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Exep5.黒い太陽-5

 体中の泥や垢を洗い流し、ぱりっとしたシャツに身を包んだ桐生はやたらと広い廊下を黒山羊に続いて歩いていた。

 異形の魔物だらけの屋敷でゆっくり風呂に浸かるなんて普通の人間なら耐えられないだろうが、強いストレスに晒され続けて疲弊した桐生の心はもはやそんな繊細さなど持ち合わせていなかった。

 結果、湯がかけ流しになっている大理石の浴槽へろくなかけ湯もせずじゃぶんと浸かった桐生は、温かい湯に張り詰めた心が解されるように思いがけずリラックスできた。

 それと同時にこれまで自分が受けてきた仕打ちを思い、日本に帰りたいと少しだけ泣いた。魔物の世界にもどうやらっ脱衣場という文化はあるようで、泣き腫らした目で浴場を後にした桐生に用意されていた上等なバスタオルと衣服で身嗜みを整える。

 外に出ると、廊下に直立不動のまま立っていた黒山羊ににっこりと笑まれて、先導されて今に至るわけだが。


 ショッピングモールほどの広さがある廊下は自分たち以外にも大勢の生物が行き交っていた。そのどれもが異形で、触手を持っていたり、馬の下半身をしていたり、翼や角のある人間だったりで桐生は落ち着かない様子で辺りを見回していた。

 こんなところをただの日本人である自分が歩いてていいのかという思いがあったが、不思議と恐怖は感じなかった。

 それはその異形達が仲間内でぺちゃくちゃとお喋りをしていたり、籠いっぱいの果物を抱えて早足で通り過ぎたりとどことなく人間味があったからかもしれない。

 どちらかというとそれこそハロウィンパーティーの仮装行列を素面で歩いているような心地で桐生は辺りを見物していた。


「魔物の姿は珍しいでしょう」


 前を歩く黒山羊がこちらを振り返りもせずに言ったので、一瞬自分に言われていると思わなくて反応が遅れた。


「……あ、いや……まあ、そうッスね」

「ふふ、慣れれば気のいい者達ばかりですよ。もちろん見た目通り荒っぽい者もおりますがね」


 やっぱり魔物なんだな、と思ったのと同時に、どうして自分がこんなところに呼び出されているんだとも思う。

 ただ、こうして対話ができるだけでもアイツらよりよっぽど理性的で、親身になってくれるように感じてしまう。桐生は、誰かと言葉を交わすのはすごく久しぶりのことのように思えた。


