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ep147.チーズの海

目標:冒険者試験に合格しろ

 子供ながらに、チーズは好きだった。

 ピザやグラタン、西洋料理に使われがちな蕩けた乳製品はどこまでも濃厚で、舌に絡みつく熱々な食感といい幼いころから大好きな味だった。

 和食が中心だった我が家の献立で成長した俺にとって、たまの外食や宅配ピザなんかで食べられるチーズは間違いなくハレの日のご馳走で、口周りを油でベタベタにしながら食べていたことを覚えている。


 ただし、入院してからはそれも満足に食べれなくなった。病床にあり、一日一食どころか消化機能の低下した胃腸にはチーズという高脂肪食品は毒も同然だからだ。

 味の記憶だけは残り続けていた俺がそれを満足に食べることもできない体を苦しみ嘆くのは簡単だったが、それをしてしまえば父や母が悲しむことは間違いなかった。

 だから、いつか体が治ったらまた食べたいものの中には、たっぷりのチーズをかけたグラタンやピザなんかも入っていたのだった。


 それが今、こんな形で叶うとは。


 蝋燭のような燃料がメラメラと燃えている台座の上に、少し小ぶりな陶器の鍋がどんと置かれている。

 火の当たる底なんかは真っ黒で、側面も少し黒ずみ始めた年季の入った茶色い鍋だ。

 その中には、白い溶岩が広がっている。ふつふつと気泡と湯気を立てる乳白色のそれは、乳製品特有の得も言われぬ芳香を立てていた。

 嗅いでいるだけでエネルギーをもらえそうな濃厚な香りに負けじと俺はフォークで皿の上の小麦パンを突き刺した。その勢いのまま、じゃぼんと白い海へパンを突き落とす。

 岩の塊のようだったチーズが熱を加えられてどろどろに溶けたそれはまさにマグマというに相応しく、しかしけしてパンを焦がすことなくねっとりと絡みついていった。

 チーズの脂肪分、そして溶け合ったミルクの水分を吸って、ひたひたにしぼんだパンを俺は木皿の上に引き上げる。

 アツアツのチーズがしみ込んだパンを二度、三度とふぅふぅと冷まして、一息に頬張った。


「~~ッ、熱ッつ……!」


 舌を、歯を焼く温度に満足に咀嚼できず、口の中にぼんやりとミルクの味わいが広がる。鼻を抜ける強烈な香気からは、発酵臭らしい酸味のような味わいも感じられた。

 はふはふと口の中の空気を入れ替えるように呼吸を繰り返すと、取り入れた外気が口の中の熱量を慰撫して急速に冷ましていく。


 ようやく歯が立つほどの温度に下がったそれを、俺は矢も楯もたまらず噛み締めた。

 チーズを吸ったスポンジのようになったパンからじゅわりとミルキーで濃厚な味わいが溢れ出し、口の中が唾液でいっぱいになる。

 主張のない小麦パンは現代日本で俺が食べたようにしっとりと柔らかいなんてことはなく、固くざらついた口当たりだ。目の粗い生地だからこそ、これでもかと染みついたチーズが咀嚼のたびに溢れ出して、最大限に主張してくる。

 焼いてから日数が経っているのか、固くなったパンのクラスト部分もこうして切り出されたものをチーズに浸して食べると、じゅわじゅわとした食感の中でカリッとしていいアクセントになっていた。きつね色によく焼かれた香ばしい小麦の香りもチーズの発酵臭と牛乳の風味によくマッチしている。


 これがチーズフォンデュ、これがベルンか。

 目を瞠るほどの美味に俺が急いでパンをもう一つチーズに潜らせているのを見ながら、オルドは自由に動く手で蒸した鶏のささみ肉をフォークに刺して言う。


「随分とまあ、ガッつきやがって……そんなにうめェか?」

「うん!! おるほ! ほれうんまいなぁ!!」

「食ってから喋れっての」


 俺がうんうん頷きながら答えると、虎は控えめにチーズをまとわせた鶏肉をふぅふぅと息を吹いて冷ましてから口にする。

 その間に俺は二つも三つもパンや肉類、そして野菜類も忘れずチーズにまとわせて口の中に放り込んでいった。

 大皿の上にはチーズにくぐらせるための食材が山ほど乗っていて、パンのほかにも肉類や、ニンジンやジャガイモなんかの根菜類、そして緑色をしたインゲン豆やブロッコリー、アスパラによく似た野菜類も一緒になっている。

