちに自分も泣いていた。誰かと許し合えるのが、そして辛い境遇を分かち合える誰かがいるのがこんなにも頼もしく嬉しいことだとは知らなかった。

 この先も野獣の潜む夜は怖いし、家族を思って泣くことだってあるだろう。しかし、それも誰かと分かち合えるのならなんだって乗り越えられる気がする。

 もう何も怖くない。ぎゅっと細い体を今一度強く抱きしめる芽美は、その音を聞く。


「それに」


 光羽の声が耳元で聞こえる。囁くような声の後ろで、小気味よい音がした気がする。

 丸いキャベツを半分にした時のような、あるいはレモンをカットした時のような。きっとよく研いだ包丁でなければそんな音はしないだろう。えー、この料理番組では、レモンとサーモンのカルパッチョを作ろうと思います……。


 滂沱の涙を流しながら、芽美は首の辺りがカッと熱くなったような気がした。体温が上がったのか、首から下がひどく生暖かい。身じろいだ衣擦れは重く濡れた音をしている。

 何かおかしい。ねえ有馬さん、何か変じゃない? 目を見開いたが、もう喉からは掠れた息しか出なかった。


「実際、その通りだもの」


 拾い上げていた鎌の刃を首の半分まで進めると、腕の中の体はぴくりとも動かなくなった。

 光羽は鬱陶しく自分の体に凭れ掛かるそれを、横にずらして立ち上がる。

 どう、と倒れ伏した躯を見下ろしながら、引き抜いた鎌をしげしげと眺める。

 ものすごい切れ味だ、こんなものを向けられていたのかと思うと先制攻撃されなくてよかったと安心する。

 初めて人を殺したけど、何てことはなかった。ちょっと趣味の悪いパパにクラスメートを紹介したっきり会わなくなるようなものと考えれば、別に今更騒ぐことのものでもない。


 それに、最初はどうかと思ったが、意外と便利なものだ。

 魅了というやつは。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