「彼らへの挨拶はまた時間をとって行いましょう、今はまず食事に……」


 相変わらずこちらを見ようともしない黒山羊がぴたりと足を止めた。

 背中にぶつかりそうになって思わずつんのめる桐生は、キンキン響く金切り声に思わず辺りを見回す。


「ようブエル、美味そおゥゥな餌連れてるじゃねぇか」

「控えなさいローウェ、新たな王の御前ですよ」


 金切り声は桐生の頭の中で日本語として響いた。なんだ、誰の声だと思っていると、周りの魔物達もこの声が聞こえているのか慌てた素振りで黒山羊と桐生達から距離を取る。

 まるで巻き込まれるのを避けるような素振りが気になったが、自分たちを中心に半径数メートルほどに無人の空間ができるとキンキンした声が笑い出す。


「王……? あぁ、こいつが? このニンゲンが?! 冗ゥゥ談言うなよ!」


 ひゅんっと風切り音がした。全力のシュートよりもなお早い何かが通り過ぎて、びしりと床に切り込みが走る。

 自分の頬を何かが伝うのを感じて、ぱっくりと切られているのに気付いた。攻撃された、と理解すると同時に声は挑発するように喚き散らす。


「ギャハ! 血だ! 赤い血だ!」


 再び何かがすぐそばを通り過ぎる気配がして、反射的に仰け反った桐生の髪がはらはらと舞う。


「おゥゥいニンゲン、やられっぱなしか? それでもアタシらの王かよ、やり返してみろよ!」


 びゅんびゅんと姿の見えない何かが自分の周囲を飛び回っている。下ろしたてのシャツが、耳が、腕に切り傷が走って、思わず両腕で顔を覆った。

 何が何だかわからない。王って何のことだ、どうして俺が喧嘩を売られなくてはならないんだ。

 無抵抗に嬲られ続けながら、自分の周囲の床がザクザクと切り刻まれていく。衣服どころか生皮を切り裂かれ、全身にちりちりとした痛みが走った。

 腹の底から沸々とした怒りが湧き上がってくる。命を狙われているストレスに目の前が真っ赤になって、桐生の体から太陽の魔力が迸る。


「ローウェ、いい加減に……」


 ブエルと呼ばれた黒山羊が言葉を止めたのは、防御のためだった。

 桐生が不可視の声の主を完全に捉えたわけではない。ただ、ブンブンと傍を飛び回っていることは確信していた。

 その姿を視認できないのはともかく、攻撃のために接近されていることは明白だった。

 ならば近寄らせなければ良い。


「おいどうしたニンゲン! もっと赤い血流して泣いてみッ……」


 ごッ、と視界が朱に染まる。

 通常の炎術と違い周囲の気体を燃焼させることで炎を展開するわけではなく、『燃えている』という結果を先んじて現実に引き起こす炎は、この世の因果に手をかけたものである。

 ローウェと呼ばれた魔物の巻き添えになりたくないと遠巻きに見守っていた魔物達ですら、瞬く間もなく発火した黒髪の人間に驚くのは仕方のないことだった。

 炎の規模、そして展開速度が並の魔術師のそれでないことは明らかで、詠唱やイメージの繋ぎもなしに炎柱をその場に顕現させた桐生の術はこの世に存在する魔術と一線を画す、まさしくおとぎ話に聞く魔王の魔術そのものである。


「ッぁ……ぎ……」


 六秒ほど続いた激情に桐生が我に返ったのは、どちゃりと傍らに何かが崩れ落ちるのを聞いたからだ。

 そのころにはもう炎を収まっていて、床にあちこちが焼けて爛れた姿を晒しているのは両腕が翼になった半裸の女性だった。

 両腕から濃茶色に蕩けてぶら下がっているのはおそらくは彼女の羽毛だろう。昔やっていたカードゲームにハーピィという種族がいた、それに似ている気がする。

 先に攻撃された手前加減したつもりはない桐生としては、その魔物がまだ原型を留めているのが不思議だった。

 虫のように身じろいでいる焦げた女を見下ろし、必要とあらばとどめも刺すつもりだったが。


「……ふふ、素晴らしい。我らが王に相応しき炎でした」


 ヴーン、と鈍い振動音を立てて姿を現した黒山羊が一つ目を細めて微笑む。防壁に似た何かを展開していたようだが、それが何かまではわからない。

 友好的に見えるその顔は相変わらずちょっと不気味だった。


「お怪我のほどはいかがですか? すぐに止血しましたので大事には至っていないはずですが……あぁ、それはもうお好きになさって結構ですので。我らが王に働いた不敬を思えば当然の報いでしょう、何でしたらわたくしめが処理いたしましょうか?」


 にこにこと喋る黒山羊は嘘は言っていないのだろう。しかし、顔見知りの仲だろうに重傷を負っているのを見てなお平然としているどころか自ら手にかけようとしているその倫理観は桐生の常識からは逸脱していた。

 もはや目の前の全てからは著しく現実味を欠いて感じられる。桐生は出来の悪い映画でも眺めているような心地で、自らが意思を持って他者を加害したことすらどこか他人事に感じていた。


「……いや、いいッス。それより、聞きたいことが山ほどあって」

「そうでしょうともね。では先を急ぎましょう、疑問は今のうちに整理しておくことをお勧めしますよ」

「今答えてはくれないんスか?」

「えぇ。密談は然るべき場所で交わされるべきですから」


 どういうことだと言及したい思いはあったが、座って落ち着きたい気持ちもあった。

 それ以上何も言わない桐生に、ブエルと呼ばれた黒山羊は満足した様子で歩き出す。

 もぞもぞと動く黒焦げのハーピィと、恐ろしいものを見る目を向ける魔物達を後にして。

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