EXep2.黒い太陽-2
異世界で目が覚めた桐生は、極めて冷静だった。
何せそれは、話に聞いていた情報から抜けきらない、自らが想像しうる範疇のものだからだ。
「……神の遣い、ね……はは、ホントに俺、死んじまったんだな……」
一人ぼやいても誰も返す者などいない。桐生は、中世ファンタジー感溢れる草原に一人立ち尽くしていた。
決勝前夜。桐生はマネージャーと共に部員らと宿泊しているホテルへ戻ろうとしていたところだった。
優勝したら聞いてほしいことがある、と語る桐生の手を握り、絶対勝ってねと語るマネージャーを心から大事に思っていた。
この存在のためなら何でもできる、と自分に無敵の力が湧いてくるのを感じていた桐生は、歩道橋を降りる間際に背後から駆け寄ってきた何者かに強く背中を突き飛ばされた。
手を繋いでいた彼女諸共階段を落下する桐生は、無意識のうちに彼女を空中で抱きかかえる。ゴールキーパーなんて小学校のころにやったくらいだが、その頭を両腕でがっちりと抱きしめて重力に身を任せた。
強い衝撃、視界に星が散って、意識が消失する。
次に目が覚めた時、目の前にあったのは……燃え盛る炎のような衣をまとった筋骨隆々の大男だった。
いったい何の冗談だと思ったが、アポロンと名乗った大男が言うにはどうやら自分は死んでしまったのだという。
そして、成仏するだけの命を自らを神と自称する大男の手先として異世界に転生させられるようだった。
何の目的で、かと思えば自分と同じように召喚された人間をその異世界とやらで探し出し、皆殺しにしろと言うではないか。
馬鹿なことを言うな、元の世界に帰してくれ、人殺しなんて恐ろしいことはできない。
そうごねた桐生に、大男はもし異世界で最後の一人として生き残れば、生き返ることができるかもしれないと語った。
ただし確証はないようで、見事最後の一人となりこの白人らしい顔立ちの大男を主神の座に就かせることができれば、その計り知れないほどの力で元の世界に体を一つ作ることもできるのではないか、と語った。
そんな胡散臭いことのために人殺しなど……と思う一方で、桐生の頭はどこまでも冷めていた。
ほかに選択肢がない以上そうするほかない。こんな非日常に巻き込まれてしまったのだ、日本に帰るためなら何でもするべきだ。
思い通りに盤面を動かすゲームメーカーでも、この不可解な状況は打開できそうにない。自分が真に死者だという確証もないが、今はこの大男の言う通りにするほかないと理解した桐生の決断は早かった。
それから大男は桐生に力を与えると言って、炎を操る力を授けた。
まるでゲームやアニメみたいだな、と自嘲する桐生は、青くも茂ってもいない広々とした芝の上でしばらくその炎を操って自分の力を試し続けた。
ある程度操れるようになってから準備ができたと告げると、とんとん拍子に場所を移される。自分と同じような日本人が集まってくるのをしばらく立ち尽くしたまま眺めていた桐生は、眩い光が立ち込めたと思った……地平線の続く平野に立たされていた。
天然の芝に覆われた草原には誰かが切り開いたような街道が続いていた。むき出しの土が踏みしめられた、明らかに人為的なものだ。
ならばこの道の先には人がいるんだろうか、と桐生は一人歩き出した。
それから半日もせずに、桐生は周囲をぐるりと壁に囲まれた街にたどり着く。
出入口らしい門には時代錯誤な装備をした兵士が立っていたが、門を通る馬車や擦れた衣服の旅人に欠伸をしているほどで、どうやら通っても大丈夫そうだった。
スポーツ用のウインドブレーカーにジャージ姿の桐生は門番どころか通行人にもじろじろと見られたが、声を掛けられたり引き留められたりすることはなかった。
石造りの住居や井戸から水を汲む住人、それに行き交う馬車を見て、桐生はここが中世ヨーロッパに似た異世界であることを理解した。
トレーニング用のジムもスマートフォンもなさそうなこんな世界で生きていかなくてはならないのか、と思って気が重くなる桐生は、路地の奥に見覚えのある人影が、見るからにガタイのいい男たちに引きずり込まれていくのを見た。