 そのどれもが事前に蒸されたり茹でられたりと火を通されていて、人気店というだけあるバリエーションと仕事の丁寧さだった。

 食べ慣れたパンはもちろん、ジャガイモなんかもチーズに合うことが目に見えていて、実にオルドが一つ食べるうちに俺は二個も三個も皿の上の食材を味見していく。

 鍋物に値するこの料理は大型ネコ科のオルドにとって食べるのに向いてないのでは、という懸念はこの一面のチーズの海を前に吹き飛んでしまっていて、既に目に入らなかった。


 まだ口に頬張っているというのに次々食材をチーズの鍋に突き落として乳白色まみれにしていく俺を見ながら、オルドはクツクツと笑って給仕からジョッキに注がれたエールを受け取る。


「もぐ、ぁんだよ」

「いや? 別にィ、なんでもねェよ」


 人の食事の様子を愉快そうに眺めながら、虎は木のジョッキに並々注がれた麦酒をごくりとひと呷りする。

 何見てんだという目で俺はオルドを睨みつけるが、チーズの海から引き上げた肉団子をひと齧りして目を丸くした。

 挽いた豚肉に香辛料を混ぜて茹でるなりして火を通したそれが、チーズと共にいただくとあまりに絶品だったからだ。

 口の中で咀嚼されてほどけた豚肉の塊から香辛料の風味が肉汁とともに溢れ出して、表面にたっぷりまとったチーズと絡み合い渾然一体のハーモニーを奏でている。

 濃厚な豚肉にチーズを合わせた重厚なうま味の中に、苦いような、青臭いような香気を感じる。ただ濃厚なだけでもうまいのに、味が単一的にならぬようスパイスの風味で表現された重層的な味の世界はこの世界で食べた中でも一、二を争う美味のように思えた。


 いや、俺がただ単に腹が減っているからというだけかもしれない。確証が持てなくて、俺は対面で優雅そうに構えている猫舌に持ち掛ける。


「おるどっ、これ! この肉団子食べた?!」

「あー? まだ食ってねえがどうした」


 どうやらこの店に連れてきたオルドも知らぬ味のようである。食べたことがないのか、それとも最近出したメニューなのか。いずれにしろ、この美味を知らぬことは人生において多大な損失であることに違いはないだろう。

 俺は大皿の上の肉団子をもう一つチーズの中に放り込むと、存分に白濁にまみれたそれをふうふうと軽く冷ましてから対面の虎の顔面に突きつける。


「おい……」

「これ、マジでヤバいぞ! 食ってみ!」


 虎は少しだけ怪訝そうに鼻先のそれを見て、ちらりと俺の顔を見た。

 それからやれやれとでも言いたげに、億劫そうにがぱりと口を開けると小さく見えてしまう肉団子を一息に頬張って、獣の口で器用にフォークから外してみせた。


「あッぢ……」


 まだ冷ますのが足りなかったかなと少しだけ反省しつつ、虎がはふはふとマズルの先から熱気を逃すのを見つめながら俺は興奮気味に問う。


「めちゃくちゃ美味くねえ?! これ食ったことある!?」


 スパイスというとカレーに使うような香辛料しか知らない俺は、こんな味も表現できるのかとつい興奮してしまう。

 それだけでなく、ここ最近旅先での野営のために料理を覚えようという気になっている俺にとっては間違いなく衝撃の味だった。

 口の中で冷ました肉団子をゆっくりと咀嚼し始めた虎の表情は、しかし目に見えて驚いた様子はなかった。


「……あぁ、美味いことには美味いな」

「だろ?!」


 衝撃を受けた身としてはもっと美味しそうな顔をするとかあるだろ、と言いたくなる気持ちもあるが、とりあえずはこの仏頂面が同意してくれたので良しとした。

 オルドは噛み締めるように咀嚼したそれを飲み込み、ジョッキをもう一度呷る。マズルの嚙み合わせを縁取る黒い唇をべろりと舐めると、こう言った。


「ただ、わざわざ食わせてもらうほどでもねェと思うがな?」


 それが味のことを言っている、というわけではないことにすぐ気がついたのは、これ見よがしにオルドが机の上に肘をついて自分で持ったフォークをぶらつかせていたからだ。


「あー……いやその、癖で、つい」


 しどろもどろになる俺に、虎はフンと鼻を鳴らす。

 それから「ま、楽なことは違いねェけど」と言って自分の手で持ったフォークをジャガイモに突き刺した。


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