ep107.獣人と原人
目標:錫食い鉱を王都に納品しろ
幼い頃、体を蝕む病が発見されたかされてないかというくらいの時分に飼っていた猫を母親が風呂に入れているのを思い出した。
濡れた猫の毛を撫でるように濯ぎながら、あの頃は濡れそぼった毛皮のまま家の中を逃げ回られて苦労していたなぁと俺がしんみりするのも露知らず、目の前の山吹色から声がする。
「おう、なかなかうまいじゃねェか」
「そりゃどうも……痒いところございませんかーっと」
「もうちょい右も頼む」
足首ほどの深さの川にどっしりと座り込んだ虎が丸めた背中に水をかけて梳く俺の手つきを褒めるが、大して嬉しくはなかった。
手首から先ほどまでは動くようになったという両腕をだらんと前に垂らしたまま両足を開いて座り込むその姿は、こうして他人に毛繕いさせている姿も相まって猫というより大きな熊のぬいぐるみのように感じられる。
背中に広がる、魚の骨や葉っぱの葉脈などを思わせる黒い縞と、オレンジがかった黄色い毛皮をかき混ぜるようにわしゃわしゃとその背中を掻いてやると虎の尻尾が小さく踊って反応を返した。
「お前、そこまで濡れたンなら脱いじまえよ」
「んー……それはそうなんだけど、飯食ったらでいいかな」
首を巡らせて肩越しに俺を見上げながらオルドがそう言うが、やんわりとそれを拒否する。
その提案は至極合理的なものだが、俺から言わせてもらえば人通りがないからとはいえよくもまあ平然と屋外で素っ裸になれるなぁというところだった。水桶代わりの洗った鍋で川の水を頭から掛けながら素直に感心してしまう。
獣人としての感性なのか、あるいはこの時代に生きる旅人としての常識なのかというのは判別がつきそうもないが、せめてもう少し日が暮れてくれないと俺は脱ぐ気にはならなかった。
川の流れはゆるやかで、思ったより冷たくはない水温は入る分には快適そうだがやたらと細かい石が川底に転がっているので天然の足つぼマッサージのようで少し痛い。
オルドは痛くないのかと訝しむが、人と同じ形の足はその裏に黒々とした肉球を備えていて、皮が厚くなったそれは皮膚感覚が薄そうだった。
そう思うと、出会ってからこうして食事や風呂を介助するような仲にはなっているものの、獣人という種族をそういうものとしか認識していない俺はその体の作りや仕組みについては知らないことが多いと感じる。
「なあ、オルド」
「ぐるるる……あ? なンだよ」
俺の太腿ほどもあるのにその筋肉がぴくりと動くこともない二の腕を、第一関節まで指を立てた手で梳くように掻いていた俺に尋ねられて、オルドが僅かに振り向きながら聞き返す。
「獣人ってさ、ヒトとどう違うんだ?」
「……なンだ、今度は」
「思えば体の造りとか全然違うよなって思ってさ。どうなってるんだろうって気になって」
「お前のとこにも獣人くらいいただろ?」
「いや、それは……そうなんだけど、あんまり詳しく学ぶ機会もなくってさ」
咄嗟に嘘を吐いた俺に、オルドは毛皮を掻かれながら「ふーん」とだけ返す。
「大して変わらねェよ、と言いてえところだが……少し長くなるぞ?」
逆に問われて、目の前の虎がヒトとどう違うのかを教えてくれればいいとその程度に考えていた俺は逆に面食らってしまう。
とはいえそれらについて知りたいのも事実だ、ミオーヌでも見た限り獣人というのはそれなりにポピュラーな種族のようなので、関わり方を学んでおいても損はないだろうと思う。
あと単純に、黙ったまま体洗ってるのも気まずいし。
少し悩んでから聞かせて欲しいと答えると、承ったとばかりに「はいよ」とオルドが言って、濡れた耳の付け根をわしゃわしゃと俺に撫でられながら虎が言う。
「人類の興りを記した教典曰く、まず大前提として獣人とヒト……お前さんのような原人は、古来より互いに共存してきた存在でどちらも人の種族の一つに過ぎんとされているな」
「原人……?」
「おう。その言葉の始まりも、俺みてェな獣人が獣を祖としていることから獣の人として呼ばれるようになったことに対し……原人は、その祖が人そのものであると言われてるもんで、始原の人、即ち原人と名乗るようになったンだと」
「うーん……?」
始原の人、なんて広く名乗るには立派すぎる気もするが翻訳石の問題だろうか。
それに、原人って聞くとどうしても人類の進化の歴史におけるネアンデルタール人とか原人とかそっちの方が頭を過ってしまう。
ピンと来ていない俺が虎の肩から水を掛けると、その尻尾がぴちぴちと左右に踊った。
「ワケわかんねェ話だと思うのも当然だ、何しろ大昔から言い伝えられている教典の話だからな。人類の興りを示したっつってもそれは今は亡き古代の言葉だ、解読する神学者達の間でも未だに解釈が定まってねェんだわ」
「まあ、獣人が獣や動物からってのはわかりやすいけど……その話だと結局ヒトの祖先については何もわかってないってことでいいのか?」
「そうだな、ただ説自体は多くあるぜ。ヒトは神から作られ与えられたって神授説もあれば、遥か彼方の星々から渡ってきた渡来説、更にはヒトも獣人も同じように動物から進化したって考える進化説を採る学者とで言い出したもん勝ちの様相だ」
プラスチックファイバーみたいな濡れた猫髭をピクつかせて、虎が続ける。
「この辺りになってくると個人の信仰やら宗派とも関係してくるンでな、一概にどれが正しいとも言えんが……まあ、こんな学問にのめり込むのは暇な貴族や学者達くらいなもんで、互いが互いを否定しあう宗教戦争に興味がない限りは、それこそ俺らみてェな労働者にはいまいちピンと来ねェ話ってのが正直なところだ」
ふーんと相槌を打ちながら虎の背中をがしがしと掻く俺は、人は猿から進化したんだぞとここで主張する気にもなれなくてただその話を聞いていた。
何しろ俺もその手の話に明るいわけでもないし、義務教育と高校教育課程を終えただけの知識では人類学的にそうらしいと言うだけで、民俗学にどうかというのは判じれなかったからだ。
キリスト教だかの聖書だと神が人を作ったとされているし、そもそも人が猿から進化したというならば猿の獣人というのはいないのかという話にもなってくる。
更に言えば、原人どうこうというだけでなく獣人が獣や動物から進化したというのも怪しい話だ。
果たして動物がどのように進化を遂げれば、人間そっくりの骨格を持ちながらも獣の頭を有した存在になるのだろうか。染色体や体の造りなどを考えると自然にそうなったとは思えないが、かといってそれを証明するような知識もないのが歯痒く思えた。
俺からしてみればファンタジーな世界だから何でもアリなんだろうけど、それだけで成り立ちが誤魔化せるはずもない。納得のできる説明が欲しいところだったが……中世ヨーロッパほどの文明レベルであるこの世界で、現代人の俺向けの説明を望むべくもないことはわかりきっていた。