まさか、と思ってその姿を追いかけた桐生は、自分の所属していたサッカー部のマネージャー……によく似た女性が泣きながら男達に取り囲まれているのを目の当たりにする。
『おう、何か用かよ兄ちゃん』
『へへ、混ぜてほしいってか?』
スペイン語と英語を混ぜたような言語は、海外サッカーにも興味のある桐生にもわからなかった。
ただひとつ、そこで震えている女性は自分のよく知る想い人と瓜二つであり、何か望まぬ暴行を受けるところだったというのは明らかだった。
『た……助けてください……わたし、何もしてないのに……!』
異国の、あるいは異世界の言葉を喋る女が見知らぬ他人であることは疑いようもない。しかし、その目、その声、不安な時に服の脇腹をぎゅっと掴む癖、何もかもが桐生の知る姿だった。
そこで桐生は理解した。
自分がこの世に贈られた理由はこれなのか、と。
自分がヒーローならばさしずめこの女はヒロインで、自分は神から授けられた力と共にこの世界を生きて、最終的に神とやらを打ち倒しこの世界と神々を統べる神王となるのだ。
つまりこれはその序章。桐生は、むしろ不敵に笑ってごろつきどもに日本語で語りかける。
「あー、悪いんスけど……そこの女の子、俺の知り合いによく似てるんスよね。悪いけど他当たってくれませんかね」
言いながら、身振り手振りで女の子と自分を指さしたり、男どもを払いのけるようなジェスチャーを繰り返す桐生に、ごろつきどもの目の色が変わる。
どうやらこの奇妙な服装をした男は自分たちから獲物を奪おうとしていると理解したのか、前時代的な剣や棍棒を丸腰の男に向けた。
『何言ってんだてめぇ、田舎モンが俺たちの女を奪ろうってか?』
『痛い目見てえのか?』
殺気立つごろつきどもに、女の顔から血の気が引く。目が合って、青ざめた表情の女に桐生は笑いかける。
前半二十分、フリーキックから見事一点を決めた時のような余裕のある表情だった。
「大丈夫、すぐ助けるからな」
女にとってその言葉の意味はわからなかったが、穏やかな男は自分を助けようとしていることだけはわかった。
桐生は視線をごろつきどもに戻すと……ポケットに手を入れたまま、自らの傍らに燃える炎塊を出現させた。
『?!』
「火傷したくなかったら、とっとと逃げたほうがいいっスよ。俺も、人相手に使うのは初めてなんでね……!」
ごうごうと燃えながら緩やかに自転する炎の玉は、桐生が想像しやすいサッカーボールサイズのものだった。
それ以上大きなものを扱おうとするとコントロールが難しく、脅しに使うにはこれくらいだろうかと睨んだ桐生の目論見通り、ごろつきどもはさっきまでの態度が一転して弱腰に後ずさる。
そのまま何事かを呟きながら路地の奥へ逃げていくごろつき達を追うこともせず、桐生は炎を漂わせながら女に向き直る。
見れば見るほどそっくりだ。目を見開いて、口をぱくぱくさせているところを見るに自分の炎に驚いているようで、この世界には魔法があると聞いていたのにここまで驚かれるものか、と桐生は訝しむ。
「ふぅ、大丈夫っスか? ……って、本当によく似てるな……へへ、礼ならいいよ」
しかしその疑問よりも前に、想い人とよく似た顔の女を助けられたことに桐生は浮かれていた。颯爽とヒロインを助ける主役の登場、そのワンシーンの中心が自分であることに悪い気はしなかった。
「……えっ?」
だからこそ、差し出した手を強く払われたことにひどく戸惑った。
意味が分からなかったからだ。自分は危ういところを助けた勇者のはず、それともあのごろつきどもはこの女にとって何か易のある者だったのか。
いや、あの怯えた表情は本気で怖がっているときの顔だ、自分がこの顔を見間違えるはずがない。
身を強張らせる桐生を他所に、女は一瞬の隙をついてその脇を抜けて駆け出す。足をもつれさせながら通りに抜ける女を追うことすら考えない桐生を他所に、自分を激励してくれた想い人と同じ顔で恐々とした声で叫ぶ。
『だ……誰かっ! 衛兵を呼んでください! 金魔術師がっ、違法魔術師がいます!!』
そして、この世界で金魔法……無から有を生み出す至高の魔術が禁忌とされていることなど、桐生が知らないのも無理からぬことだった。




